るつぼ

 

 

 

本日の夢は冒険風味。空を飛んで逃避行をしていた。実家が山の中腹くらいにあり、風景的に滑空したら気持ちよさそうだなという根があるのか飛ぶ夢は折々出てくる。ただ、何故かいつも誰かに追われている。関係ないけれど、夢は情報を整理するためにあるとすれば一向に夢に出てくれないというのは、整理したくない対象なのだろう。なるほど、これが現実的対象ということか。

 

鯖の水煮缶を買ってあえて味噌煮風味にした。最遅番の時間帯だとスーパーに生肉が残っていないのがデメリット。連日鯖缶になったからちょっと味付けを変更。あっさりだから深夜に食べても胃がもたれないのがメリット。

 

 

さておき。

 

今のアニメは「うしおととら」。妖怪バトル漫画みたいだけど、「生きている」とは何か、「心とは」というテーマな気がする。最後の「俺を食うんじゃなかったのかよ」「もう腹いっぱいだ」ってやり取りは思い出すだけで泣きそうになる。この漫画、初めて読んだのは家族でドライブに行ったときの飲食店の雑誌だった。どこだったのか、何話だったのかは覚えていないけど、残っている。

 

 

「思考地図」はやっぱり買った。かなり最近の書下ろしみたい。某事態にも言及されている。そういば、某宣言によって自粛にならないかと思い一瞬だけ情報をチェックした。5000人を超えるものでなければ自粛対象にならないというところを見て一安心。個人的には宣言があろうがなかろうが何も変わらないから調べることに優先順位がない。

 

「思考地図」の学者さん、印象としてはすげぇ自信満々な感じ。考えるためには前提となる知識というか情報が必要という言は分かるけど、この人は完全に知識は財産で溜め込むものなのだろうなと読める。分かるし、そういう目的があるこそ本が読めるというのも分かる。新しいことを採り入れた感動を衝動することが原動力になっているというのも共感できる部分はある。たぶん、歴史学が現実に起こったこと(事実)を対象とするものだからだろうな。でも、個人的には史実って事実なのかという疑問。歴史的事実ではあるだろうけど現実的事実と言えるのか。

 

僕が、ん?と思ったのは、思考のプロセスにおける入力段階について。確かに新しいことが入力されずに考えるだけでは思考は何処にも辿りつけないとは思う。ただ、入力することで頭の中を図書館にするというイメージは全然共感できない。ためこんだ知識を自分が持っているものとして、頭の中でその本を読むというのは分からなくもないけど、僕の心象イメージとは随分違うなぁって。結果的には同じようなところなのかもしれないけど、どれだけ読んでも僕は増えない。夜に月が浮かぶ海みたいなもので、知識は所有するものではないのだよな。

 

何かを考えようと意識すれば応じた概念が顕れるけど、これはワード検索したら出てくるようなインターネットみたいなデータベースではない。こういった概念は物質的な意味で持っている訳でもないはずで。調子の良いときには逆に出てこないとか、ある感情とか現実とか勝手に出てくるとか、いつでも手に持てるものではないから。でも、こういう過程は捨象されて、自分が思い通りに自分データベースから取り出されているという認識になることも分かる。だって、そうなってないと自分の努力が無為になるし。

 

あと、僕は読めば読むほど自分が軽くなっているし、自己観なんて要らなくなっているから同じ読書95%でも何か違うのだろうな。自分を補強する為とかどうでも良い。自分の面白さの為ではあるけど、面白いかどうかは目的ではなく過程だ。

 

勝手に連想されたこと。

 

朗読者の終盤で、主人公が収監された文盲の好きな人に、ひたすら朗読した録音テープを送るというシーンがあるのだけど、あれ、なんだか似ていると感じた。僕としては返答がないことのほうが好きな人の本質だと思っているから微妙なずれがある。僕に発したいことなんてないで良い。

 

あと、ホモサピエンス全史で「闘争」が出てくるのも僕の現実とある程度共通項があって、僕にとって現実的生活も読書も、「いま」なんだろうなとなる。

 

「あぁ闘争」の話なのかな。曰く、生物の存在意義は生存することで、そのためには闘争があり、闘争して勝てない個体は淘汰されるのが自然だ。ここに疑義を持つことは自然法則に闘いを挑むことだから負けが決まっているみたいなフレーズ。分かるし、この自然状態って別にここで言われているだけではなく、近代憲法が生まれる前にも言っている人がいた。人が何のルールもなく集団になったときには暴力が支配する闘争状態になるから、秩序付けるために国家が暴力を独占する必要があるという言説。

 

 

これって、確かに、命の奪い合いみたいな極限状態ならそうだろうなと思うけど、こういう意味の戦争がない日本でも争いが絶えないのは自然のインストールでは説明できないと思う。存在が拡張したから守るべき範疇も増えたという観念なら分かるけど、自分の精神性を保持するために、争いって本当に必要なのか。他のところを言い訳しているような気がする。

 

人間は良い言い訳をみつけたらそこに逃げてしまうと言っていたのは新刊枠の物語の登場人物。自分の所作・振る舞いに理由を言葉でつけなきゃいけないことはある意味逃避なのだろうな。

 

人が争うとき、いったい何を守っているのだろう。

自分が認識している世界が他にも適用できるはず、自分の突発的怒を正当化するため、守るものがないと闘争は起らないと思うのだけど。僕の文脈ではあくまで抵抗でしかないな。自分が自由であることって、他人との共通項を見つけることではなくて、自分と他人が違うから始まる。

 

僕にとって言葉とは無限の海から掬い取って取り分けた雫でしかないから枯渇することはないんだよな。掬えないときもあるというだけ。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

無重力

 

 

 

今朝はかなり精神的に引きこもっていると観測された通勤時間。可能性と未来の現実化について、未来の可能の数を思考で増やせば増やすほど、それ以外が起こった時の現実は狭まる。だいたい思ったことって起こらないしな、とかぐるぐると。

 

実際の現実ではとても元気だった。そういえば、昨日の帰り際声の調子が悪そうだった最遅番の先輩が案の定体調不良で休みで、急遽30分残業になったのだけど。疲れるという概念がない。ちゃんと寝ているし、中と外が分けられているからなのか、そういった単語も自分の中に浮かばない。遅刻という言葉もなくなった。

 

 

さておき。

 

「思考の地図」ではなく、「思考地図」だった。立ち読みだと物足りないからさっさと買うか。研究者という職業は95%が読書だというフレーズがあり、なかなか魅力的。僕は自分のことも世界のことも研究しているのかもしれない。ただの野良研究者なので何処にも効用はないけれど、読むことは一生やめられないだろうな。

 

読むことと見ること違いって、主観的なのか客観的なのかにあるのかもしれない。読むは自分との相関で、見ることはあくまで確立した自己から世界を眺める視点。でも記録になると意志を介在させるだろうし、本質は対象によって自分が変化というか揺れるかどうかなのかも。いや、揺れている気もする。なんだろうな。

 

引きこもり精神での思考として、「人は素である必要はあるのか」という命題について考えた。素でなくても生活が良好で安定していれば問題はなかろうなという一般論から、僕は素で在るほうがとても元気で楽だと思う。

 

寂しいとか切ないとか嬉しいとかかわえぇとか、自分の感情の機微を観測できるのはある意味では煩わしいことかもしれないけど、個人的にはちゃんと素を捉えていると感じる。一般的な状況設定における語義ではなくて、これしか言葉があてられない感情。ほんとひどいときは何も感じないから。20代のほとんどそんな感じだったのではという感じ。診断受けたら鬱だったのじゃないかなと思えるくらい。お酒を飲みすぎて平気で遅刻するとかやっていた。自分と世界の間に膜があって相手が何を言っているか、言語的には分かるけど意味が分からないみたいな。

 

この文脈において、喜怒哀楽を現実化できることが素かというとちょっと疑問ではある。自然と出てしまうというのも分かるけど、たぶん感情自体には操作性はなくてもそれを世界に開くかどうかには操作性があるしおそらく完璧にコントロールできる範疇のものでは。寂しさは仕方がないけど、寂しいと実際に対象に言語化するかどうかは別問題。

 

僕の素はあんまり悲観野郎ではないらしく、未来においてどう遊ぼうかみたいなことを考えるみたい。ほんとは有用性とか効果とか知ったことではないらしいし。というのは自己観測からの抽出。例えば人は何も義務がないときには怠けるというのは枷でしかなくて、怠けるか怠けないかも自由よなとか、努力には意志が必要だとか、継続には理由があるとか、そんな一般論はどうでも良い。

 

何かが現実化されるのは確かに原因があるのかもしれないけど、今まで世界を観測した限り言語で表現できるものではないと思う。これと同列で、言語化された自他の性質も足りてないと読む。たぶん無意識では共有されていて、例えば履歴書に手書きを求める文化とかどれだけ丁寧に書いたかでどれだけの熱度で志望しているかを推論する間接証拠にしているのだろうな。言葉だけなんて誰も読んでいない。

 

 

という文脈で、「ロミオとジュリエット」。演劇とはこれなのか、無茶苦茶面白くなってきた。舞台と自分は別の世界だと思わせて、暗喩を通して観劇者を揺らがせる。「どうしてあなたはロミオなの」という有名な台詞は流石に知っていたけど、仇敵の家系に生まれたことを嘆いているのは読んで知った。その後の「バラは名前がなくなっても薫りは同じだ」という台詞と連動させると、社会的記号としての呼び名と実体は乖離していることを無意識に響かせるのだろう。当時の社会状況は知らないけど、貴族はあっただろうし社会的な名に縛られて人生を過ごした人はいっぱいいるはず。

 

これは別に昔の話でもない。実名を外に向けても大事だと思う人はいるし、苗字が変わることでアイデンティティを喪失したと思う人も居る。名前は記号だけではなく社会的な評価とか意味も付属していると見れば、貴族があった時代とそんなに変わらない。○○家が固有名詞になっただけ。

 

ここまでくると僕は好きな人と恋人になりたい訳ではないと分かる。

パートナーも嫌かもしれない。

 

僕は自分の名前のカタチは凄く好きだけど、社会的に呼ばれる名前が変わったとしても自分の中の名前が変わる訳でもないから、特に頓着はない。なんなら社会において正解の音で読んでくれる人の方が少ないし。中の名前と外から呼ばれる名前は別に連動させなくて良いのでは。自分の中では主語は要らないし。

 

頓着と言えば、仏教。脳は私ではないの中でかみ砕いて書かれていた。人が苦しいのは「渇愛」によるから、良いことがあればあるほどもっと良いことを欲するし、悪いことがあればそれがないことを欲する。苦しみから逃れるためには、「経験したいこと」ではなく「今何を経験しているか」を見ることで、そうなるためには修行が必要らしい。良いことも悪いこともそのものと捉える。はて、僕は修行をした覚えはないけどなんだかそうなっているな。

 

もちろん仏教徒ではないから、自分を絞る修行をすることで苦しみから解放されるというアプローチは取っていない。哲学とか他のところを読んで、自分の中にある当たり前を更新させてきただけ。「脳は私ではない」は見解を更新させそうな感じ。イデア論デカルトさんも、人の認識は個人の中にしかないということだけど、もっと客観的世界があるのではないかという一般化。僕は世界がどう見えるか個別的だとしているけど、その主観の対象になる前のものは客観的だということが書かれていそう。

 

要は、僕は自己認識として更新不可能な部分を決めていないから、本を読んでもいちいち驚けるし、知らなかったことは全然恥ではない。自分を自分で決めなくても勝手に自分だし。まぁ決めないといけない感覚も分かるのだけど。決めてないと不安だろうし、未知未知の世界において自分すら未知とか大変だ。

 

次の試行としては、未来とか世界でも遊ぶだな。

 

でも、他人の世界線に越境するのは不謹慎な気もする。

いやしかし(葛藤)。

 

まぁなんとでもなるか。世界には収束性があるだろうし。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありよりのなし

 

 

次の本の目星も付けた。「思考の地図」という、歴史人口学者?さんが書いたもの。ホモサピエンス全史もフロムさんもこの話題棚なのだけどなかなか熱い棚だ。

 

うーん、なんとなく言葉があまり出てこない感。思いの外寂しいというか、無力感。確かに肉体を枠にすると人はとてもちっぽけだ。やはり感情にはなかなか操作性がなくて、感情込みであんな思考をしていると変なことになる。

 

自分に有用性とか効果があるとなんで思ったのだと。

馬鹿みたい。

 

こういうときはたぶん書かない方が良いのだろうけどスケッチしてみる。

 

さておき。

 

1日は問題なく。

 

夢で電話がかかってきた。母親が取次いでくれたのだけど、最終回の人とのこと。寝ぼけて取ったら、私のこと分かる?○○です、と。むにゃむにゃしていたら、なんとなく誰か分かった。中学校の時の同級生で高校以降一切会っていない女の子だ。折に触れて元気かなって気になる。電話では苗字が変わっていて大変みたいだけど元気だった。某宗教の家系だったのだけど、話している限りそんなことはなかったし、なんというか、人間的に安心できていたのだろうなという感じ。そんなに会話をしていたという記録もないのになんだか印象として忘れられない。ただ、名前の漢字がなんだったかなというのが特定できない。他のどうでも良いクラスメートは割とフル漢字で再現できるのだけど。

 

記憶として再現できないものの方に気持ちが向いていると観測できる不思議。この人といつもつるんでいたもう1人は同窓会で会ったけど、なかなか面白い人物だったな。

 

全然利害関係ない人に対して元気かなと思う自分を観測するとちょっと暖が取れる。

 

仕事は、ややこしい案件が多くて、そうすると上司に聞かないといけなくて、先輩もぽんぽん聞いている中、なかなか割り込めずなかなか自分の人間性は厄介だなと観測した。雑談での話題も殺伐としている。空気を読んでそれより楽しいこと話せば良いのになんて言えない。居場所はなくても良いけど、狭いのは嫌だな。

 

帰ってからの方がかえって生き生きしている。着替えて活動するまでにラグがない。工程としては、刃牙道、民事訴訟法、民法憲法行政法を1時間で少しずつ読んだ。生活と繋げて面白いのは、あんまりないな。あくまで有事のルールだから。

 

そこから弁当作って、お風呂で本を読んで、ここに至る。雨が降っていたから弁当は職場の休憩室で食べたのだけど古参の先輩も休憩室にいて、休憩が終わった後に席に着いたら横目で見ていたのか、毎日弁当作ってるん? はい。 偉いなという下り。ぼそっと、暇なのでって呟いてしまったけど聞こえたのかどうかは分からない。なんのこともないやり取りだけど、偉いと評するくらいなら気にかけなくても良いなと思ってしまうひねくれ者。偉いって比較に遣う言語だし、僕は誰かと比較のために毎日ご飯作っている訳でもないし。

 

負に寄ると世界がこんなことになるから嫌なんだよな。良い時だったらたぶんなんとも思わない。こういうのは相対的自己不信が優位になると起こる。この文脈では、人って人に対して何も言わないだけでもしかしたら僕と同じくらい人を見ていて、僕の観察眼なんて大したことないという想起が生まれる。

 

パートナーで充足しているのに、もっとファンが欲しいと公言している人を某所で見かけて、なんでそうなるのだと思ったけど、そういう貪欲さが本質なのかもしれない。好意の収集ができるということは、個人的なパートナーに対しても同じ指標で捉えた上で、一番価値が高い人ということになると思うのだけど、おそらく二重の基準が働いている。ここがよく分からない。人は人でしょう。僕が具体的に捉え過ぎなのか。

 

好きな人もこれだったら良いな。

僕が見られない日記のところで、変な奴がまとわりついているという苦言を呈していてくれれば、なんとも楽になりそう。僕は別に思いやりがある人物ではない。唐突に冷める傾向もある。個人的関係において抽象化ないし自分を充たす道具とされたと感じたら誰でも良いんでしょうとなる。

 

でも、実際の生活において人を自分と同化しないでおけるなんて無理では。僕もこの見解になった後やったことがないから不明。放屁すらできないし相手を尊重し続けるって普通に考えて仕事より大変だと思う。楽になるためのパートナー関係が普通だろうし。

 

寝るときだけ同衾がベストか。

僕が相手を甘やかすのは良いのだけど。もうそろそろ終わりなのに、好きな人の頭を撫で(略)。

 

 

思考については、それぞれの本の見解が錯綜しているからなんとも。意識がどこにあるかなんて定義する必要はあるのかどうか。

 

今ここにしか自分はないというのは心理学で良く言うけど、未来の事象において自分がそうすることが今決められるのであれば、もう、未来は今だし、今ここすら捉えられていないのが人だからあえて出てきた見解なのだろうな。

 

読むことも見ることも対象がないと在りえない。

 

 

うむ。断片的にしか言語化できなくなっているな。

負に寄ると、生活と言語化は全く関係ないのだから、あえてここを流通させる必要はあるのかとなる。必要とか意志とか分かり易い定義に寄りたくなる。

 

ほんと、閉じるときは完全に閉じるからなぁ。

 

では、おやすみなさい。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

脳と私

 

 

本を読んでいると物理的に頭が痛くなるときがあるのだがそろそろ血管が爆発でもするのだろうか。水分不足かしら。

 

 

本日は髪を切りに行った。ちょっと早かったかもしれない。次に切るのはいつにするか微妙なところ。切ったばかりだとさっぱりしているけど、馴染むのは少し伸びた後。まぁ考えよう。店員さんとはまた面白く談義した。ほんとに楽しそうにしてくれる。たしかに人と会うのは楽しいことだな。分析してみると、おそらく素朴な一体感というか自分は独りではないという感覚を得ることができるから。人に会えないことが苦痛になる人の気持ちも分かる。

 

ただ、こう店員さんに対してすら、自分はそうではないと思ったことに対してスルーしてしまう傾向も見て取れてしまう。今はゲームする時間がないですよねと同意を求められてそうですね、と答えた。ゲームはしたいけど他にすることがあって時間が取れないということだろうけど、僕の中での厳密は他にすることに時間をあてているからゲームをしたいとも思わないし、ほんとにしたかったらするだろうとなるから、時間がなくてしていないとはならない。ゲームをしていないという現実は一致しているから別に訂正したいとも思わないけど、同意型で発話する人はちょっと苦手かもしれない。グルーミングとしては分かるが。

 

自分の認識と誰かの認識が一致していることってそんなに大事なことなのだろうか。事実を共有する、うん、分かるけど、その時空において何を見て残すかって個体差があるから共通項より齟齬を許容できるかのような。

 

予約した時間が早かったため、そのまま買い物して帰るのではなく寄り道した。電車に乗ってお買い物。なんだかんだ人は多い。やっとのことで緑色のリュックが見つかった。ブランドもよく分からないけど、ピンときたので即とは言わないけど購入。一応他も回ってみて帰ってきて。あとはマフラーだけど見つかるかね。だいたいイメージは固まっている。

 

もちろん本屋さんにも寄る。芸術と脳の本が終わったから後釜のため。面白かったけどもっと踏み込んでくれるのかと思っていたのにちょっと違った。脳が世界をどう認識するかと芸術は相関しているという発想は美味しい。昨日の日記で教育学が出てきたから入門書でもあればと思い教育の棚に向かう。残念、教育論はあっても教育学はなかった。この本屋さん最近だいたいこんな感じ。刑法の本も第2版出ているのに1版が置きっぱなしだし。疲れを感じる。

 

教育の棚の反対側は心理学でまじかーここかーと思いながら眺める。心理学の細分化も凄いな。ストレス心理学という本もあった。個人的に心理学は個体経験で十分賄えるので研究してもしきれんやろという見解。条件付けとか面白いと思うけど。この下の列は哲学でユングの「原型論」の分厚い本とか、意識は0,5秒後にやってくる話とか、美味しそうな本が目白押しだった。結局脳繋がりで、「私は脳ではない」にした。序論を全部立ち読みしてホモサピエンス全史と食べ合わせ良さそうで。

 

意識とは何ぞやの話なのだけど、意識という概念も人類の歴史からすれば最近生まれたものだということから始まる。僕はこういうのを発明品だと呼んでいる。宗教とか法律とか倫理とかもそうだろうな。自然科学における現象の方程式化は発見されたものだけど、意識は発見されたものではない。

 

ここで、最近ちょこちょこ考えている鍋に、語彙と世界認識の相関というものがある。どこかで外国人は虫の声が生活音から独立して把握できないという話を見たのは割と前なのだけど、ふと、これは日本人の耳の聞き分ける機能が高いということではなくて、擬音語として虫の声が用意されていることによるではと考えた。厳密にどちらが先かは分からないし検証がしようもない。もしかしたら生活に関係ない世界を見るという傾向にあって、その中には虫の声もあったということかもしれないし。もともと雰囲気とか空気に当てる語彙が多いような。他の言語はあんまり知らないからなんとも言えないところ。外国語も要るのかぁ。

 

語彙による世界認識の共通項があるかどうかによって「私たち」と「彼ら」が分けられるというのも分かる。僕ももう愛媛の方言は対母親にしか使わないけど、愛媛と聞くとなんとなく愛着を感じるし。文化は言語だけではなく生活も含まれるけど、それを外に伝える手段は言語しかないしな。いや、記録とか物証とかもあるか。

 

そうして、精神ないし意識の話に戻って来る前に。

 

本日の工程としては、帰ってきて本を読もうと思ったけどむずむずにより40分くらいで公募用の自己紹介等の文章を書いた。書いているうちに勝手に言語されてなるほどなと思ったのが、社会に閉塞感があるときほど演劇って重要よなというフレーズ。物理的に動きが制限される時代にこそ心を動かす芸術が必要。こういうのカタルシスっていうのだっけ。どうでも良いけど、ジュリエットって無垢な可愛さがあるな。ロミオはただのイケメンって感じだけど。接吻という単語が好きだ。接吻して罪が浄化されましたというロミオ、ではその罪は私に移ったのですねとジュリエット、では返してもらいますとロミオ(もう1回したいだけやろ)、接吻ごときでおおげさねとジュリエット(背伸び感)。その後の、両家が仲違いしているのに好きになってしまったという下りも悲劇のヒロインぽくて可愛い。

 

 

まだ送ってはいない。添付する文章どうしようかなと。好きな人が独り占めしているのであれば、あれを貼るのもどうだろうなと思わなくもなく。送信は今週末だな。

 

 

はい、戻る。

 

意識は自然かという命題。デカルトさんの魂は松果体にあると同じく、意識は脳という自然に含まれるというのが蔓延っている。この作者デンマークの人なのだけど、問題意識が共通しているなと思った。物理的な自然法則が適用される場を宇宙とするという定義はとても好き。あと、哲学用語の中身を説明してくれることも好き。専門書ってだいたい専門用語は自明として語るから。

 

で、意識は自然法則に従うことでしか宇宙に現われないのも分かる。例えば言葉は、流通するように言語化することで人から見られるものになる訳で、僕の日記がこれ。でも意識の宇宙への現われって、現実世界で見ると発話だけにはとどまらないはず。どういう風に振る舞ったかみたいな非言語とか意識として可視化されていない自分が顕れることもあるだろうし。

 

サルトルが、社会において役割を演じる自由があるみたいなことを言ったらしいけど、なんだかたしかにそんな感じがする。こういう社会的な自然として人を見たとき、諸々の現実化されてない個体の意識なんて見ていたらきりがないから、人は目的をもって行動しているのだという観念が発明される。これが目的的行為論ということらしい。

 

観察できる、観測できる人の現実にはコンテキストがあるという建前。これが拙いなって思うのは、人は目的がない行為もしているでしょうというところ。例えば、制作日誌の中に寒空の中で、ピアノの弾いている人を見かけて意志を感じるというシーンがあったけど、ピアノがあればどこでも弾いてしまうという性質を持った人であればここにあるのは意志ではない。そうしないではいられないというのは意志ではなく傾向でしかないでしょう。

 

という感じで、僕は人が何かをするとき、意志だとする必要もないという立場。なんというか、目的があるのであれば、それが目的であると考える前に行動しているはずで、意志であるではなく、意志であったとなるのではと思うし。好きな人に目的とか動機とかを聞いていたのも、意志的に人を捉えるのであれば、自分もそうだよねという確認みたいな感じ。

 

今はもう切り離したので別になんにも気にならない。

 

目的的行為論は刑法で出てきて何ぞやと思っていたけど、やはり哲学由来だったのか。おそらく存在の観念も発明品だろうな。

 

僕は自分の宇宙への現われは別に意志ではないと思っている。タイミングとか縁とか自分とはあんまり関係ないところにある。言語化もたまたま現われた一角だし、言語化していないところの方が自分だし。

 

おう、もうこんな時間。

 

おやすみなさい。

 

 

足りなさを知る

 

 

 

冬の空気は明るい街の夜空でもはっきり星を見せてくれる。斜めに3つ、ポチポチポチ。少し離れて囲うような4点。オリオン座だったなと思い付き、間違っていたら恰好悪いので調べて確認。

 

小さい頃星とか神話は好きだったけど、星座についてはどう見てもその形が星の並びに結びつかないだろうと思ったのだろう、全然残っていない。大三角形とか天の川とか分かり易いのなら。しかし、本日オリオン座の並びを見上げると何か意味のある形に結び付ける気持ちも分からないでもないと思う。確かに何か意味深ではあった。

 

それにしても、何も起こっていないものを終わらせるってなんとも哲学的よな。いや、たしかに現実的には何も起こっていないけれど、僕は言葉を綴り続けた。具体的にはもはや日記の原型を留めていないここだけにするような感じ。他人で暖を取ってはいけないよなと自戒。とてもファンタジー的だったな。

 

僕が勝手に暖を取っていただけで、僕の言葉には温かみはないよなぁとなんとなく思った。言葉ってきっともっと体温があるものであるような。平熱は高いのだけどそれは言葉には移動されていない気がする。こんな非人間な僕でも「報い」の観念はある。ただ、僕にとって良いことをしてくれたから返そうではないところが変。例えるなら、僕が瀕死になって生還したとして、命を救ってくれたのがお医者さんだったら仕事としてやってくれてありがとうございますとしか思わないし、報いの対象にはならん。いや、これは一般的にもならないか。他人の自発性に対して報いたくなる。そういう言葉の方が信用が置けるし。

 

なんだか、自分が変だと思う人に対して、その変さは個体差であって特別なものではないという言があると思うのだけど、精査していけばいくほどやはり変だなとしかならない。固有の変だから、変な自分が特別みたいな選民思想は生まれないのだけど、きっと共同生活には向いていない。

 

本日の工程。

 

午前中は刑事訴訟法における言葉での証拠の扱いについて考えていた。人が発言した事に対する信用度って一般的には凄く高い。一昔前(今も残っているだろうけど)の刑事裁判は自白を採ったら犯罪成立みたいな向きがあって、拷問によって自白させるということが蔓延っていた。人の発言を事実と混同してしまうことは人として備わった機能なのかも。そこで今の刑事裁判では、人が発言する過程で誤りが生じることを踏まえて、注意深く規定している。具体的には、人が過去の現象に対して発言するとき、前提として、その事象を知覚して、知覚を記憶し、記憶を基に言語化する訳だけど、知覚が正しかったのか、記憶に齟齬はないか、嘘を言ってないかを裁判でチェックした上でしか証拠にしないことにしている。もっと具体的にすると、宣誓させる(嘘を言ったら罰則)、裁判で発言させることで態度とかしぐさを観察する、矛盾がないかを反対尋問でチェックする。

 

とても合理的だけど、ここまで意識して発話している人はおらんよな。それくらい発話には主観が混同されているという歴史的経験則なのだろうけど。

 

この文脈で、報道される事件だけどあれって別にそういう事実があったということではない。そういう事実があったというストーリーを検察官が主張しているということであって、それが無罪になったということはそのストーリーが証拠から認定できなかったというだけ。印象操作が過ぎると思う。もう何年もニュース見ていないけど。

 

言葉についてはまた後で。

 

そういえば、仮定的ストーリーとして1つ思い浮かんだこと。演劇1作目には劇評は公募されていなかったけど、それ以降は公募がある。もしかして好きな人が何か働きかけたのかもしれない。普通に読んだらなさそうだけど、僕の中のこの人はやらかしそうな気がする。考えていないとか言いつつ凄く注意深そう。別に深くなくても良いんだけど。

 

劇評を書いた人を見ていたら僕と同じく皆勤賞の人が居て、肩書きが教育学部の教授だった。文章はなんというかまだ読めなかった。教育学って何を研究するのだろう。児童心理学はありそう。教職取ってないからノータッチなのだけど、定量的に教育効果を把握するのであれば、経済学と似たところがありそう。ただ、学習指導要領の設定に影響できないのであれば、なかなかもどかしいだろうなとも勝手に思う。先生には個別に学童を把握するなんて許されてないし。義務教育で教わる知識が最初の社会的当たり前だから、教育を学問するって社会学とか政治学とかも絡んできそうで想像するだけで大変そう。

 

童話による教育論というか言葉について考えていたときに頭に浮かんできていた童話。

 

オオカミ少年と裸の王様。言葉がどれだけ恣意的に事実を操作できるものなのかの教訓がある物語だよな。今の子供って童話読むのだろうか。まぁ漫画でも代用できるか。

 

人の言葉に信用を置いていないのは、それほど人って言葉と体を連動させていないというトラウマ的な経験則による。その部屋にまだ住んでいるのだからそれほどトラウマでもないのだろうが、当時はなかなか大変だった。

 

そうして、本の師匠がまた出てくるのだけど、僕が心理学を読んだらもっとやばそうみたいな評価をいただいたことがあった。(童貞喪失する時に初めてではないだろうと言った人は別の人)

 

というところで見ると、僕は人の話を聞く人だから、どんなに突拍子もなくてもまるっと受け入れるけど、ほんとに見ているのはあるがままのその人ではとなる。別に意識的に観察している訳ではないから、言語的には気付かなくてだいたいが後の祭りになる。

 

自分が遅いという観念の源泉。

 

言葉は確かに便利な道具だけど、僕は不自由の権化だと思っている。伝達として使うのはもちろん、自分を把握する道具としても拙い。自分の表現ではなく、自分の探索にしかならない。

 

 

やっとこさ、ホモサピエンス全史は下巻に入った。面白い。人類の統一には、帝国、貨幣、宗教という発明があったとか。分かるし、僕も利用しているけど、あんまり関係ないな。

 

宗教の原初はアニミズムというところで、神様は自然と人間を媒介する法的約束だというのが新鮮で面白かった。神様は現実的現象に寄与する存在ということ。生贄とかお供え物とかまだ素朴に信仰している。でも、想いの証拠としては分からんでもない。

 

では、現代人は何が現象に寄与していますか。それについてどう証拠付けていますか。価値を外に置くようになったのは貨幣の支配だと思われる。

 

最後かな。

 

願いと祈りの峻別。

 

願いは対象とどうかで、祈りは対象に対して無責任で良い。なるほど、祈りが嬉しいというのは、自分が返さなくて良いけど、他人が自分に費やしているという文脈か。今のところ一番近かった人も毎日祈れみたいなことを言っていた。奉仕されていることで自分を保つ、いや、なんか違う。

 

まぁ、僕は祈りに対して、勝手なものだとしても何か作用するものがあるのではないかと思っていて。現実的に相手の血行が良くなるとかではなく、魂のところ。

 

最後の最後。

 

僕が素朴に近くなった関係で嫌だったのは、愚痴とか疲れたとか負の言葉が現実化されていること。僕も疲れないといけないのではないかというか、疲れるのが普通のことだと合わせてしまう。愚痴が完全に悪いとは言わないけど、言葉はまず自分が見ているということが把握されてないよな。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

わきまえ

 

 

 

お風呂から出たら母親から1時間前に着信があった。来週から遅番のため23時だしこれからご飯だし折返しではなくLINEにしてみる。元気かどうか気になっただけでしたとのこと。分かるけど、こういうものに温かさ(暖かさ?)を感じることはないだろうなという感じがある。理解はできるけど暖は取れない。心配は安心するためにあるからあくまで一方的なもの。つまり、逆なら暖が取れる。

 

添付された画像によると、実家の付近はまぁまぁ雪が積もっているらしい。母親も引っ越して独り暮らししているから無関係。しかし、画像の場所がどこのものか分からないという。推測はできるけど、がけ崩れ防止のネットって張ってあったっけかな。

 

さておき。

 

休日1日目は稼働率が低い。雑炊を作っている最中に鍋の蓋を割ってしまった。あーあという感じ。まぁ1人分の鍋はス手鍋で作れば良いしほとんどがっかりはしていないが。色々捨てなきゃな。自分の為に生活上の環境を整えるということが優先順位全然高くないから、無理やり上げないといけない。

 

職場の雇用の切り替えの関係で履歴書も書かないといけないし、そろそろ劇評の公募にも応募しないと。履歴書は確かフォーマットのデータがあったはずだから少し加工すれば良い。別に応募の書類ではないから志望動機は要らんよな。たぶん経歴だけあれば良いはず。公募の応募の方は、もしかしたら顔パスしてくれないかみたいなところはあったりして、文章データは余剰でなんか書きたいなという感じ。割と引っ張っているのは、応募多数で漏れましたという世界線もあるかもなと思っているから。だったらちゃんと課金できるし、感想文も自分の中で書けるし。まぁどっちでも良いこと。そもそも僕は自分の文章が他人から美味しいかどうか分かることは永遠にない訳で。

 

世界がどんどん面白くなっているのは、遊びが増えているからだと思われる。別に何か経歴が増えたとか、何処かに行ったとかでもないけど、1人で読んだり見たりしてやたら笑っている。直近の元恋人さんが「ほこりを被っている」、好きになってくれた男性が「貴方はもっと笑えるようになる」と評してくれたようなやつ。なんだかすごく頭がすっきりしてきている。

 

好きな人に対する諸々で悲観的になるのはやめとこうと思う。人をつぶやき場にするなという発言がTwitterにあって、おぅ、もしかしたらそうかもしれないと1瞬ダメージを受けたけど、別にごみ箱にしている訳でもなくそこ以外にはない言葉だし。いや、全然要らん人から発信されてもごみだから、そういう線は捨てていない。捨てても良いと思うけど、暖はもっと前にあるので。

 

 

どうでも良いけど、僕はどこでも僕を読む人の量より、誰が読んできているかの方が気になっていた。読まれて嬉しいという程に文章とは癒着していないから、どうして「この人」は僕を読みに来るのだろうという、読みに来る人を読みたい感。読んでくれて感謝みたいな気持ちはないです、どちらかというと時間を無駄にさせて申し訳ない感。ほぅ、奇特な人だなという感想はあるけれど。奇特という単語は小学校5年生の時の担任がよく使っていて、音としては残っていたけど漢字が当てられたのはずいぶんと後だった。

 

奇特な人は大歓迎です。

 

呟き界隈を見ているとよくもまぁ自己を肥大評価できるものだと思うけど、言葉の機能の1つだと思う。神話とかにあるように、虚構でつじつまがあったストーリーを作りだすことができる。なので、言葉自体は特に現実においてもそんなに重みはないよなと思っている。利害関係があれば、人はいくらでも優しくなれるし、慮った言葉も吐ける。現実において大事なのは、言葉と体が連動しているかどうかだと思う。言葉だけならいくらでも良い風に見せられるから、その言葉がいつ現実化するのかを見ている。

 

当人もう絶対忘れているだろうけど、数年前、大学時代のコンビニバイトの後輩が突然電話をしてきて、バイト仲間を集めて飲みましょうとなり、それ以降一切連絡がなかった。そんな軽い言葉で営業マンはやっていけるのかいな、いけるのだろうな。

 

利害関係がない言葉は信用がおける。noteで短歌を投稿している人が唐突にコメントくれたのはとてもほっこりした。ちゃんと自分と言葉を分けている人だなという感じ。分けているから作品と癒着できるのかもしれないという思い付き。

 

ちょっと置いて。

 

あくまでも僕の体感だけど、人の頭の中には鍋がいくつもあって、並行的に煮詰めている。それは普通意識化されることはなくて、何かの拍子に想起とかアイデアとして意識に可視化される。で、頭をすっきりさせるというのは、外に対する賢さではなくて、この頭の中にある鍋が見えることにあるのではという感じ。これが分かれば人の頭の中にも鍋があるに違いないとなる。

 

そういえば、僕は現実世界において発話量がやたらと多い人って信用がおけない。大学時代からその後も少し関係があった知人がいつもテンションが高くて、発話量も多かったのだけど、この人が何を話したかって全然残っていない。共通項としてはコンビニバイトの先輩もそんな感じだった。人をいじるというか、攻撃して自分を保っている感じ。今思うと何かを必死に隠そうとしていたのだろうけど、2人ともパートナーは持ったみたいだからまぁいい人生なのだろうな。知らんけど。

 

でも、この手法ってやろうと思ったらいくらでもできる。もうやめました。

 

僕は身の丈の言葉しか使わない。外れると反射でダメージを受けるので。

一生好きならそうだし、やると言ったら現実化するし、ある意味予言みたいな作用もあるのかもしれない。理想としては、体の動きと同じくらいの操作性があれば。

 

発信としてはそれくらいの連動があるけど、受信されるのは勝手だから評価とは連動しない。誰がどう見たってどうでも良いって表現者の矜持みたいだけど、僕は僕がちゃんと固有であると決めただけ。だから他人も固有に読むことができる。

 

そもそも他人は操作性がないものだって自覚できている人はどれくらい居るのか。何か序列があれば操作ができると思える人はそもそも自分を操作できていない。自分が操作されないことが自然でも良いけど。

 

ここで、道徳の授業で、どうやったらいじめがなくなるのかという作文を思い出す。

 

当時の僕は、全員が自分は人よりちょっと低いとして他人を敬うことができればいじめは起らないと書いていた。これは人は自分より上位だと思う人にしか尊敬できないという当時の世界観の中の価値観だったけど、今の普通の人間にそれができないとは思えないということで、見解は当時と変わっていない。いじめが起こるのは大人がそういうイデオロギーを是としているからって分からないのかな。

 

自分が足りないことを埋めるために他人を糧にするから戦争が終わらないのでは。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

もともと

 

 

 

本質とか固有とか現実的には全く意味をなさない。なんのメリットも確証もないのにとても恐ろしいことだ。なにより怖いのは、損ない続けているのではないかということ。なるほど、これが勇気か。

 

定期発信はとっくにブロックされていて、別に毎日読んでいる訳でもないし何を言ってんだこの他人はという読みに流れた方が楽だもの。実際ありうるし、こっちの方が都合良くもある。1日1通か2通でも、1年積んだらどうなるか。途中から誰にも読まれず闇に消えているという想定の方がほっとしなくもない。

 

ただ、どうしてもこのまともな見解を許さない自分も居て。

あーでもない、こーでもないという解釈が生まれて自分の中だけでは1つに決め切れないという読む人のデメリット。

 

いや、人はそもそもそんなに他人に感化されんやろうという一般論は分かるのだけど、僕は少なくともそういう風には生きていないから、どうしても気になってしまう。本屋のハードカバーの帯に、「人は人生の断片でどれだけ心を動かされたかで決まる」という言葉を見かけて、僕は割と毎日動いているし、なんというか、自分が動いたときに自分だけが動いているということはそんなにない気がしている。

 

損なうのは怖いけど、やめられないで良いのかな。

まず読むことで時間を損なっている。数分でも1年ならどんだけになるか。

 

どうでも良いけど、「笑顔の必要性」って何かそういう単語が公になったのだろうか。何名かが語句検索でやってきていた。全然有用な情報じゃなくて申し訳ない。

 

さておき。

 

昨日の日記、マフラー装着したのにマフラー装着し忘れたって、誤字が過ぎる。その後個包装のマスクって書いていたから文脈的には読めなくはなかったはず。冒頭当たりはアニメを見ながら書いているから、だいたい言葉の配置を間違える。

 

そうして、本日は財布を忘れた。全然注意深くない。が、きっちりすることと注意深いは概念が違うので個人的には問題ない。注意深いは、誰かが財布を忘れたのだろうなと気付くこと。あれ、いつもこの人水買って常備しているのに買ってきていないな、何故だろうという違和感が見える。僕は見つかると恥ずかしいので問題はない。午前中は水分無補給だったけど、昼に楽天ペイでリカバリーできてほっこり。新しいことって必要に迫られないとできないし。コンビニでは使えるけどスーパーでは使えないらしく、帰りはリカバリーできなかったけど、いつもと違うルートになるもの楽しいこと。生活で遊んでいる。

 

しかし今日は寒い。

 

昼休憩でタバコを吸いに行った公園の池に氷が張っていた。なんだか小学生時分に水たまりに張った氷を楽しく割り歩いていたことが再生される。感触とて楽しいのは霜柱で、視覚的には張った氷。本日も割りたくなったけど、良い大人なのでしないでおいた。仕事の日でなくて誰もいなかったらやっていただろうけど。

 

張った氷の上でちょこちょこしている小さな鳥がいて、あんな細い足で冷たくないのか、鳥に冷感はないのか、よく観察したら足踏みしていないかを観察したかったのだけど、これも良い大人なので歩いている間にしか眺められなくて悔しいところ。

 

寒いのが嫌だなより、楽しさの方が勝る子供である。

 

何処かの地域は豪雪で不便になっていて寒いのは悪いことだとしなきゃならないかもしれないけど、だったら、世界的に餓死している子供はどう扱うのだと常々思うから、あくまで範囲が狭い中の当たり前でしかないと思う。雨が嫌だなとか思えるのってそうとう幸せな生活圏で過ごしているような。

 

あくまで自分が嫌だなら良いけど世界的に嫌なものだとするのは違うというだけ。

 

豆腐がだいぶ売れていたから、日本人の大多数に漏れず鍋が食べたくなり、名前に雪が入っている魚の鍋を作る。付け合わせには何にしようかと思い、弁当でも作らない卵焼きにした。鍋はポン酢で食べるからしょぱいだろうから、口直しになるようにちょっと甘めに作る。甘い卵焼きはそんなに好きではないが。

 

一口目の鱈の美味しさ。下味に塩を振ると良いらしいからやってみたけど効果の程は知らない。鍋なんて誰だってやろうと思えば作れるけど、人の可動域は、やろうと思ったときにほんとにそれができるかどうかにある。

 

義務的でも権利的でもないところの体と心の一致。

 

作り過ぎてあまりそうな鍋。2人分くらいだったな。

あしたの雑炊の具材にするか。

 

 

そうして。

 

「SO LONG GOOBYE」という仕事をテーマにした演劇で平日の8時間を生きる屍のように過ごすのかみたいなフレーズがあったし、今の仕事場でも、そんな感じの人は多いけど、僕はふつうに人間として仕事を試行している。

 

やらされていることとしていることの違いって、そもそもそんなに離れているのだろうか。

 

あと、仕事上のグルーミングみたいな言葉はあくまで仕事だからやるし、別にやらなくてもちゃんとこなしていればなんともない。まぁ今の職場は経験則上人間係数高いところだからかもしれないけど。派閥もないし、あくまで他人は他人という感じがとても良い。

 

僕は一瞬、別の仕事でとりまとめみたいな役割をしたことがあるのだけど、その時の仕事上の発話って、場を和ませるとか、体調大丈夫かの確認とか、必要以上のことは話さなかった。割と良い上司だったらしい、送別会の主婦の人の言曰く。LINEも交換したのだけど、携帯が壊れたのでもう交流はない。でも、頼る人は世界線に居なくなったということかもしれない。

 

僕は気付く人でありたいというのはこういうこと。世界線の中には教職取って先生になるというものあった。僕が先生になったら、学習指導要領をこなしながら、たぶん生徒1人1人をめちゃくちゃ観察すると思う。何ができるかはともかく、ちゃんと見ている大人が居るということは示す。整君にはそんな先生が居たけど、僕の時系列の大人は全員自分で忙しかったと思う。

 

で、やらされているということの極致って、人生だと思う。生まれたいと思って現実化した存在ではないし、ここをあえて自発的に調整しなければならないと思わない。人生の目的がないといけないというのは、意識高い系の人達が創ったもの。

 

与えることが充足だっていうのは僕にはとても分かるのだけど、あえて自分をそこまで掘り下げる必要はない。人は制限されたがるのが割と自然。制限された中で文句を言いながら人生を終える。

 

 

そういえば、今日考えていた、自分の文体は擬態だなということ。

 

僕のほんとの中身は誰にもやらんだから言語で表現できるものではなくて、言語化する際には、読んでいる誰かの人格を借りている。今は整君。たしかにこんな奴がいたら一般的には気持ち悪いと思う。僕はここまで考えていて注意深い人が近場にいたら会話したいなって思うけど、だから創作なのだろう。人が完璧に分かることなんてないし。

 

 

でも、こうやって現実化していく中で、固有の自分が探られている感はある。

 

僕は物語を読み返すのが好きだ。読んだ瞬間のコンディションで読め方が変わるから。この意識がどこから来ているのかということは、法学の話だった。

 

同じ行動でも、認識によって意味合いが変わる。知っていてやったのか、知らなかったのかだと、保護の度合いとか非難の度合いが社会的に変わるとされている。しかもこの認識って状況的な証拠から、きっとこういう認識があったに違いないという水準。

 

 

 

だとすれば、何かに対して同じ評価しかないというのはとてもイレギュラーなこと。

 

自分の固定化って、自分にも世界にも不自然よな。

 

なんで固める必要があるのだろう。

 

自分を守るためだとして、守る自分って、未来の自分から攻撃されるかもしれないのに。

 

おしまい。