自発でも触発でも、発現という意味では変わらないとすれば、どちらかに重きを置かなくても良いのかもしれない。

 

 

日記を書いた後、この解釈最高だなという私信を送ったら至福の発想が降りてきたが、その想念のまま寝たからに違いない、変な夢を見た。

 

先に書かないと僕の趣味が誤解されるが、フロイト夢分析における象徴の話で、ストレートに表現できないものが夢の中では別物として現われることがあるとのこと。実際には存在しない弟とべたべたする夢をみた。分かりやすくすれば妹なのだが、妹は実在するためこれで現われるとだいぶ脱線する。そのことを家族に認められるためにあくせくするややファンタジックな物語が続くのだが、省略。

 

解釈するに、「違法ではないが背徳ではある行為」に対する無意識からの警鐘みたいなところ。そんなこと想起するのはあかんぜよ、みたいな。まぁ僕は違法でない限り背徳は全然ありで、今後同性が好きになる可能性も排除はしていない星人だから問題は、これに人を巻き込むなよというところなのだろう。でも、意識の階層では、冒頭文に戻ってくる。

 

 

さておき。

 

予言通り、本日のお弁当のおかずを貼ってみたが、何か寄り弁ちっくになっておりあんまり美味しそうには見えなかった(自己観測)。いや、味は良いんです。本日は生姜焼きと、ブロッコリーの茎まで使ったゆかりとすりごま和え。明日はもう少し美味しそうに撮れればいいが。

 

そういえば、料理を振る舞って遊んでいた時代、年上の独身男性が休みの日でも僕のお弁当画像を何故か楽しみにするという現象があった。文章も書いていたが、文章は見せていない。自家製料理に飢えていたのだろうか。この人の弁当は昨晩のご飯のスーパーの総菜の一部を詰めただけ。しかし、こういう人は今の僕の世界に顕われないだろうな。生活様式ではなく精神様式の面で。

 

 

本日はkindle読み放題で2冊読んだ。1冊は長めの日記みたいなもので一瞬で通してしまったが、もう1冊は、帰って読んでいたら声に出して笑ってしまった。

 

本の話の前に、kindle読み放題のトップページには、連続読書日数を増やしましょうという表示がある。この1週間くらいこのアプリでは読んでなかったためカウント0だったのだが、ふと考えると、ここ5年くらいのうち、本を全く読まなかった日ってどれくらいなのだろうなというくらい日々読んでいる。飲み会の日とかでも日中読んでいた気がするし、直近の恋人さんの家で泊まった時も、家にある本読ませてもらっていたし。何か特別なことではなく、単なる生活。ついでに、日記的文章も今残っているだけで700くらいはある。消えたアカウントでやっていのも含めたら、1500くらい(もっとかも)はあるのではという感。分量は最近ほど多くないが、だいたい同じようなことを書いていた。

 

と考えると一般論的に読書とか文章を語るべきではないよなと思った。

そりゃあシンクロニシティも選び放題だわ。

 

読んだ本。「運気を磨く」というやつ。

使えるものはなんでも使うかという感じで選んだ。自分では運はかなり良いと思っていてあんまり行使するのも申し訳ないなという意味不明な観念があったが、そろそろ解放していくかと。

 

読んでみたところ、なんというか、もうだいたいやっていた。笑

 

運気が良いってなんぞやというと、直感とか予感が稼働するとか、シンクロニシティも含まれるとのこと。なんとなく導かれるみたいな感じ。

 

で、そのためには、無意識にこびり付いたネガティブな想念を取り除いていくということで、無意識で自己懲罰意識とか、自己否定があるとそういう風になるとか。これ、2カ月前くらいの日記で書いていた、どうでも良くなったやつである。知らぬ間に向き合った上で乗り越えていた。

 

わらけてしまったのは、ネガティブな想念の払拭法が3つあって、その1つ目が、「自然の大いなる浄化を利用する」で、自然に浸る・自然と正対するだったところ。ここのところ毎週、なんなら毎日やっているやつ!笑

 

自然に浸ることと、瞑想が近いところにあるというか、瞑想は自分の本質に正対する州法なのだが、それは瞑想ではなく自然に浸ることにより起こるものだという話も、実感として理解できた。たしかに自然に浸ったとき時間の流れが無くなる瞬間がある。理の深いところと逢っている。僕の場合は対価として筋肉痛が起こるが。

 

残りの2つも割と実践しているものだった。1つは無意識の言葉を改めるみたいなところ。言葉(思考)より感じを大事にするとか、心と言葉を一致させる訓練をするとか。お弁当の下りで出てきた独身男性だが、割と人当たりがよい言葉遣いなのに心と言葉が全然一致していない。これ当時の日記にも書いていた気がする。心と言葉の一致に訓練が必要なのは、世界のほとんどがノンバーバル(非言語)の情報だから、人は人の言葉だけを見て誰かを判断していないが、言葉の力はそれだけで独立してしまうところもある。だから虚飾ができるし虚構が現実にもなりうる。

 

もう1つは、和解だったかな。嫌いな人に心の中で感謝の言葉を唱えてみようみたいなこと。僕はここはやってないな。嫌いな人そんなに居ないので。

 

その先は、自分が大いなるものに導かれていることを覚悟するとか、生きているだけで幸福だとか、要は人生の解釈の方法。自分を良く解釈するって結構な覚悟と楽観性と感謝の想念が必要。この本の良いところはこういう観念を神様とか超自然的な媒介を必要とせず、最新の科学の知見から持ってきている点。信心深さは不要だが、量子力学の世界観への理解は必要かもしれない。

 

ほんと面白かった。ありがとうございます。

そろそろ関係でも時空を越えられるかもしれない。物質は現実に実在する訳ではなく波動であるし、時間もいっしょくたになっているのが最新の科学の知見らしいし。アカシックレコードに科学で届いてきたのか。量子力学では、ゼロポイントフィールドというらしい。

 

と考えていくと、そろそろ一回ちゃんとした占い師に占ってもらいたいみたいなところはあるな。未来は可能性であって確定しておらず、観測されることで1つに定まるシュレーディンガーの猫みたいなもの。

 

言葉を大事にするとか論理を大事にするというのが、ネガティブな想念を含むのは、言葉には常に逆があるからというのがあった。ポジティブな言葉を唱えようという罠は、意識的な言葉は無意識に浸透しにくいというところとは別に、光は無意識に影を落とすという感じ。

 

これだけ書いていて説得力はないかもしれないが、僕は言葉ではそんなに考えていなくて、何かを言葉にするとき、反対の言葉については考えなくなっている。子供は無邪気だから言葉にしてもネガティブな想念は生まれないとのことだったが、たしかに、僕の言葉には邪気はなくなってきている感じがする。(しない?)

 

あと、「祈り」についての話もあった。祈りが届かないのは無意識領域に訴えかけない表層の「願い」をするかであって、正しい祈りは「導きたまえ」だとか。僕の祈りは自分に向いていないからあんまり関係ないなと思う。お参りするときも具体的な願いはしなくて、「見といてください」みたいなことしか唱えない。大いなる導きについては、要はなるようになるということで別に祈る必要もない。この先どうなるのだろうというワクワク感しかない。

 

やれやれ。

 

「私をはなさないで」の次は、カズオさん繋がりで最新のハードカバーのAIの話にしようと意識していたのだが、色々割り込んで来て、結局、「時の他に敵なし」になった。翻訳本ブームだ。時間移動して石器時代の女性と恋に落ちるというはしがきだったが、それよりも装丁の真っ黒感に惹かれてしまった。最初の方を読んだが、今のところまだ世界観に入りこめていないから良く読めない。

 

運気の話で、自分が接している事象が自分にとってどういった意味があるのかと考える(解釈する)ことが大事だとあったが、これって自分を生きる上である意味当たり前のことではなかろうか。いや、僕も最近まで人生は流していくものだという邪気にまみれていたから鮮明ではなかったのだけど。

 

こういう意味で演劇との出逢いが発見になった。芸術学曰く、芸術は事実であり事実であるとされるためには時間が流れていることが条件みたいな。絵画を事実として体験するためにはそこに流れる時間を感得できてこそ。

 

もっと色々体験しに行かないといけない。

 

僕の文章はきちんと時間が流れている、とは言えないな。時間は戻ったり進んだりしているし、空間もあべこべ。でも素朴な精神世界がこれなんだよな。しょうがない。

 

ほんと、人生楽しすぎるから僕は僕で生まれて運が良かった。

(僕の文章読めている人も運が良い人なのではとこっそり思う、なにせ気まぐれ野郎なので)

 

リベラルアーツもそろそろ終わる。最後がダーウィン種の起源で、人間が繁栄したのはたまたまだって、人間至上主義をぶっ壊したところなのだろうが、僕は人間中心主義に回帰しても良いのではとは思わなくもない。世界の捉え方も人間が創ったものだし。

 

ここまで。

 

では、導かれますように。

 

おやすみなさい。

 

当人

 

 

昼休憩に入り、ふと、お弁当画像を貼ってみようと思いいたったのだが、休憩室にお洒落な先輩が居たためカメラ音が出るのを懸念してやめた。明日、公園で食べられたら貼ってみるか(今撮ることはしない)。

 

ここ何日か見た目もちょっと気にしながら作っている。副菜はブロッコリーとしめじのおかかマヨ和え(ほんとはゆかりおかか和えにしようとしていたのだが、ゆかりを切らしていた)。

 

メインはちょっと味付けも気にする。食材は鶏もも肉、ピーマン、茄子、人参。まずバターをフライパンに溶かし、鶏もも肉に胡椒を振りかけつつ炒める。ある程度色が変わったらオリーブオイルを加え、茄子を投入。1分くらい油を染み込ませたあと、残りを投入し、水と顆粒コンソメを加え、アルミホイルで蓋をして3分程放っておく。その間に米を洗い、レタスをちぎる。水分が飛んだら、最後にケッチャプをかけてあえておしまい。オムレツ風卵なし炒めという感じ。とろとろの茄子がうめぇです。これは我ながら完成度高い。

 

さておき。

 

 

昨日見かけた大きな花、調べたところ芙蓉だった。あれ、前にも見た気がする。文字だったか種類違いだったか。ヒマワリとは別の存在感。

 

仕事はなかなか長く時間がかかる案件が多かった。僕にとって駄目な人が改めて把握される。別に記憶力がないとかはどうでも良いのだが、調べたら分かるようなことを1から教えないといけないこと。これの何が駄目って、僕が煩わせるということではない。別に仕事時間だから煩わしくはないし。ただ、ガイドがあるのにそれをそのまま1からって、ほんとうにその人の何が分からないか分からないし、求めていることも分からない。なんもないんかって思ってしまう。対話や質問は自分なりの見解があった上でするものなのではという感じ。まずやってみるという意識はないのか。そういう窓口ではないぞよ。

 

見解をやり取りするようなのは時間がかかっても充実感がある。その分相手がちゃんと得てくれただろうなって。

 

愚痴というか人の階層の話なのかな。知らんけど。

 

 

 

やれやれ。

 

「私をはなさないで」。終わってしまった。なかなかの読書体験。あんまり中身を書くのはあれだが、味わいとしては、「ゴドーを待ちながら」とか、「失われた未来を求めて」に近かった。誰かの感想文(僕はあんまりちゃんとした感想文は書かないが、人の感想文は結構好き)で、この作品にはヒーローも救いもないというフレーズがあったのを思い出した。

 

読書体験にカタルシスを求めるという感じは分からなくもない。娯楽ってそういうものだし、なんらかの現実との乖離を求めてしまう。ただ、こんな読み方をしていたら何処にも行けないよなとは思う。まぁ何処にも行けないから本に救いを求めるという因果かもしれないが。そういう風にしか読めない人が他人が読書をしていることに対して逃避だって評価する。もっと現実を生きろよみたいな熱い感じで。本より体験の方がより現実的な体験であるというのはまぁ分かる。

 

僕の感覚とはズレているなと思っていたら、やっぱりとなったのが「芸術学」の叙述。芸術作品は鑑賞者に「行動」を求めるものだとのこと。かなり分かりにくい。現実的な行為ではなく精神的な行動というのがまず。要は、ちゃんと精神がその対象を体感するということなのだろうなと解釈した。ある意味、自分事に落とし込むということ。もっと言えば、その対象から響いた自分はどうなのかを実感する。

 

この文脈でとらえたとき、本当に物理的・肉体的な体感が(現)実感として優位なのかってなかなか微妙なところではある。物理的な体感は別に意識しなくても流れていくし、経験として積み重なっていくが、果たしてその中のどれだけが自己になっているのか。諦めているだけなのではという感じもある。

 

マイミクさんの日記にギフテッドという話があった。生まれつき知性に差があると言葉にしてしまうとなかなか身も蓋もないが、個体差ってある意味当たり前のことで、この「差」の基準を平均値にするから人が相対的に捉えられるものだとなる。単なる固定観念の話。義務教育を通り抜けられた人が、義務教育で習った科目を全部習得できている訳でもなく、単なる経験として通しただけ。

 

日本で言えば空気を読めるかどうかが最大の基準なのではという感じはある。そこから外れていくと、発達障害だとか、解離性なんたらとか色々名前が付くことになる。

 

僕は何の才能も持ち合わせてないと思っていたのだが、僕にギフテッドがあるとすれば、何を収集したとしても特に揺らがないみたいなところかも。器の底が自分でも分からない。宗教観、哲学観、誰かの個人的な世界観にも波紋はあるが、それによって影響された自分がもともとそういうものであったとできるところ。

 

勧善懲悪の雑さももともと把握しているっぽいし、資本主義における財産を積み上げる無意味も知っているっぽいし、社会的な欲求が全然ない。だからやりたい放題やって良いのだなとなりつつある。人と接していて、自分は相手の鏡っぽいなとずっと思ってきたのだがそういうことなのだろうな。

 

鏡からも解放されつつありまだまだ先がある感じ。

 

そういえば、肩凝り解消してきたのは精神的な部分ではなく、仕事中に空いたときやたらと肩甲骨を回しているからだろうとした。現実的見解。

 

どうでも良いが、僕に残りの半身が存在しているとするならば、かなり俗っぽいか信心深いのかもしれないとも思う。でないとこの現世でバランス取れない。半身がどうでも良いのは、半身に出逢わなくても完結できそうになってきているから。

 

こういう見解になれなかったのが、まさに日本の空気を読んできたからだろうと思った。

 

ここで「難しい天皇制」の話。天皇がなんであるかって、空気として浸透しているものだから、言語化できるようなものでないみたい。古事記では色々英雄譚があるが、別にそれを読まなくても、なんとなく凄い存在なのだという空気がある。そういう不文律は社会にも蔓延していて、そのこと自体は不可視なんだよな。だから、言葉を交換しなくても相手が読んでくれるだろうという無意識がある。

 

この本読んで良かった。

 

自分の立場はリベラルだ、保守だ、フェミニストだという前置きして語る人も、その単語によって自分の見解はそういう空気で読んでくれるだろうと相手に期待しているのだろうなって。自分の思想をはっきり言語化して体系的に説明できるかということになってくるが、それほどそこまで要してないのだろうなとは思う。

 

個人として語るのは孤独だもんな。

 

忘れないうちに。

僕の文章を読んで自分事に落とし込んでいる人は在り難い。ちゃんと僕の文章という対象で体感していただいている。僕は賛同とかどうでも良く、波紋が大事。

 

ということは、ある意味芸術レベルなのか。どうなのだろう。

 

空気を読んで自分に知識がないとしてきたが、そろそろどうしようもない領域になってきたのかもしれない。知識を誇示することはないのだが、素朴な僕で過ごしていると、自己卑下を刺激してしまうことがあった。自分がしてないことを僕への羨望とか嫉妬にすり替えないでくれとやきもきしていた。

 

そうではなくちゃんと僕を見て欲しかったがそういう存在は今のところ現れていない。

使い勝手が良い存在として良い人、優しい人から入って、よくよく観測すると得体が知れなくなってくる。価値観が根本的に合っていない。

 

この解放感で見ると、法律学の本も鳥肌が立つくらい自分事の体感に落とし込める。

 

結局は、この現代社会のルールとしての最新値という意味合いでしかない。でしかないとか言っているが、見解としては歴史の結晶だから、素朴な感情論で噛みつけるような対象ではないのだが。

 

刑法でいうと責任とはなんぞやとか、民法でいうと過失責任とはなんぞやとか。そのうち日記にも落とし込めるようにはなるとは思う。全然高度ではないはずです。

 

高度かどうかも最近良く分からなくなっているが、日常の言葉で把握できない、あるいは、言葉としては分かってもその言葉が創っている世界観を把握できないかくらいの意味なのでは。

 

知識というか知見って、当人の中ではコレクションみたいなものだから、大事に配分するとか、あるいは有料でってなりそうだが、僕にはそういうのないんだよな。直に話せる機会があればという想定みたいなのはあるが、別に何かが返って来るという期待込みのものではない。

 

あんまり具体的なことを書けてない気がするが、ここまで。

 

おやすみなさい。

良き当人を。

 

おしまい。

 

 

遊び

 

 

インターネット世界も十分に異界の条件を満たしていて、そこでのやり取りは遊び遊んでもらっているようなものだ。僕の中では現実でお茶をするとかの水準とそんなに変わらない。僕の文章は自分の現実的部分の何よりも素朴に近いだろうし。

 

そもそも、世の中に異界ではない場所ってほんとにあるのかな。

 

 

さておき。

 

出勤の道すがら、そろそろ今季の紫陽花も元気なくなってきたなと別ルートを歩いていた、やたらと大きな赤と白の花を見つけ、笑みがこぼれる。そのまま行くと、マンションのゴミ置き場のところで、カラスの恥ずかしいシーンを見かけてしまう。ぷりっとの瞬間。田んぼには昔は鴨が居たのだが、ここ何季か見かけない。他の地方の育ち具合と比べているとやたらと遅れているのだが、それも原因なのだろうか。発育が遅いみたい。

 

帰りの晴れた夜空に月を探してきょろきょろする。ようやくとんがったお月様を見つけてなんだかほっとする。雨と月はたまにしか同時に接することができない。朝見かけた花をもうすこしじっくり見ようと思ったが、夜には閉じるタイプだった。光走性だっけ。植物生理学にあったような。(名称あやふや)。

 

仕事の時に、左手文字の練習をしていたら、古参の先輩にバレてしまった。試験に左手で書かないといけないところがあるのかと聞かれる。いやそんなアクロバットな試験ないやろとは突っ込まず(僕は関西人ではないので)、便利だからと答える。

 

そうするとこの人と、おしゃれな先輩も左手マウスをやろうとしたことがあるという話題で盛り上がっていた。この仕事パソコン2台使うから、マウス2つを右手で操作すると、時々どっちのパソコンのマウスを動かしているのか分からなくなるという不便があるため。家ではやらんからなーと言っていたが、そういえば、僕のこの時間におけるパソコンのマウスは左手側にあるんだった。

 

結局右手でやる方が早いから諦めたという両者だったが、そんなことは継続できなかったということに等しい。利き手でできるようなことを反対側でやろうとすれば遅いのは当たり前。やってなかったことはできないからできるようにするのでは。料理をやろうと思ったが結局買った方が早いと言っているのと同じこと。ただ、やろうとしたということだけでこの2人の人格の面白さ(変人具合)が分かる。

 

左手文字は、割と試験的に実用性がある。1つの科目で2000文字とかを手書きで書かされるから、交互にやればその間反対側の手を休ませることができるという感じ。あと、バランスのこと。空き時間にぼーっとしているくらいなら手を動かす方がより時間が縮むし。

 

書いていて思ったのだが、横書きだと右手の方が有利で、縦書きだと左手の方が有利。自分が書いている文章を見ながら書ける。ボールペンだからあまり気にする必要はないが、これが鉛筆とかシャーペンだと、不利な書き方だと手が黒くなる。中学時代左利きの同級生がいて、理数系の問題解くのに苦労してそうだったのを思い出した。やたらと字は綺麗だったが。

 

そう考えると、ワードプロセッサの発明は便利過ぎるな。そうして一番便利になりうる道具は、自分の肉の器だとも思う。僕は道具の概念を所有とか消費ではない利用に置いているためこのようなことになる。道具を扱う道具としての自分。

 

朝起きて、とても愛が無い文章を見かけた。とてもありがちだから内容は吟味せず読み流したのが、近頃の若者は言葉を扱えないみたいな趣旨。愛がないというのは、自分も若者で知らなかった時代もあるはずなのにそこを無いものにして、今の完成部分という綺麗な自分しか見ていないところと、その人も今の若者の言葉扱えないだろうし、という、教えようとも知ろうともしない、「無知の無知」の部分。そういう自己の価値を確保しようとする試みはとても寂しいことになる。

 

でも、こういう文法とか語用の正しさに重きを置く人って割と多いよな。僕のイメージをしてはそういう人は文章を書く側というより読む側に多い感じ。形式と内容でいうと、かなり形式に偏った立場と言える。僕は文法より文意が美味しいから、多少言葉が間違っていても問題ないし、僕の言葉も全然完全無欠ではないし、そもそも言葉自体が時代によって変遷するもので普遍的に完全無欠ではないし。こういう人は、古文の文法を読んだらどう反応するのだろうと思ってみたり(たりは本来2回以上続けるのが正しい文法だが、次の「たり」は読み手が自由に埋めるに任せるという意味で空白にする文法も普通にあると思う人)。

 

ここで、現実的な話し言葉としての文法の話。その人の中身は分からないにしろ、人格としての傾向は読める。発話はその人の世界観に依存しているから、どういうスケールで生きているのかは読み手からすれば良く分かる。

 

おしゃれな先輩は発声は割と可愛らしいのだが、よくよく聞いていると、自分が費やしたことに対して対価が返って来るべきという観念があるらしいことが読み取れる。時間かけて調べて回答したのにクライアントはもう知っているみたいな感じだったというエピソードが残っているということとか。古参の先輩は、もっと人と自分を切り離している感がある。でも、本当に1人で居たかった人なのかなというのはちょっと分からない。こういう分からなさに魅力を感じるというところもあるが、もっと深い興味までない。

 

僕の発話はどういう風に読まれているのだろうな。あんまり人格が見えるようなところまで発言してきていない時系列。そういう水準で考えると、一番長く過ごした人への発言が一番素朴とは近かった。自分は比較対象にはならないとか。ただ、この時代滅茶苦茶ノイズが多くて僕がブレてしまったから変なことになってしまった。この時代を想うと、アイツ、理詰めで叩き潰したいとかはあるな(おっかなや)。愛無き人への正当防衛はすべきだった。

 

まぁ、あのまま続いてもどうだったのだろうとは思うから、これはこれで1つの完結した物語だったのかもな。

 

そうして、素朴レベルで言ったら、現在書いている文章とか好きな人への私信とかの方が遥かに素朴な僕であるという。

 

遊びと真剣について考えていた。

僕の中での考えるは、言語を駆使して積み上げるのではなく、ぐるぐると非言語が回っているところから、言葉として表せる存在を取り出すというところだからそんなに頭は疲れない。

 

日本って遊びに対してイメージ悪いよな。遊ぶなとか、私のことは遊びだったのねとか、遊んでない方=真剣に価値が高いみたいな観念がある。

 

そうだと前提して考える。では、真剣とは何をもって真剣とするのだろう。真剣であるという姿勢、言葉、内心、と想像するのだが、これらって、本当に対象に対して真摯に向き合って言えるだろうか。身も蓋もないが、これはあくまで自己満足の領域だと思われる。真剣とか真摯ってあくまで対象がある訳で、自分がどれだけそうしていると認識していても対象にとってどうかとは別問題。

 

真剣がこういう自己満足の領域だとすると、遊びの方が対象には近づける。遊びというのは余裕とか手抜きとかいう意味ではなく、自分から離れて対象に没入するという意味。手抜きで接するのであれば遊びですらないが、遊びの語意の中には含まれているからややこしい。あくまで僕はそういう風には使用してはいないとだけ。

 

これで考えると、自分の現実圏とは切り離された対象である僕の文章をちゃんと存在として読んで考える人の方が、僕を現実的にどうかとしながら接している人よりよほど真剣に接してくれていると読んでしまう。

 

僕で真剣に遊んでくれている感。

この遊びは、ゆるみとかたわみみたいな意味合いであって時間つぶしではない。

 

ちゃんとお互いの言葉について、その言葉は当人の中でどういうことなのかと考える関係って、とても希少だって思います。正味言語化として僕はまだまだ本気出せてないところはありますが。自分がほんとに自分の言葉を遣っていいと思えるような存在は現実には居なかったので。

 

そういえば、AIこわいという話。まんじゅうこわいという落語を思い出したが、全然関係ない。AIこわいという漠然とした恐怖感とは別に、専門家でもそういう懸念はあるらしい。これはまぁまぁ分かる話。

 

AIはどこまでいってもプログラムでしかないから、人間のような常識も文化もなく、決めたことしかできない(あれ)。で、ある指令を貫徹するために、人類を滅亡させるという手段が出てくる可能性もあるとかなんとか。でも、よくよく考えると、プログラムは人間が創る訳で、人間が人類を滅亡させる悪魔になりきれない時点でAIにも無理なんじゃないかとは思わなくもない。そういうのはちゃんと賢い生きたい人がセーブするのでは。

 

あと、リベラルアーツで、「神の見えざる手」という話が出てきた。自動的に社会の富が増えるというシステムなのだが、アダムスミスさんが前提としている世界観は、人は自分の利のために労働するが、共感も得ないといけないとかで、社会性の話だった。他の思想を見ても、その時代から進めるみたいなところがあり、なんだかこの時代に特に不満もない僕にはできないことだなと思ったのだった。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

たのしき現実を。

 

 

語義

 

 

 

異界にお邪魔しつつふわふわ遊ぶ。

 

 

引き続き、料理の話から。先輩年下男子のうちに今度友人が遊びにきて料理を振る舞うらしい(ほんまか)という雑談。女性上司と料理を言葉で交換しているのだが、かつ丼、カレー、親子丼、天ぷらなど、名前が付いた料理しか出てこない。生活で料理していない人はそうなるのが通常なのかなと思うが、今やあんまり分からない。カレーにするとのことだったが、もしかしてルーで作るのか、2人で食べきれるのか余計な心配が芽生える。

 

僕が振る舞うなら完全に創作居酒屋。蕪のなんちゃって浅漬け、もやしとワカメの雰囲気的ナムル、きゅうりとシラスのお酢和え、メインは唐揚げもどき(おろしポン酢)とか。今考えてみたメニュー。もっと予算があれば自家製たこわさとかもある。一回だけだが作った。どれも全然時間かからない。

 

料理が上手くできはじめた頃に遊んでいたのを思い出した。当時の職場で作ったおかずを振る舞う遊び。リクエストで唐揚げとか、チキン南蛮とか、酢豚とか、やっぱり名前がちゃんとついたものばかりか。あと、スイーツも一回だけ。サツマイモが届いて1人で食べる使い道ないわって雑談していたら、じゃスイートポテト作ってみてと。評判は上々だった。もちろん対価も取ってないし、何も返ってきてない。それでもまぁまぁ面白かった。知らん人が作った料理をよく食べるものだと思ったものだが、そういう警戒心を解くような何かがあるのかもしれない。なんなのだろうな。

 

ふと、この振る舞いが愛的な行為だとしたら愛って遊びの一部なのではという気もしてくる。自分の料理を美味しそうに食べられるという嬉しさという感覚もなかったし。ただのたまたま職場が一緒になっただけの他人達。

 

こうやって今の職場でも別のところで遊んでいると、味を占める人が出てくる。この前の日記にも書いたが、「専属で」と言ってきた人が、全然別件なのに僕を指名してきた。そういう制度はないし、全然嬉しくもない。当人僕に激昂したことがあること覚えてないのかな。都合が良い人認定だわ。仕事の中で限界の領域まで遊んでいるというか、その人のこと考えているから、下手するとこういう人が現れる。おかず振る舞った職場では同僚のだいたいがそんな感じだった。今はやろうと思えばなんとでもできるだろうし、職場もまともだから問題無い。

 

そういえば、料理が下手な人は、完成形のイメージが付いてないから段取りができずに迷走するというのを読んだが、僕はきっちりイメージをカタチにしてから作るタイプではない。わりとざっくり。ここの日記も見切り発車で書いているし。劇評だと最初に感じたものを言語化するという方向性はあったが、これも別に最初の感じにカタチがある訳ではない。

 

絵が描けない理由がなんとなく分かる。僕の中にある画像イメージは二次元に落とし込めるほど鮮明ではない。ということは、デフォルメの技術を訓練すればなんとかはできそう。そういえば、図画もずっと3だったが木を書くのは好きだったな。試行領域。

 

音楽が苦手だったのも、リズムと体の動きが合わせられなかったことと、一番は声のコントールよな。自分の声が通らないのは性質だから良い。こんなのは腹筋に力を入れて響かせれば済む。声を貼ってみるのも面白いのかも。

 

結局は誰に認められるかということより、自分にどこまで可動域があるかのこと。

この域になったからかもしれないが、ずっと肩と首が凝っていたのが今日触ってみたら柔らかくなっていた。知らんけど。

 

さておき。

 

本題。

 

頭の中がかなり自由になってくると、人が言葉でしか考えらないのはやっぱ嘘というか、段階的には初期なんだろうなと思う。名前が付いている料理しか料理でしかないと同じようなことで、例えば名前が付けられない感情は存在するが、それに言葉でラベルを付けることで、名前が付いているようにしてしまう。

 

確かに話し言葉って世界を知っていく機能はあるのだが、そこで留まっていると容易く自分と社会が同期されることになる。そうじゃない自分も人も名前よりもっと前にある訳で。

 

この文脈で、本能的感情としての言葉がそれほど信用ならないということになっている。AIの本だったか、種の存続のための衝動と、人間の進化は連動していないとかあった。例示だと、糖質を求めるのはかつて不足していた人類史上で、体が食べられるときに蓄えておけよと衝動させる名残だが、いまや不健康になるのを知っていても過剰に食べてしまうとか。

 

自制心がないとか理性がないとかいう話になるのかもしれないが、そもそもなんで不健康を求めることを自制しないといけないのかというところ。僕の中では体が重くなるのは困るとか、糖質摂り過ぎると体調悪くなるというあくまで自分の中の理由なのだが、自分の中の理由において食べている人ってどれくらい居るのだろう。

 

DNAとか生物学上の衝動を正しさとすることの疑わしさってこの辺りなんよな。社会的になるともっと胡散臭い。いや、別に当人がどれだけ不健康になろうが、それを自分で理由付けていれば問題ないと思う。人間っぽい。ただ、それが、なんとなく蔓延している正しさへの反発だったら、うーむと思う。

 

こういうのは、自分がどこまで人間であるかというか、人間をどのスケールで捉えているのかということだと思われる。愛着とか恋愛感情も良いものだが、他責にできるようなものでもない。

 

僕は原始仏教の捉え方はだいたい好きなのだが、八正道はなんとなく駄目だ。正しい行いとか正しいなんとかで、この「正しさ」の中身を教えてくれと思う。まぁ宗教の構造として正しいことを標榜してなんぼというのは分かるから仕方がない。割と人の意識が集合していた時代だろうし、インドはバラモン教で階級格差がどうしようもなかっただろうし。

 

そうして、日本の道徳教育の正しさみたいな話。

 

僕の言葉の捉え方として、本音と建て前みたいなものではなく、言葉は当人の語義であり、とりあえずまるっと受け入れるというスケールがあるということが今更ながら分かった。別に広辞苑的な意味ではなく、人はちゃんと自分の言葉として言葉を扱っているはずという目論見。

 

今の道徳がどうなっているか知らないが、僕が受けた当時は、こういう人に同情しましょうというか、相手の立場になって考えてみましょうって嘘ばかり教えられた。部落差別が印象に残っているが、これって施し的な、あくまで自分は部外者であることが前提になっている。だから、建前上良いことはいくらでも言える。

 

僕が教えるのであれば、人は相手の立場にはなれないのは当たり前だが、相手も自分と同じような人間であると想像しましょうだな。で、結局受け入れらないという結論も当たり前で、だからと言って攻撃して良い対象ではない。自分が攻撃されたら困るのであれば他人も攻撃しない。何もしないという尊重の仕方もある。ただ、度外視で攻撃されるのであれば、正当防衛というシステムもあるんやでみたいに現実的なことも含める。

 

風評被害とか、ほんと教育の欠陥だと思う。

 

年下先輩男子と上司の雑談で毎日何百人とか言っているのだが、何かと思ったら感染者数なんよな。そんなに人の不幸が美味しいのかというか、そんなことで盛り上がれるのかいうか。ちゃんと人間か(言い過ぎ)。

 

なんだっけ。

 

僕は自分を遡ってみたところ、特に呪詛はない模様。もっと遊びたいということだし、根にあるのは空と無とかそんなやつ。母親のヒステリーももうどうでも良いもんな。

 

これってある意味法律学からの見地で、法律はあくまで社会という枠内のルールでしかなく、それと個人的な観念は別に連動する必要がないということ。という切り離しができたことによって法律学も面白くなるし、正しさを主張できる人の無根拠性も分かってくる。

 

自分は素朴にこうであるという信念はとても良きことだが、どこまでがほんとに素朴なんだろうな。まぁ、ある時空でしか生きられない以上、その時代と土着からは離れ切ることはない。

 

と突き詰めると、素朴で純粋な自分なんてないということになり、コギトっぽくなる。

 

あんまり知識的なことを書いていないので、最後はそういう感じで締めるか。

 

何かを裁くとか自分ルールを考えるとき、法律学の手法は流用できる。感情で判断するのではなく反対事実がどうかも天秤に乗せてみるとか、ルールには目的と機能がある訳で、それがちゃんと自分にメリットになっているのか、自己観を保つだけなのかとか。

 

僕の中には純粋な意味で自分のための言葉はないらしいから、この日記自体が愛みたいなものと捉えて、余計楽しくなる。

 

あぁ忘れていた。

 

今週末は本で動くことにしようと思ったが、体も動かしたい衝動があり、原点回帰しようかと目論んでいる。鴨川はどうせ人が多いだろうから、誰とも、1人でも行ったことことがない人が居なさそうな巨木に遭いに行こうかなって。好きな人の生息圏だから生活圏には交わらないように。生活圏あんまり知らないけど。

では、おやすみなさい。

 

良い異界を。

 

 

存在の多層化

 

 

 

晩御飯。メインは鯖の水煮缶と人参と茄子とぶなしめじのポン酢生姜炒め煮。日曜日の近所のスーパー、生肉は牛肉とか高い肉を推してくるから買えない。牛肉は生活の肉として好物でもないし。生活の生肉は、豚肉、鶏肉(もも、むね、かた)をローテーションしている副菜はアスパラを茹でて乾燥わかめを戻したものと、鰹節、すりごま、マヨネーズ、醤油ちょっと垂らし。

 

料理と文章ないし思考も良く似ている。アスパラとわかめを組み合わせることはができるのは、実際のその組み合わせで食べたことがあるか、もしくはそれぞれの材料の味から組み合わせて大丈夫だとできるか。何かを考えるって、その対象をとことん分析するみたいなことと思われがちだが、本質は別の対象と照らし合わせたり組み合わせてみたりすることと思われる。

 

客観に耐えうるかという意味でも似ている。僕の料理、名前が付けられるようなものは作っていないが、誰かの味覚に合わせて調整するということはおそらくできる段階にはある。自分の味覚が人の味覚と一致しているかはどうでもよく、自分にとって美味しいものが相手にとって美味しいとは限らないし。対自分だと好き嫌いなくなんでも食べるんだよな。濃いのと脂っこいのは続けると駄目だが、たまにであれば良い。ちょっと乳糖不耐症気味と、小麦の消化力が弱い。パスタはあんまり食べられないが、自作の和風パスタ(塩昆布とか)は好き。

 

文章はどうなのだろう。客観に耐えうるものなのかと考えると。形式(文法、語彙)はおそらく大丈夫だと思う。ただ、味としてはどうなのだろうな。酸っぱかったり辛かったりすることもあるのではないかと想像する。もしくは想像もつかない味。よく食傷気味にならないものだ。珍味は癖になる、ありえる。別に珍味を提供しているつもりはないが、素朴に書いているとどうしてもそうなる。

 

さておき。

 

朝起きた瞬間、もう日曜日か。土曜日はどこ行ったんだと思った。次の瞬間、いやちゃんと土曜日も生きただろうと再現されたのだが。

 

そうして、夕方髪を切りに行った。理容師さんと雑談をしていて、理容師さんが自分の年齢を自己開示してくれた。へぇ、時代がちょっと後かと。それは良いとして、突拍子もないことを言っても問題ないという認識も実践する。休みの日は何しているんですか、と聞かれ、最近は出かけていますと答える。雰囲気的に「このご時世的に」とぎょっとされた感はあったが、続けて、人の居ないところに。この前は琵琶湖に行ってきました、というとなるほどという雰囲気がある。

 

この人との雑談が楽しいのは、ちゃんと楽しく人生を過ごしているのがひしひし感じられるところ。牛乳パックで電車の線路を工作したとか。やってみたら楽しいですよと言われたが、僕はあんまり自分で創ってみるということに時間をかける気はない。ただ、実際の線路と同じような構造が牛乳パックで再現できるという発言から、そろそろ工学分野も読んでみたいなと思ったのだった。物質の耐久力とか構造における変化とか。この分野ってきっとかなり物理的な物質を見ているよな。

 

あと、自分の為だけではなく、子供の為にインドア活動したのが初めてなことに興奮されていた。息子がこの工作物見てどれだけ興奮してくれるかが楽しみとのこと。単純に良いことだと思った反面、なんで近い人にだけしかできないのかという現象について考える。

 

家族だから無条件というフレーズが出てくるとしたら、家族という条件付きじゃんって思う。家族って生物としての素朴な1単位みたいに認識されているが、生物が全部家族を単位として生きている訳でもないし、生物学的な観点で言えば、集合体とか種とかの単位としては適切。家族が単位であるというのは、もっと人間的な発明品だと思っている。これが相続制度とも繋がっていて、要は、自分の複製品として子孫を見ていく観念。財産が承継されることで自分=家が続いていくという一種の信仰と本能がないまぜにされている。たしかに、生物的な意味では親が居ないと自分は生まれないのだが、自分の肉体が生まれたからとて、自分の今の意識が自動的に在る訳ではない。

 

まぁ、当人が楽しければなんでも良い。

 

帰り道、猫さんが最短ルートではない道路の真ん中寄りに座って何かを一心不乱に見ている。何を見ているのだろうと、そろそろと近づいたが、やはり気付かれ目が合ってしまう。「なんやねん」という目だったため、そろそろと通り過ぎた。お邪魔はしないです。猫の感覚器って何が優位なのだっけ。耳とかで観ている感じではないから、やはり気配なのだろうな。僕の気配、全然猫に好かれない。人は、変人が集まる感じか(やや失礼)。

 

そうして、日中の話。

 

なんというか、僕は全然賢くないし不器用だということが改めて自覚される。ここまでしないと世界がクリアにならないのかと。まだまだ読ないと鮮明にならない。

 

昼間は法律学をえこひいきしている。ただ、法律学が至上の世界の捉え方とも思ってない。社会生活上のルールの話だから、あくまでそういう枠のこと。ただし、社会生活の構造自体が拡大しつつ細分化してきた存在だから、一目で全景が捉えられないということ。ただ、この世界を上限と枠づけて生きている人も多い。

 

僕は意志ってなんなんだとずっと思ってきた。行動の志向性なら分かるがそこに内心はどう関与しているのだって。ここまで言語化できていた訳ではないが、目的とか目標とかも良く分からなかった(正味未だに)。

 

ただ、法律学ではこういうものを意思として、これを読んでいてふと今日気付いたことがある。意思ってある枠内の現象を前提に、自分がこれをこうしたらそうなるという意識したした上で行動したことによる、ある意味過去を問題にしている観念。なるほど、今の意志とかではなく、行動からの逆算原理なのか。意志したからそう行動するではなく、そういう行動をしたからそういう意志があったという推定。だったらとても分かる。

 

ただ、これだと新しいことは何もできないな。

 

僕はやっぱりこういうのは駄目だ。自分の行動の理由に名前は付けられない。こういう風にしか客観的に捉えられないとしても。今読んでいる本の中で、あぁ「芸術学」だったか、自分の体験を言語化することは、体験に言葉というラベルを付けるのではなくそのものとして表すことだとのこと。そんな感じ。なんか読んでいる本達、同じようなことを言っている

のが多くて混在している。

 

デカルトのコギトも、現象学リベラルアーツと重ねてくるし。この「我思う故に我あり」という観念は、何か想うところがあるみたいな漠然とした話ではなく、その時代の社会制度とか科学的認識の当たり前を徹底的に疑ってみて残るものが真理であって、当たり前はほとんど真理ではない、ただ、この疑っている自分は疑う余地なく真理だろうというかなり具体的な自己観。この疑いも、はなから嘘だろうとすることではなく、受け入れた上でほんまか? と考えること。デカルトさんの時代は今よりも「当たり前」の拘束力強かっただろうな。

 

存在論は実は難しいという話の前に、常識的な悪いことの話。

 

刑法がかなり面白くなってきている。この本を書いた井田さんの器なのだろう。はしがきで、軽食ではなく、頑固おやじがやっている定食屋みたいな存在として書いていると書いているの好き。

 

現状の社会として何を犯罪とすべきかが研究対象の学問で、殺人罪における「人」の始まりはどの時点かというのは、ある意味では哲学の領域でもある。当たり前に人と認識される存在を人とするのは簡単だが、受精卵はどうか、胎児はどうかとかとなってくると、難しくなってくる。

 

ここで、人の開始を分娩を前提として考えているのが今の社会だとなって、なるほどなと思った。分娩を介さないで生まれたクローン人間は人間ではないらしい。と、「私をはなさないで」との共時性。この物語の世界の主人公は、臓器提供を前提として創られたクローン人間で、その社会では人とみなされていない。僕はこの小説に描かれている世界観がファンタジーとは全然感じられない。人は生きているだけで何かを提供せざるを得ないし、他人事ではないというか、これを他人事として読めない人が多いからノーベル賞になったのかなとか。

 

結局は倫理感の話で、複製は分娩を介すべきで、だから大事にできるみたいな考え方なのかな。民法もそういうところがある。代理母ではDNAではなく実際分娩した人が法的にはは親(あやふや)とか。僕は別に自分のDNAが同じ存在が在ったとしても、同じ意識には絶対ならないと思うくらいの自負はあるから、割とどうでも良くなっている。

 

もっとまだまだこの人生で遊びつくせる。

この認識で誰かと個人的関係になったらどうなるのだろうな。

 

僕はあまり現実に関わらないところで思考をしてきたが、そろそろ現実にはみ出しても良いかなとなってきた。例えば、マネーゲームとしての投資とか。いや、元手が全くないから実際参加はできないにしろ、実際に参加できるかどうかは特に問題ではなかった。歴史にも参加できないし。資格の方も、蓑というか、事務処理能力の訓練としては中途半端でやめるのも宜しくないなという感じ。肩書に反響されるのもどうかと思うが、そういうのもどうでも良いかという感じ。

 

あと、存在の話。

 

存在という言葉の意味にも色々階層があるらしい。何を現実とするかは結局直感に頼っているというのは哲学本だったかで、素朴な僕には当たり前だったのだが、やっと肯定された。現実感は一種のフィクションでしかない。

例えば普通の人の目には紫外線は見えないし、宇宙行ったこともないのにこれらを現実とできるのは、それが現実だという知識があるからだが、その知識はいったいどこから来たのかというと、社会の共通認識でしかない。

 

宇宙の話では、宇宙の構造のほとんどは人間が機器を用いても認識できないダークマターで占められているとか。僕はこの話、普通だと思った。観測方法とかは知らないが、なんでそんなに認識を重視しているのか。

 

 

個人で重視すべきは現実感ではなくもっと素朴な実感。実感の中には他人と共有できないものがいっぱいあるだろうが、人ってそういう存在。僕は実感を言語化しているが、この字面で共感してくる人が居ればそれちゃうでって今なら言うと思う。

 

色々あらためてしようと思っている。社交はなんとかなりそうだが、創作は僕にとって最終段階としている設定っぽいから、まだまだかも。でも、料理とか想像力の延長だから、そのうちするようになるだろうなという予見はある。

 

この器、満遍なく好きになるからややこしいんだよな。

 

おしまい。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

貫禄

 

 

かなり楽しき1日だったんのだが、帰りの電車の雑談という雑音で一気に現実に戻ってきている。今度からこの意味でイヤホン要るな。人って後ろから歩いてくる人に気付かないものなのかと思ったのだが、一般的に現実って別にそこまで外界に注意向けなくて良いからか。

 

外界に研ぎ澄ませていると音の情報も構成物だが、雑談も自然と入ってきてしまう。地方の生活道路でイヤホンなんかしていたら危険極まりないし、自然の音も聞き漏らす。

 

おそらく20分ぐらいだったが、2人とも言葉が尽きない。言葉が尽きない人格って話し好きっていうより、なんか間を持たさずにはいられないというか、もっと言うと、何かほんとのところに届かせないように威嚇しているのではと見える。何が不安なのだろう。だいたいこの期間で、この2人の関係(同僚)とか、恋人関係とか、どういう性格なのかの事務情報は分かった。同僚でこれだけ会話していて、なんとも公転的な会話をしているものだ。まぁ、雑談って、字のごとく雑な談話だから会話が尽きない人はそういう雑に遣える語彙がたくさんあるのだろう。たぶん1週間後には何を相手が話していたかなぞ残っていなさそう。

 

臨月になった夢を見て、心臓よりお腹が大事だと思うことなんてあるんだという発言は、相方には良い話ですねーみたいに言われただけだったが、なかなか本質を突いていてるような感じがした。手放しに大事にできる存在を欲しているというか。

 

雑談の目的は時間つぶしにあるとしているが、もっというなれば、表層的な親密感が目的とされてそう。でもこのフィクションというか神話性があるから、人は人と近くなったと思い込める。

 

個人的な今の見解だと、人は人と一生近くなれない。だからこそ近づこうとすることに意味がある。本に引き直すと、一生新しいページが更新され続ける存在。

 

さておき。

 

朝起きて、さて夫婦杉と検索してみたら、片道5時間。おふ。地理情報不足。これから出発したら本日返って来られなくなる。そうだ、四国の電車も海岸沿い通るからやたらと時間かかるのだった。5時間となると、母親が住んでいるところに付きそうな移動時間。始発か泊まりではないと厳しい。ちょうど再来週に連休があるからそこで行くか。

 

ということで未来が変わる。本日はあんまり孤独にはなれなかったが、何処にでも1人は居るということに貫禄を感じる。

 

近隣でまだ1人で行ってない奈良県に絞り巨木で検索すると電車で2時間らしい。今や2時間くらいであればすぐという感覚。近鉄電車ではなく南海電車だった。大和二見駅についたのが1時くらいで、トイレが綺麗で感動した。まぁ、観光ルートだからだろうが。コンビニを探していたらスーパーが見つかりとりあえずビールを一本購入し、ベンチに座って灰皿の横でタバコを吸っていたら、お爺さんがやってきて話しかけられた、全然要領を得なかったが、今日が暑いということと、煙草に投資してきた金額が2000万円だとか。僕という人っぽい存在に相槌を打たれて満足そうだった。僕はこういう人結構好きかもしれないなと感じた。人の話あまり聞く気がないが、特に毒がない。ただ、今考えると、雑談の括りって、何かキャッチボールが成立しているように見えたとしても、こういうものだよな。

 

僕はこのお爺さんのTシャツに付着しまくっている白い毛に、猫の存在を感じ、ええなぁと想っていたのであった。

 

そうして、やっとちゃんとした巨木の存在に対峙する。お寺なのかは知らないが閉まっていたため、塀越しだったが、なんだかむずむずする。「いのち」と名付ける人もいるかもしれないが、僕はあんまり名前を大事にしないから、むずむずのまま一礼して、観光ルートに戻る。

 

かなり閑散としていて、商店街も開いているのか閉まっているのか分からないが、観光っぽい人はぽつぽつ居る。なかなか魅力的な路地がたくさんあり安心な迷子が選び放題。路地は人工物だから、だいたいはどこかに繋がっている。ただ、猫町みたいに異界に繋がることもあるから気を付けないといけない。、まぁそもそも、誰かが過ごしている時間と空間ってほんとは全部異界ではある。言葉が通じるから同じと錯覚されているが。

 

そうして、奈良行きの電車に乗り、色んな異界を垣間見ながら進む。いかにも若者という服装を着た人達が乗ってきて、2駅先で降りていく。何かのライブでもあるのかな。そのとき1つ開けて隣に座ったギャルの足がふと見えて、足の爪の赤が、良く見ると剥がれている部分が所々にあり見てはいけないものを見てしまった感。良く知らないが、頻繁に塗り直さないと綺麗を保てないのだろうなという想像。

 

ここで生活している高校生も乗ったり降りたりしていていて、ちょうど正面に、この子美人に育つだろうなという人が座っていた。単なる目の感じの印象だが。まぁ美人に育つことが良いことなのかは知らない。それよりもその子のちょっと離れた横に座っていた男子が、勉強し過ぎなのか動画の見過ぎなのかは知らないが、プリントを見ながら寝落ちしてプリントを落としてしまった。反対側のちょっと離れたところに座っていた女の子がそれを拾ってあげて、起こさないように男子の横の座席のところに置いた所作が美しかった。いい子。みんな頑張れ。

 

ほんとは、奈良駅から御神木に寄って帰るルートだったのだが、電車に乗っていることにダレてどこかで一回降りたくなってくる。ちょうど、調べている時に気になっていた駅に着き即降り。天理駅が気になっていたというよりは、この単語から中学校の同級生の女の子を思い出していたからだった。別に美人ではない。笑うともともと細い目がもっと細くなる。この笑顔と、中学生時の思春期真っ盛りにも関わらず普通に会話できていた印象と。

 

当時、当人に聞いた訳ではない単なる噂で、天理教の家だとか。その頃宗教って得体の知れない存在だから触れられなかったが、そのままやっているのであれば、この街に居る世界線もあるかもしれないって。僕の時系列、というか誰の時系列でも改めて対話したい人なんてほとんど居ないだろうが、僕はこの人とは話してみたい。

 

残念ならが時空は越えられなかった。対人で時空を超えることは本とか意識とは勝手が違う。まず、それぞれ生活があるし、「ただ対話する」という時間も場所も基本的には用意されていないし。

 

ともあれ。この街は面白かった。僕は天理教の教義については全然知らないのだが、雰囲気的に宗教都市だった。宗教と学校が結び着くのはどうかと思ったが、歩きながら考えていると、宗教と社会とか国家の違いって、規模くらいの意味しかないよなという発想が浮かぶ。その中で生きている人が自分に満足できるかという問題でしかない、ということからすれば、社会とか国家の方が劣っているとも評することができる。

 

要は、建前ではなく、本当に幸せなのかという問いに対する答えは民主主義も個人主義も資本主義も持ち合わせていないが、宗教は少なくとも真面目にそこを見ている。まぁ僕は幸せという観念自体に疑問を持っている立場なので、幸せとはなんぞやみたいな観念的な問いはどうでも良い。

 

この街には石上神宮というものがあったが、これってほんとに神道のやつなのか、宗教アラカルトかと通り過ぎた。で、この辺りで16時。歩き足りず調べたら、近くに滝があるらしい。「徒歩50分」。毎日毎週末歩いていて、これくらいは近くなった。体力だけ付けてもこの感覚には至らない。毎日の動きを自在化させるなら訓練としてはきちんと歩くで十分。

 

 

まぁ、僕は汗をかくのも歩くことで移りゆく景色も好きだから、ただ疲れるために歩いている訳でもない。蛍の下りの白い花、一輪だけ咲いているの見かけて、びっくりして満開の笑顔になった。時空超えた感。

 

滝まで行く道のりも面白い。小川を遡って行くのだが、草の倒れ具合で、昨日はもっと水位高かったのだろうことが読み取れる。川の水も濁っているし。ほんと逐一言語化できるのだが文字数。田んぼでお婆さんが座りながら作業していて、スコップで泥を掻き出している。いささか勢いが強く泥が道路まで飛ぶ。きっと僕の存在気付いていないだろうなと思い、長縄飛びみたいにタイミング合わせて走り抜けた。

 

滝は、凄かった。もう汗だくで体温高温で、少々のミストはどうでも良い。水量と迫力がすげぇ。動体視力を駆使して見ると、同じカタチが全然ない。戯れに仮に岩が一緒に落ちてきたら僕は避けられんだろうなとかも想う。

 

僕が特に神様を信仰していないのは、巨木は先輩みたいな感覚だし、全ての物に神が宿るのだとしたら、この水の流れは地球に水が生まれてからずっとあるものだし、水分が含まれていない物質はほとんどないだろうし、当たり前が神様みたいなものだから。

 

立派な存在を信仰したところで自分が立派になれるわけでも無いし。

 

どうでも良いが、徒歩1時間って、僕の幼稚園と小学校の通学路くらいの道のり。小さい身長というのもあるにしろ、だいたいもともとあった距離感。いまや特に歩けない距離ではない。

 

ここで出てくるのが、そこまで時間をかけられないという大人の感覚だが、そもそもちゃんと時間を遣えているのかという再反論が出てくる。時間は多元的な観念だから一元的な客観時間だけで見ていたら、いろんなことが終わってしまう。

 

もっとどうでも良いことだが、なんだか体が絞られてきている。縄文杉への準備なのかしら。行った人が、凄く歩かないと辿りつけないと言っていた印象が残っている。6時間くらいなのか。都会人の6時間くらいであれば、4時間くらいな楽観。いや、そんなに歩かないといけないならほとんどの人行けない気もするから、もっと短いような気もする。

 

あと個人的に富士山にも登るつもり。どれくらいの距離だろう。標高三千いくらを直角で歩けるとしたら3キロだが、人間は直角で歩けないから、三角比をもってくる。30度の勾配だったら倍の6キロくらい。6キロって、勾配考えても三時間あれば上り切れるな。

 

例えば、1時間歩いて自分の体と向き合うより希少な時間をほんとうに過ごしていると自信を持って言えるか。

 

僕は別に自分が賢いとは思わないが、自分の可動域については見ている。

歩くことと思考は良く似ていて、自分が動ける分でしようとすると、無理やり自分に都合が良くなるようにしてしまう。

 

でも、別にそれが悪いとも思わないのが、僕の人好きなところなんだよな。

 

雑談から持ってくると、自分に有益なことをしてくれる人が良いが、それをやってやっているとアピールしてくる人は駄目だって言っていた。とてもわかりやすいが、当人は相手に何をしているのだろうって想ってしまう自然な思考。でもこの人の中ではこれが世界の全てなんよな。

 

全然知識的な話してない気がする。

 

僕が学者とか何者にもなれなかったのは、興味対象がないのではなく絞られなかったからではとなったが、これはとてもご都合主義な解釈。実感としてはそうでも、客観としての説得力はない。

 

来週末は体を休めて、もっと頭で移動するか。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

尊重

 

 

 

むかーし、道徳の「世界からいじめがなくなるには」というテーマの作文で、「ひとりひとりが相手を一段高いものとして接すればまわりまわって世界は平等になる」というようなことを書いた。先生にはそういう世界になれば良いですよね(理想論)って言われたが、今の僕の世界はそういう感じである。この感覚を肯定してくれる本にも本日出逢った。

 

さておき。

 

本にまつわる人との出会いを書いていたからだろう。夢に我も入っているだろうと、いう人物が出てきた。院を卒業したあとにバイトしていた新大阪駅のJRの改札内にあった、今は潰れている喫茶店の店長。夢の中では名前は思い出せなかったが、今は再現できる。

 

この人との雑談はとても楽しかった。かなり哲学的な雑談をしていたし、森さんの本を読みだしたのもこの人の影響だった思われる。パートの女性には、あんな無口な人と良く話しできるなと揶揄されたが、なんのことない、人が自分を見下していると観測される人に心を開くはずがない。お互い様だろうが。

 

まぁたしかに、この店長には本能に訴えかける体質があった。匂いって社会的距離においてはどうしようもないところがある。僕はそんなことより会話が楽しかったからあまり気にならなかった。本は長いければ長いほど良いとか言っていたな。その哲学愛を何故人に向けないのかとは思ったが、人それぞれ。ここが潰れた数年後、別の駅の喫煙所でこの人を見かけた。上の方に時の経過を感じる。覚えられているはずもないと思い、話しかけなかった。あんまり無関係に時空を超えてはいけない。

 

夢の後半は、夢の中の布団が血みどろだったのだが、これは昨日料理中に関孫六さんの歯が指に当たり、あ、やべ切れたかなというヒヤリ体感が反映したのだと思われる。手の指が血にまみれた経験って、あったかな、あったような気もする。

 

目が覚めて、快晴の中出勤。太陽に情緒をあまり感じないのはエネルギーが多すぎるからだろうな。何かに遮られた、何かを通した陰影は好きだが。昨日見かけた、顔の大きさよりやたらと大きい眼鏡をかけた女子中学生と、同じ時刻と場所ですれ違った。昨日は制服だったが今日は体操着で、何故か、「頑張れ」という言葉が浮かぶ。

 

その後は水滸伝について考えていた。たしかに映像化がとても楽しい作品。師匠がかっこよかったとイメージを残しておいたら、王英だったっけ、林冲、楊瞬、楊令(漢字が違う気もする)、と芋ずる式。戦斧を振り回して虎に勝つ料理上手で母親思いの人物とか、石積みの罠が上手い人とか。映像化のしやすさでいうとハリーポッターとも共通項があると思われる。

 

昼休憩時は、雨の時間。公園の池に落ちる雨粒を観察しながら、泡ができるときとできない時の違いを考える。雨粒が落ちることによって水面がはじけて膜を作り。中にたまたま空気がある時に泡ができるのだろうが、凄く確率低いのでは。しかし水面は泡だらけで弾けている。

 

本屋に寄り、「難しい天皇制」を購入。象徴という言葉にまつわる共時性

憲法第1条が規範命題なのか事実命題なのかという話も面白い。法律(憲法は厳密には法律ではないのだが)って、ルールを呈示するものだから、「べき」的なもの。厳密にはべきは当為命題だった気がするが、ともかく。天皇は象徴であって国民の総意に基づくものであるべきというのというのが規範だが、この規範付けって、人は殺してはいけないという規範(刑法199条)と比較すると分かるのだが、「行動」のルールではなく、「内心」のルールでしかない。そう思うべきということを法が決めることはできないのが現代の人間観だから矛盾するよなぁ、だったら、象徴であるという事実命題を呈示しているだけだろうという解釈。でも、事実を規定することに何か意味があるのか。

 

仕事は普通。仕事上の会話も結構楽しんでいる。対話ではないが。

 

仕事帰りは雨は上がっていたのだが、今週の最早番から来週の最遅番の切り替えでやたらと時間ができたため、店長を見かけた駅の中くらいの本屋さんに行くために電車にのった。3駅分の移動をして、一服し、まずは法律棚に寄ってぱらぱら。情報法とかAIの法律が気になりつつ、天文学の棚に行く。専門書というよりは実用書の延長みたいな本ばかりだったが、画像付きの、「宇宙はどういった時空でできているか」という本にした。「宇宙」と「世界」ってほとんど同じ意味っぽいな。

 

宇宙はたしかにスケールはやたらと大きい。地球がある銀河圏の半径は650万光年ということらしいが、測れない、行く時間もないという意味での個人規模では地球のスケールとしての世界と実際にもあまり変わらない。

 

ついでにちくま文庫も見てみたのだがお目当ての本は見つからず、他の本がいっぱい呼んで来る。「人間の条件」とかとても気になる。あぁこれと同系統の、文化の起源は「遊び」であるという本も「難しい天皇制」を買った本屋で気になったのだった。僕は見ての通りめっちゃ人生で遊んでいる。

 

あと、懐かしい本を見かけた。三島由紀夫さんの「新恋愛講座」。この本は大学受験の模試で出てきて問題そっちのけで気になっていた本で、大学に入ってから図書館で借りて改めて読んだのだった。この方向でやれば良かったのに、周りの人間関係がやたらと温いというか止まっていて、滞ってしまう空白の10年くらい。

 

空白というか、ちゃんとふつうのまともな人達だったのだろうと思う。人の価値は自分にとってどうかというものさしで決まるみたいなやつ。このものさしだと安定した人格で居られるが、新しいことは収集できない。

 

僕は本を人のように捉えているが、この「人」の観念には、時系列ごとに自分を導く人物が現れたという前提がある。抽象的な人は尊重すべきみたいな知識ではなく、人は自分を更新させるという体感。

 

ここで対話の話だが、哲学本で、コミュケーションが成り立つのは、相手を師匠として影を追うことによるというフレーズがあって、やっと、ここまで来たかという感慨。議論とか説得とか教育とかではなく、対人における言葉の交換はこういうものだよなという感覚を肯定された。自分の世界に引き直して言語化することではないんよな。解放感。

 

こういう風に言葉を交換できるようになったらいじめはなくなると思われる。

 

だってほとんど誰もこういう風に言葉を遣ってない。最近はわりとこういうこういうものさしの人と出会えてきたが、たぶん当人達に自覚はない。

 

芸術学にも象徴という概念の多様性が出てきて共時性なのだが、象徴という観念の本質は、本来は別のものを同じものとするという作用であって、言葉の機能とも通底している。痛さは本来その人固有のものなのに、頭痛という言葉にすることで、同じ痛みがあるのだとできる、みたいな。これは共通幻想だが、この幻想を信仰できるようになれるのが言葉の神話性。

 

社会では、言葉だけでは信用に足りず、何か他の証拠が必要になる。

これが社会的距離感における人間関係。

 

心理的距離感によって物理的距離感が変わるという記事を読んだが、こんなのふつーに当たり前だと思った。だから、空間をデザインする工学領域がある訳だし。まぁ、僕の時空の捉え方は確かにおかしい。皆さんパートナーが居るので良き。笑

 

ただ、証拠を必要とする人間関係ってどうなのだろうなとは思う。

 

証拠って事実の世界の出来事であり、パートナーが新しくなったことによって新たな体感があったことを事実として積み重ねても、意味の世界は拡がらない。

 

意味の世界とはなんぞやというと、心理的影響値という名の波紋で、僕のこのインターネット世界における存在って、少なからず波紋があるよなと。これによって当人の現実が変わるかどうかは知ったことではないが、意味の拡がりは人格の拡がりではある。だからといってどうということでもないが、存在として尊重してもらっていることは感じられる。

 

で、誰にも見られないところで書くことはできないよなと思った。

自分の中だけにあることは言語化する必要ないし、ないならないで良い気もする。

依存ではなく意志。

 

僕は個人的にやっと自分の目で世界を見られるようになってきたという実感で、認識も絶賛(自画自賛)更新中。これを現実的にどこまで遣うのかはまた別のことだが、それほど人は人を尊重していないと認識があればやりようはあるよな。

 

明日は熊野詣の話になる予定。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。