秘伝

 

 

 

自分がまどろんでいた時代、動作も発話速度もゆったりだった。あんまり聡明な感じではない。ただ、その時代でも1回だけ怒ったことがあり、事後に相手からそんなに澱みなく話せたのだと言われた。自分には自分で知らない部分があるのだという発見、というエピソードを昨日の日記を読み返しながら思った。

 

ここでは擬態する必要がないのか。

 

人生はだいたい幻想ばかりで、結局のところどの幻想が都合が良いのかで選ぶくらいしか人間にはできないのかもしれない。

 

本日つぶやいたのは、あまりにも自分がうじうじと動かないから現実化の前に言語化して強制的に自分の体を動かすという試みだった。Kindle端末探しの旅。

 

実際に触れる店舗は限られているとのことで、調べてみると、この前探しに行った店舗にもあるらしい。電車で2駅。で、それらしき端末はあったのだが、ほんまにこれかと思い、もう1店舗。今度はバスに乗る。初めてのバスはとても不安を煽る乗り物だ。目的に着くのか分からないし、どのタイミングで着くのかもつかめない。

 

まぁ、目的の駅はむかーし働いていた日雇い派遣会社があるところで駅自体は勝手知ったる場所。自分のお姉さん元気にしているだろうか。ハイエースに詰め込まれて1時間くらい移動したあと工場でひたすら単純作業。なかなか面白い体験ではあったが、人間が道具扱いされているという実体験ではあった。結構皆さん派遣に当たりが強いから、たまにちゃんと見ている人がいるのが際立つ。

 

という感じで、電車に乗ったのだがちょうど来たのが特急だっため目的の駅には止まらない。こうなってくると歩きたくなってきて、この暑い中一駅ちょっと歩く。特急で止まった駅もかつての友人と飲んだり、前の職場の退職後のアレでハローワーク行ったりした駅。

 

着くころにはお腹が痛くなってきて、暑いどころではなく冷や汗だった。「今在ること」に痛みが寄与するというのが実感される。いつ爆発するか分からない(とはいえ経験則からすると余裕のある)お腹を抱えながら、「人生とはなんぞや」なんて考えられない。いや、僕は考えていたが。笑

 

今度の家電量販店にはチラシもあったから分かり易い。パラパラめくってみたのだが、感情に訴えることは無かった。紙媒体が至上として、これなら今のスマホとほとんど大差がない。画面が少し大きい分だけ効率は増えそうだが、それでも数パーセントくらいではという感じ。これを買うくらいであればタブレットを導入した方が良いという結論。

 

ただ、全然無駄足ではなかった。実際に見て触れてみることで、漠然が具体化されただけで重畳。帰り道もそのまま別の鉄道会社の線に行くように歩いたのだが、初めて歩いたとしてもだいたい地理的な位置関係分かるから、方向音痴でも全然迷子になりようがないことだけがちと残念なだけ。あと、こんなに歩くと思っていなかったから日焼け止めを塗っておらす、結構こんがり焼けているだろうな。

 

 

さておき。

 

なんとはなしに、ブログサイトで書いた記事の本数を眺めると、前のタイトルを越えていた。348本だったかな。その前が347まで書いてやめていて、間に呪詛が過ぎるため誰にも読ませていない2本がある。一般的にはもっと有用な時間の遣い方があるだろうとなりそう。アフェリエイトもまったくしてない。でも、こういうのが僕だけの時間の積み方として正しい感じがある。無意だからこその自分時間のお裾分け。

 

そういえば、昨日パートナーシップについて書いたが、世の中の関係が全部まがい物だとは捉えていない。ちゃんと選択したのかどうかを問題としているだけ。選択したという意志はその時点では本心とされるが、未来からは誤っていたとされるのかもしれないが、まぁ良いか。

 

そういえば、本日のフィールドワーク。ある飲食店が、2回打ったという証明書を呈示したら優遇しますよというポスター。こわ。これと繋げてスマホを見ていたらポップアップしてくる、本日は何千人ですという記号。流石に事実を改ざんすることはしていないとは信じているが、こういう手法は行動経済学にあった。選択を迷っている人を後押しするという政策。ナーフっていうのだっけ。ニューロマンサー閾値下と書いてサブリミナルと読み仮名が振ってあるのとも近い。

 

終末論的な人の記事だと、人間の人間らしさをなくすようなことを目指しているという話があった。感じより論理というか、正しさみたいな。いや、これってもうとっくにそんな感じではと思わなくもない。むしろそういうのが教育みたいなところでは。

 

閑話休題

 

炎天下を歩いているとき、ふと僕はもっと自分に役立つことを思考すべきではという想起があった。昨日のパートナーシップの言説みたいに、世の中の構造を分析するみたいなものとか、自分がより幸せになるためにはどう行動すべきかみたいなところとか。でも、全然興味がなかった。思索の一部であって何も分からないし、幸せという概念も僕には要らないらしい。雑くないかという見解

 

幸せという概念が雑いのは、人生上の成功者のレールに乗ることみたいなところと、「快」にまつわる感情をいっしょくたに突っ込めるところ。心地良いのか、楽なのか、快感なのか、快適なのか、安心なのか、慈愛なのか、満足なのか、以下言語は有限だが、感じは無限。

 

僕の人生はこういうざっくりした当たり前を分解していくところにあるのかもしれない。

ただ、ブッタさんのようにはまだなれない。感情は行動の動機にはならないあやふやな選択肢の1つでしかないが、もっと人を個人的に知りたい衝動は否めないし。

 

機械学習とAIも気になる。「AIは人を憎まない」はAIが人類を滅ぼすのではないという見解がたくさんあるのだが、これ以上の見解は自分である程度やってみたいと生まれないだろうし。AIには遊びがないところが問題なような予想なのだが、人自体もそんなに遊んでいないような感じだし、何が違うのだろう。

 

エックハルトさんが書いて居たのだが、思考するときは全身でするようにするというのは、身の丈に合わない思考をすると、万能感が生まれて齟齬ができてしまうということなのかも。民主主義を体でもって思考するのであれば、他人の正しさと自分の正しさが違っていても採り入れる痛さを受け入れてからとかになるのか。

 

知らんけど。

 

モモと現代社会の相似。

 

暇がないというのは最大限の現実的拒絶よな(痛)。なんだかマザー3感もある。貨幣とメディアが取り入れられることで個人ではなく集団的価値観が重くなる。

 

時間泥棒のメタファーって、おそらくこういう社会的ものさしだと思った。そんな時間はなく、自分の役に立つことに時間を消費せねばという意識を発明する。こうやって追い立てられると不安感がどうあってもセットになってくる。自分は(一般的尺度において)時間を無駄にしていないかって。不安がある人をコントールすることはほんと容易い。いや僕はサイコパスだがこういうことはやってないです。政治の話。

 

免罪符と似たような話よな。身分が固定されている時代においては今生の苦しみはどうしようもないが、良い行いをしたら来世では良くなるよ、みたいに、打ったら平常に戻りますよって。

 

モモ、個人的にホラーっぽい感がある。

人が時計時間に生きることで自分を見失う。ただ、これって、僕が生きてきた人生上の人達でもあるという。高校時代の拘束時間のとき、ちょっと好ましかった女の子とガラケーでメールを交換しているときに、ふと、「身体は忙しくても心は暇人」というフレーズが出てきて、素朴な僕はまだこのままで居られているという感じ。いや、やっと現実化できているのか。

 

結局この女の子とは特に何もなかった。卒業後に2人きりで深夜の道の駅で会って話したが、一切具体的に物理的に触れては無い。肩が触れるとかは有ったと思われる。ただ、この女の子深くならなかったのも正解だと思っている。この人は僕を見ていた訳ではない。

 

と、考えていくと、まぁまぁ綺麗に全部避けてきたんだよな。

ちゃんと自分になれるように生きてきたからここに至っている。そろそろ友人に会ってもえぇかな。

 

ここでハリーポッター。人は何を選択したかで決まる。僕もファンタジーに化体して書いた方が良いのではなかろうか。直接書くとどうあっても棘があるから、ファンタジー的なサブリミナルみたいな。やっと「秘密の部屋」終わった。個人的にこの物語のメインって、スネイプ先生なのではないかと思わなくもない。「謎のプリンス」好き。1番人間っぽくないか。

 

戻ってきて、人のエネルギーの交換について。内側だけに親密性があるという感じは、肉体的な安全とセットだから、「幸せ」みたいなものなのだろうなと思う。ただ、僕はここにまつわるてきとーさが随分と嫌だった。内側だと他人が規定値になる感じ。この話きっとあんあまり通じないだろうが、人の観念がより雑くなる。

 

僕はまぁ良い年なので、誰かといちゃいちゃした経験も一定数あるのだが、このとき相手って別に交換可能だよなという本音の原理がある。最中にある感覚って、個別具体的な固有名詞的な相手ではなく、自分が誰かを通して世界と一体化しているという交換なのではという感じだった。ある程度誰とでもできるし誰かともしてきたことなのに、時間を区切れば固有になる不可思議。いや、たしかに秘伝でプライベートな領域だから吹聴するのは論外だが、ほんとに人と人の交わりなのかとはなる。あくまで外的なステータスの話よな。

 

僕は本質が知りたいだけだから、別に誰かがそこで留まっていることに対してはなんともない。結局、自分にたどり着くのは当人でしかなく、そのたどり着いた当人が、ふわふわした時代のレールより楽しいかどうかもワカラナイから、たどり着いたら楽しいよなんて言えない。

 

だから、断言してくる啓発本は割とうさんくさい。

でも、人って、基本的に外から貴方は正しいのですよって言われたいものか。

僕なら、貴方は面白いですよって言うが、僕に面白いと言われて嬉しくなる人はきっと変人である。

 

あぁ、感情の話。

 

怒りは通り過ぎるものだが、一向に通り過ぎない感情がある。せめて熱が失われれば良いのにと常々思うのだが操作はできない。

 

熱が無くなった感情はすなわち思い出で、陰影としての過去になる。

僕はいまに重きを置いているが、過去もいまの一部として過去という言葉も削除している。

 

熱が無くても想いの残滓は無くならないし、それくらいにならないとちゃんと相手を捉えらないというところは否めない。関係になると、相手の中の自分とかややこしい次元が出てくる訳で。僕は人を役に立つ(共通項がどれだけ多いか、発見が多いか)みたいなところで見てないから、人1人と接するだけでかなりのエネルギー。

 

モモが、時間銀行の職員から、お前の存在は人がきちんと生きる上では邪魔なんだって詰められていて、なんだか心が痛くなった。他のものさしとか、自分を省みる視点を呈示するって確かに邪魔ではある。

 

好きな人の不可思議さはこの辺りにあるのだが、あんまりあえてここで言語化したくない秘伝。

 

おしまい。

 

では、良い夢を。

 

おやすみなさい。

 

時間の扱い方

 

 

おのおの砂場で1人遊び。相手が建てたお城を眺める。

 

 

さて、弁当画像で思ったが目玉焼きの位置がうまい具合に毎回逆になってないか。意識したことなかった。飽きない工夫かもしれない。目玉焼きと言えば、長く過ごした恋人さんと同棲しているときに論争が起こったのだった。ありがちな、どの調味料をかけるのかというやつ。恋人さんはケチャップ派で僕は実家の流れでしょうゆ派だった。こういうのは自分の当たり前が正しいということを認めさせるより、2人で第三の調味料を見つけようという感じの方が面白かった。そこまで遊べてなかった。

 

そうして、弁当画像を見ればわかると思うが、今の僕は何もかけなくても良い派になっている。これは健康嗜好というより、なんもつけなくても味はあるよなとなっているだけ。洋風の時はケチャップで、和風の時は醤油とか塩とかでも良い。要はなんでも良い。

 

こういう個人の食文化の当たり前(好き嫌いも含む)はほとんど外付けなのに、アイデンティティに含まれるとされているのはちょっと感慨深い。文化の継承という使命感が無意識にあるのか、なんと壮大な話。

 

でも、たしかに家族の食しかないところから離れた後の最初はびっくりする。家にはケチャップとウスターソースは常備されていたが、トンカツソースなるものはなく、トンカツと時はケチャップとウスターを混ぜたものにつけて食べていた。今思えば味が濃くてしょうがない。塩コショウで下味ついているのだから、別に何もつけなくても食べられるよな。今作るならそういう風に作る。自分の味付けに調味料をどぼどぼされて悲しいという話も聞くが、そういう時は悲しんでいる場合ではないのではとも思わなくもない。僕は、薄味ですまんなとは思うかもしれないが、そんなに悲しくもないかも。

 

僕の食文化はもちろん実家をベースとしているが、その後は自分できちんと開拓している。母親がセロリ嫌いだから、初めセロリを食べたときは仰天だったが克服してセロリが安いと嬉しいし、わさび菜も空心菜も出てこなかったし、味付けも自分が良いように色んな人の料理を採り入れて施行してきた。でも、これが誰にでも万能の美味しさとはとても思えない。自分が作ったものは美味しく食べられるべきだという観念はお金を取っているか、何かの契約上のものだろうなとしか。

 

これは個人の思想上の文化でも同じことではないかという発想。他を採り入れれば自分の正しさが翻されるのは当たり前であって、正しく在るためには学習機能をオフにしないといけない。

 

こういう人が、僕が料理を作ってくれた人に対してお小言を宣いそうで怖いとか外から言う。これ言ってきた人は全く料理を作らない人で、嫁ができて作ってくれたら全部なんも文句言わんと食べるとか言っていたが、これ以上続けると腹が立つので止める。

 

それぞれ積み上げてきた文化が違うことに対して今の僕が何か言う訳がない。

僕の料理文化は生活と実験の両輪みたいなもので、同じように作って欲しいとも思わないし。作れるならよほどの変人だが。

 

要は、知れば知るほど、すればするほど正しさという中途の観念がまがい物だったと分かってしまうということ。正しさというよりは、正当な対価がありうべきみたいなところなのかもしれないが、この連動はとっくに廃棄した。

 

人間は機械ではないのに物理的な質量保存の法則が適用されているような。

なんで返ってこないことをしないのか、返ってこないと悲しい、無駄だと思うのか。

 

さておき。

 

夢の話。かなり気分が良く寝入ったのだが、夢の中では容疑者だった。

 

何か共犯で車を盗んだという嫌疑で、取調べみたいなことを受けている。何故か容疑者ではない他の大学時代の知人も含め、テストみたいなものを受けさせられている。様々な種類のペンが入ったペン立てから1本選ぶように促され、おそらく心理傾向を見られているのだおろうなと思いながら、鉛筆を選ぶ。

 

で、テスト用紙に、僕は共犯者(社と誤字っていた)と疑われている中で、疑いを晴らすためにはと書くのだが、他の人がめっちゃ早く書くんだな、見にくいのにって言う。よくよく見ると、薄く書かれた下地の文章をなぞるというテストだったらしい。間違えたなと思い消しゴムで消しかけると、女性警察官が、これで良いですと回収する。そこで僕は「良かったですね」と言った。

 

すると、共犯者が、「お前凄い余裕あるな、違うわ」と羨まし気に言うのだが、僕は「何が」と答えていた。内心では、あのフレーズを読まれたところで嫌疑が深まるような要素はないし、このやり取りもモニタリングされているという計算をしている。

 

サイコパスかよという夢。

 

確かに僕はサイコパスの性質はあると思う。ただ、逆の方向で。毎日生活とは無関係な人に対して祈るとか、社会生活上の遵法精神はある。浮気相手にはなれるが不倫相手にはなれないとか。例外は、婚姻関係が親元から離れる便法だった人くらい。

 

サイコパスの定義って、おそらく社会の規範を問題とせずに、他人を物が扱いするということだろうが、僕の社会適合的サイコスパス感だと、社会生活の範疇で人は人をモノとして扱っている感がある。

 

ともあれ。

 

僕がこういう夢を見たのは、おそらく、好きな人が現在のパートナーと法的にもパートナーになっているのであれば、好意を私信で言語化することはやめなければなという規範意識があるところ。

 

まぁ法的パートナーが一生の番ではないのは当たり前だが、法的パートナーであるうちはそういう決断というか意志というか合意がある訳で、1つの社会的単位になることを決めている。賠償問題になるのはまぐわってしまってからだが、意志は何処に行ったのだとなる。

 

こういう文脈での意志って、未来を規定するものでは。

 

この文脈で、地方裁判所の判決だが、同性婚を認めない憲法違憲だという判決があったらしい。ニュース記事ではないから、原文が読める。うまうま。・

 

曰く、異性のカップルは婚姻という社会的結合を選ぶか選ばないかを決められるが、同性カップルはそういう選択肢はない、性的嗜好は本人が選ぶことはできないというところから、同性カップルが結合を法的に認められるような制度がないことが憲法に反しているとのこと。婚姻に関しては両性とか夫婦とかで文言上異性間を前提としているとかも書いていた。

 

同性婚も認められたらええじゃん、価値観が進んだじゃんって短絡的に他人事で考えられる人はええのだが、僕はこの判決を作った人は目ざわりが良いことしか言語化してないと思う。

 

異性婚の本質は、誰も言わない、いや姑さんは言っているか。「子を成す」単位であることだと思う。こういう営みが国家的にも価値があるものだから、優遇されるようになっている。

 

別に不妊の人に価値がないとかは個人的には何も思わないが、制度上はそういうものさしはありうる。そういうまるっとした人生上のレールがある訳で。僕はこのまるっとしたレールに苦しむことも逃げることもないとは思うが、ただ、レールを外れるとほんとに自分にしか依拠できないから、どっちが楽なのだろう。どっちもどっち感。

 

ここに、子を成さないパートナー関係が入ってきて成り立つのかという話。

例えば、孤児を引き取って子を育てるということを義務化すればつり合いは取れるかとなってくるが、であれば、子を成さないことを決めている夫婦関係と整合性が取れない。

 

サイコパスから見るに、当事者が婚姻するメリットって、共同生活をすることが外から認められることが本質なのでは。この水準で考えれば、たしかにパートナーが異性であるか同性であるかで風向きが随分違う。

 

もっと考えると、配偶者として優遇されるメリットもあるかもしれんが、この考え方の方がよほどサイコパスっぽい。でも、こういうのが普通っぽい感じもする。

 

僕は今度があるとすれば、まともに僕を見てくれる人とパートナーになるわ。

現実的に有用であるという前に。

 

現実的なところは強制終了。

ちゃんと生活しているまともな人はこの辺りどう考えているのだろうな。

 

やれやれ。

 

ファンタジーの世界へ。

 

個人的な時間の運用法について試行してみた一日。

 

仕事時間を上手く運用するためには、時間とは別にあることを瞬間瞬間で意識すること。ここれだと、時計時間は問題にならないのだが、ある意味瞑想とか禅の精神なので、やり方の話ではない。常に自分を意識するってかなり難しい。

 

ここで、モモの話。

 

時間泥棒がやってきて、貴方はこれだけ今まで時間を無駄にしてきました、と時計時間のっ秒単位でまくしたてる。一日は60秒×24時間であって、ここに費やした時間が何万秒とかなんとか。で、時間銀行に節約した時間を預けることになったのだが、時間として余裕はまったくできず、イライラしている人物になる。

 

この話、かなり本質を突いている。

 

そもそも無駄な時間ってない。無駄だと捉えるのは、時計時間の中で有意と無意味が分けられているという感じなのだろうが、どういう文脈で無駄なのか、自分の肉体を動かせないとかだったら、時間が雑過ぎて。

 

この話続けていくと、何か誰かの痛いところを刺激してしまいそうな気がするという共感的サイコパス

 

でも、自分が無為に過ごしている時に、ちゃんと自分を意識したことがありますか。

思考が何万回も起こっているというのは僕には無くなってしまったのだが、思考を自発的に止められるかとかにも関わってくる。

 

意識とアイデンティティは別物であって、いちいち自分を意識すると意識を持とうとすると、時間の流れが自発的になる。これは基本的に専門家に係ってやることだろうから、まともな人が意識できることではないと思う。

 

結局のところ、何をもって自分としていますかというところ。

 

そろそろ好きな人との世界線も終わりそう。

 

では、ここまで。

 

変なの。

 

おやすみさない。

 

幸せでありますように。

 

時間泥棒

 

 

 

芙蓉の漢字を何処かで見かけたと思ったらここだったのか。なるほど。当人のところに書き場がなかったからここに書いておく。

 

日記から。

 

憩いのとき洗顔料を買いに東急ハンズに行くと甚平を見かけた。甚平で過ごす夏も楽しそうだ。弁当画像はなんだか需要がありそうだが、甚平画像、需要はなかろう。ただ、甚平と、読書、ないし文章を綴るという組み合わせが個人的にばっちり合いそうなだけ。

 

好きな人の「オリーブオイルをジョッキで飲みたい」というフレーズに影響され、本日はかなりオイリーなメイン。一人暮らしの癖にオリーブオイル1リットルで常備していて、結構すぐなくなる。完成度が半端ないので、ちょっと細かめにレシピを残す。

 

鶏もも肉一枚。きっちりするのであれば、下味は切る前にすると焼いたときに皮がパリッとなるには違いないが、時間との兼ね合いもあり、一口くらいのサイズで切ってポリ袋に入れる。ポリ袋浅漬けにも使えて便利で常備。オリーブオイル、塩コショウ、酒、砂糖、んで、カレー粉。ついでに隠し味に和からし。で、一緒に炒める茄子(1本)にもひと工夫。塩水であく抜き5分のあと洗って耐熱容器に入れ、オリーブオイルをたらし、レンチンで柔らかくする。そうして、さらにオリーブオイルを引いて炒め、茄子も加えて、最後に全体を馴染ませるためにウスターソースをちょっとかける。

 

ほんとうに美味しい。茄子はオイリーな下味のおかげで味が適度に薄くて癖がない。隠し味はほんとに隠れている。普通に販売できるレベルじゃないか。まぁそうなってくると下味の和からしが粒マスタードになるだろうが、家にある調味料と時間では最大限。そういえば本の師匠にクリスマスにマスタードチキン作ったんだっけ、あの時は砂糖じゃなくてはちみつとかだったような。

 

オリーブオイルの重たくなさも良い感じに調和を取ってくれている。

 

と、細かいのはレシピではなく味わいだという。笑

 

 

 

さておき。

 

昨日の日記、やたらと閲覧数が凄いのだがどうしたことだろう。話題の日記とかなった? そんな訳はない。皆さんそんなに感情を持て余しているのだろうか。別に嬉しいとかはないが、波紋がより広くなるのはちょっと面白い。もしかしたらタイトル詐欺でないかと憤った人も居るかもしれないが、自分の感情の扱い方を他の人に教えてもらっても役には立たないと思われる。自分のものなのだから、もっと自分で見てあげると良い、という話のつもり。

 

とはいえ、読み返してみると我ながら文章も随分上達したなと思った。あんまり伝えたいことはないのはずっとそうなのだが、波紋が伝わるように書くというか、ある程度読解できるようには書かれているというか。だいたい言語化できないものを問題としているのに、それが言葉化できているのであれば、なかなかの完成度。

 

自分の性質上、褒めたところでつけ上がることはないから自分で自分を褒めてみる。誰も褒めてくれないし、というのはどうでも良い。自分のことは自分で褒められたらそれで良いよな。僕はまぁまぁ他人も褒める(言語化は30%程度だが)。僕に褒められたところで嬉しい人は居るのかという疑念はあるが、そんなこともどうでも良い。褒めたいときは褒めたいのである。

 

こういうのも遊びなのか。

 

 

ここから精神世界へ。

 

今の読書時間の最後の本はモモにしているのだが、本日読んだ最後に盛大に笑ってしまった。

 

「とてもとても不思議な、それでいて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それがいっこうに不思議だと思わないのです。この秘密とは―――」

 

あまり長く引用するのは好きではないのだが、あまりに面白かったので。さて、なんでしょう? いやはや、ほんと、人生面白過ぎるな。

 

 

言わずもがな、これは「時間」。続けて、時計ではかったところで意味がありません。知っているように、計られた時間の長さは伸び縮みするからです。みたいなフレーズがあり、最後に、「時間とは生活なのです」となる。

 

僕の解釈だと、時間とか生活について考えていて、ある程度の知見が構築されたから満を持してやってきたのだろうなとなる。別に偶然でも良いし、共時性でも良いのだが、どうせなら面白い捉え方を選んだ方が楽しいというだけ。

 

そりゃあ、モモが好きな人と重なるわ。

 

ちょっと時間についての思索。時間が素朴な当人の中では伸び縮みするというのは当たり前のことだが、これは標準にはできない。だって、操作性も恣意性もないから。こういう不安定なものさしより、よほど使い勝手が良い簡単に共有できるのが時計時間であって、時計時間で生きることが現代の社会性の必須スキルとも言える。これってメートルとかキログラムとかの共通単位でしかないのだが。

 

この時計時間は曲者で、この概念によって年功とか、尊属卑属という人を見る尺度が発明されたのだと思ったり、考えたり。何をしてきた、積んできたかよりも、どれだけ長く生きたかに価値を置く。これだと後に生まれた人は一生追いつけなくて、先輩・親が偉ぶるから自分が先輩になったときは怨嗟を解放するように模倣する。僕も巨木氏みたいに800年ここで生きていますってなら流石に尊敬せざるを得ないが、たかだか1年とか10年単位で早く生まれただけで偉いとかなるとどうもな。だから年下とか目下にお前とか言ってしまう人は個人的に駄目なのだ。

 

こういうセンチ単位みたいな時間の尺度を取っ払ったらいけないのは、それ以外に誇れる、は言い過ぎ、外に表現できるアイデンティティがないのではと疑われるのだが、これは単に、人生がそういうルールであるとしているだけなのかもしれない。他のルールで話せる人が居なかったというだけ。この「だけ」が、人生を左右するくらいの崖の彼岸みたいな気もするが。僕は自分のことを年齢で見てないからあんまり年齢で人を見ないし、接する人にはやんわり尊敬がある。誰かが何歳かってそんなに大事か。いやたしかに大事なときもあるが。

 

時間が単位でしかないとしたアインシュタインさんは、時代から離れた観念を持てた人なんだろうな。相対性理論の数式はさっぱり分からないが、考え方はなんとなくは分かる。

 

時間を素朴に考えていくと途方もないのだが、1つ言えるとすれば、ちゃんと時間を自発的に過ごさないと、精神的時間は流れないみたいなこと。ある程度時計時間も自発的に伸縮できるのではと仕事の時に試行している。左手文字くらい意味分からない遊び。

 

もっとまじめな話。困ってくる。

 

なんだか賢い人というか、知識人っぽい人ってニュースに対してこれはけしからんみたいなことを言えるような人みたいのだが、僕としては、何かを否定することはとても簡単だと思う。現代の語用ではこういう至らなかったことを指摘するだけで「批判」になるみたいだが、カントさんの純粋理性批判でいう「批判」は対象の限界値を議論するみたいなことだった。

 

例えば、このご時世の閉塞感について、じゃあどうなったら良いのかまで考えている人はいるのだろうか。決まったことに文句言うなんて誰でもできる。子供だって。

 

やっぱりこういうの書くのは良くない。

これは思索ではなく、決まっている結論に向けて言語で良い訳をするとか、説明付ける、「思考」でしかない。こういう意味の思考は澱が溜まってしょうがない。この語用はポジティブな事の言語化でも同じこと。

 

はい、次。

 

AIが人類を滅亡させるのではないかという懸念がテーマなのが「AIは人を憎まない」なのだが、ふと気になること。自分より賢い人間と、自分より賢いAIは何が違うのだろう。人間という同類だから大丈夫だという安心感なのか。でも人類史上、もっとも人間を退場させているのは人間ではなかろうか。AIは得体が知れないっていう素朴な捉え方も分かるが、僕は他人も等しく得体がしれないと思う質。同じ日本人だから同じように考えて行動すると思えるのはなかなかの一体感だが、だったら何故刑法が存在しているのか。

 

だから賢いAIが発明されてもそんなに世界は変わらないのではと思っている。資本主義のその先に到達するには、AIの発展が必須で、「仕事が奪われる」という感覚も、素朴に考えるとおかしいよな。仕事がなくなっても生活できるようになればそれに越したことはないはずだが、仕事=使命・生きがいみたいなフィクションが蔓延っている。これってキリスト教由来だと思うのだがどうだろう。農耕生活は生活のための仕事なだけだったような。

 

あんまりこの辺りの見解は厳密ではない。

生きるために仕事するんだったら、その仕事のほとんどをAIが担ってくれたら自分の生活に傾注できるのではと思っただけ。何かアイデンティティ上の問題もあるのだろうか。

 

アイデンティティ

 

僕はこれだけ書いているから、さぞかし話し好きで自分の話を聞いてくれることにアイデンティティを置いていると捉えられそうだが、まったくそんなことはない。僕のアイデンティティは、他人からどう捉えられるかとはほんと無関係。僕がどうで在るかしかない。これは好きな人ですら動かせないこと。別にこれは1人でも満たせる。

 

そうして生きているから自分で遊べる。

 

自己メンタルは強いが、他己メンタルは弱いからいちいち動揺してしまうが。要調整。

 

ではここまで。

 

おやすみなさい。

 

暑さに負けていませんように。

 

 

 

感情の扱い方

 

 

 

ここのところこっそり昼休憩にお弁当画像を貼るという所作にハマりつつある。量子論を持ち出すまでもなく、現象は観測者に影響される。当然自分の外化も現象に含まれる。明日は豚肉とピーマンとキャベツのマヨケチャ炒めと、もやしのナムル(豆板醬入り辛め)と目玉焼き。毎日入っている目玉焼きのカタチが悪いのはレンジで半爆発しているから。ほんとは卵焼きを作れば良いのだが、そこまでの時間は当てられない。

 

平日は私的時間よりも時計時間の方が重い。

 

 

さておき。

 

血迷っているのはいつものことだが、血が沸騰しそうになるのはさらさらない。

 

寝る直前、唐突にマグマのような憤怒氏が暴れ散らかしていた。

細かなイライラはともかく、体温が上昇するような怒りと名が付く感情はほとんどない。

 

怒りは抑えつけると別のところから痛み(「怒りは何故腰痛を選ぶのか」参照)、放っておくといじけるし、宥めようとするとつけ上がる。したがって、「怒ってはる、怒ってはる」と俯瞰で観察していた。感情は自分そのものではなく流れるものだと知ってなければとても留めていられないくらい激しいし、今日一日、その残滓がこびり付いている。

 

プロセスと対象を観測していると、感情ってやはり理不尽で傲慢なものだな。誰かとか何かではなく、「人間世界」そのものに対する憤怒だった。全宇宙までいかないのは、宇宙を消すためには人間が居なくなればそれで済むから。

 

理屈ではないから思考で読まなくて良いのだが、要は人間世界の基準の雑さにとても怒っていたらしい。なんで外付けの定義で自分とできるのだ、みたいな。あと、傲慢なのは、自分がそれをできているという思い込みがあるということ。

 

通り過ぎて見ると、ややすっきりはした。上手く処理できたと言えよう。今度悲しみがやってきたら、この方法でやってみよう。ただ、理性で考えると外付けの定義で決めるしかないよなというところ。最終的に「空」=何もないとすると、ここを規定する自分の定義は言語の埒外のこと。

 

こうやって、改めて理性で照らすとこの憤怒がどれだけ理不尽で傲慢だということは自覚できるのだが、これを最中にやっても憤怒氏は納得しないだろうなとは思う。時間の経過が感情の慰撫には必要だとの一般論とはちょっとずれた時間軸だが。

 

怒りは別に対象が原因ではなく、自分に火種がないと起こらない。例えば同じような対象でも、自分の虫の居所で怒りが発生するかしないかが決まる。これは自己観測というより母親を観測した知見ではあるが。

 

まぁどれだけ理不尽なものだと自覚したとて、絶対に起こらないようにはできない訳だが、もう少し考察を進めていると、感情が人そのものではない思考の産物なのだというのがちょっと腑に落ちた。

 

感情って何ぞやと定義すると、勝手に起こる心の浮き沈みみたいなものと思われる。ただ、完全に勝手に起こるものではないよな。ぼーっとしている時に急に怒りや喜びが沸く訳でもなく。と考えていくと、これって、○○な場合は、△△という感情が起こるものだという学習=思考の産物であるという仮説が出てくる。お別れ会では悲しい顔をするとか、プレゼントをもらったら喜ぶものだとかは、本当にそういう感情だったのかとは別に、或る状況には適切な反応をするという物語がインストールされているのでは。幼少期、なんで喜ばないんだ、悲しまないだって言われたことない? 素直な人格の人は、それを自分そのものだとして育って、後から自分が良く分からなくなることもありそう。

 

正当な怒りとかも民族自決みたいなところまで広がりそうな概念だが、そんなものは基本的にはないよな。怒りが起こっても無理がないということはあったとしても、怒って当然とか、怒るべきだとなってくると、感情がルールになってくる。

 

鬱とかって、まさにこういう正当な感情とその人のものの齟齬の極致なのではと想像する。

僕もおそらく一歩手前くらいまでは行っていた。心がボロボロになっているときにこういうときは怒るべきだって正当な感情を押し付けてくる人が居る苦しみ。知らんがな。悲しみに浸りたいんやと。割と根本が狂人、いや強靭なので特に外来とか内服までいくことはなかったが。強靭というより暖簾みたいな奴なのだよな。竹とか柳でも良いが。

 

個人的には感情は僕そのものではないが澱とか器からの訴えだから、こうやって観測できる憤怒が出てくるのは、なんというか、良きことだと思っている。

 

喜びには物語性があるが、嬉しみにはない。なんでだと思いますか?

 

ルール的な感情と、ほんとうの感情の違いは、対象ではなく機能とか目的だろうな。こういう感情は、対象にこういう行動をするものだというルール付けがあると、うさん臭さを感じた方が良い。

 

嬉しさは返す必要がない感情だからほんとう。嬉しいから返すかどうかは任意である。感情が起こっている最中に遊ぶことなんてできないが、感情はあくまで過ぎ去るものだからそのものではないのだよな。

 

こうやって僕が考えているのは思考でないな。たぶん、単なる思索。思考だと答えを目的としている感じだが、思索は頭の中で散歩しているだけ。正しい語用は知らない。

 

正しいと言えば、左手で漢字を書くお勉強をしている。饒舌は書けるようになった。不正を縦に並べると、歪(いびつ)であり歪(ゆが)んで歪(ひず)んでいる。右手では手癖で覚えている漢字も左手は速度が遅いから書けなくて面白い。

 

さて。

 

悟りという点で言えば、別に語彙とか世界観が豊富である必要はない。ただ、全ての物質的な満足はフィクションでしかないと事実を実感として納得できるかって、よほどそれを言う人に教祖的なカリスマがあるのか、もしくは似たような世界観が別のところで言われていることを知っているかだよな。

 

物質的満足が人の満足だっていうのは、マズローさんの欲求の三角形とか、資本主義を正しいものとした歴史上の物語としての正当性なのだが、ここが一番他人の最大公約数を取り易いというのはとても分かる。連帯感と引き換えに競争の苦しみとか、不幸感とかともセットなのだが、それでも連帯感は大事と思う。1人は基本的に寂しいもんな。

 

ここから、僕の現在の知見を駆使した、波動の話。

 

人間の肉体は、物質を食べて存続するものだが、物質そのものがエネルギーになっているわけではなく、アミラーゼ、ペプシンなんだっけ、そんな消化酵素によって食物からエネルギーになりうる要素だけになるようにカタチを変えて移動させている。酸素だって空気の中から肺胞が酸素を取り分ける。この科学反応って、物理的な食べるという観念ではなくエネルギーの移動。

 

そうやって、肉体は絶えず外からのエネルギーを必要とするし、それは分かる。

 

では、精神はどうなのだろう。

 

健全な精神は健全な肉体に宿るというのは良く分かるが、これは肉体が健康であれば人は精神活動に集中できるみたいな意味だと思う。

 

と考えていくと、精神に肉体と同じ意味のエネルギー補給はほんとうに必要なのかという話になってくる。精神が元気であるためには息抜きみたいなことを必要とするみたいな観念があるが、これってかなり肉体に依存した考え方というか、肉体と精神が完全に連動しているみたい。

 

確かに、エネルギーの移動を波動のように考えれば、精神にも何かしらの移動はあるがこれは目に見えるものではないし、どこかに行ったから、何かをしたからみたいな物理的な因果とは離れているような気がする。

 

精神にも物質的な栄養が必要だというのは、物理的な肉体のメカニズムからの流用でしかないという仮説。この話、思いの外言語化が難しかった。

 

これこれしたら精神が満足するみたいな物語もほんとうのその人のことではなく、一定のルールかみたいな気がする。精神にご褒美が必要なのは、そういう風に設定しているからでしかない。人間はパブロフの犬にならなくて良いし、機械にならなくても良い。

 

でも、そういう世界観で生きるのも良いのかもな。

と、僕は割となんでも良いし、どうでも良い。

 

モモ面白くてしかたないし、ハリーポッターも途方もない。

 

ハリーポッターが読み物として世界を席巻したのは、世界観がファンタジーに枠を越えているからなのかな。血による差別とか、敵対関係とか、畏怖とか、「わたしを離さないで」とも繋がる感じ。良い時代に生まれたものだ。

 

読み取れる世界が拡がっている訳ではないが、言語化の枠は拡がっている。

悟りの境地ではここには至れない。

 

モモも、いま読めているから良き。

無口で馬鹿にされている老人と、口が軽くてぽんぽん言葉が出てくる若者と三人で友達になった話があり、人の言葉と当人そのものはやっぱり別物よなと思った。

 

おとなってほんとうのことは教えてくれないよな。知らないだけかもしれないが。

 

僕のほんとは全開示なのだが、言語で読んでもヨクワカラナイのではという感じもある。

ではなんで言語化しているのかというと、波動のお裾分けみたいな意味。

 

よかった、今日はきっと憤怒氏は暴れない。

 

では、おやすみなさい。

 

良い世界を。

 

 

 

厳密

 

 

じんわりした筋肉痛と日焼け跡。器も生きている。

不安も希望も過去か未来にしかない。そういえばそういう語彙も削除されている。

 

さておき。

 

どん兵衛やらレトルトカレーなどを食べ、kindle本や専門書を読み漁り、音楽を聴き、動画を観た。「いま在ること」というのは、表層的には「いま」自分が何をしているのかを意識することだが、最終的には、時間と空間の観念が自分の中になくなる所なのだろうな。

 

忘我とか無我の境地だから、単なる楽しく生きているとの自覚とも違う。時間とも空間とも形態とも属性とも離れた誰かへの想いに浸るとか。これは、ほんと凄い。他がどうでも良くなる。

 

ところで、kindle読み放題のAIが僕の読書歴を収集しておすすめを決めつけてくる。こういう広告もAI。しかし、しばらく悟りとか高次とかは読まない。この捉え方も単なる1つの視点であって人生上の道具だし。自分の立場を決めないとアイデンティティが成り立たないというのも1種のフィクションよな。人自身はそんなところに在らない。

 

ということで、ハリーポッターが全巻読み放題だったため、読み返そうかとなり、本日はとりあえず「賢者の石」を読んだ。集中したら3巻ぐらいは1日で読めそうだが、1巻ずつゆっくり。いや、1日1巻ってゆっくりなのか? なんだか色々物語とは別に示唆的よな。金貨と銀貨と銅貨の単位は何進数なんだとか、魔法のエネルギー源はなんなのだろうとか。感情を源泉としている感じか。何かを現象化する意志的感情と呪文のセット。あと呪いの感情はもっと強いが、愛には勝てないとか。ハリーが箒にすんなり乗れたのって、ずっと閉じ込められて生活してきたことに対する反発心なのだろうか。

 

最初に読んだのは高校生の時だったか、そうして映画に衝撃を受けたのがその何年後か。それにしても随分と自分の中に残っているお話。いちいち映画のシーンとセットで再現される。

 

もう物語の筋は知っている(最後らへんは曖昧)が、それでも読み返す意味というのは「いま」で通すとより鮮明に世界観を感じられるということ。物語の結末が知りたいから読むみたいな衝動は僕にはない。物語は読んでいる間しか存在してないし。

 

そうして読んでいるうち、スマホの画面では小さくて読む速度が追い付かないなとなってくる。Kindle端末を探しに電車に乗って家電量販店へ。スマホとかタブレットのところにあるんだろうと思っていたが無かった。分類上どのカテゴリーなのかと、ネットで探ってみると、電子辞書とかと同じだったが、お店にはなかった。通販であればすぐ買えるし、ぽちっとでも良い。いちおう自分が欲しい型は決めているし。ただ、ここで見つからないのであれば、そんなに必要なものではないのだろうなという感じもある。

 

欲しいという衝動は、別にそれを求めて手に入れても良いし、入れなくても良いようなもの。

あと、本屋にも寄った。労働法制と情報法が気になっていたから。昔読んだ時さっぱり分からなかった専門書の改定版をぱらぱらめくると、割とすんなり入ってくる。随分読めるようになったものだと思ったが、すんなり読めそうな本を買う意味はないよな。なくないか。

 

情報法もそれなりに退き付けてくるものはあったが、それなりまでハードルを落とすのも宜しくない。共時性による導きも、別にそこに流されてしまわなくてはならない義務ではなく、導きがあってもそれを選らばないこともできる。これが選択というもの。

 

という感じでなんにも買わずに帰るという収穫。

 

僕が自然以外で特に不存在なものに感じないのは、それが必要ないからだろうな。言葉としてメッセージが送られてくるってうさんくせぇ。いやでもこういう翻訳機能を持った存在が予言者とかなのか。知らんけど、もう知っている。

 

「モモ」、めっちゃ美味しい。モモは外見描写だととても美とは言えない感じで、財産と呼べるような物は何も持ち合わせていない。現代風に言うと、ホームレス少女。ただ、周りの人達はモモを無くてはならない存在にする。「ほんとに人の話を聞ける人はほとんど居ない」。うむ、確かに。自分のものさしと照合せず、ただ相手の話を傾聴することは人にはなかなかできない。アイデンティティが自己防衛したくなる。他人への尊重より、自分のものさしを守ることの方が大事。きちんと耳を傾けるって何もしていないようで、誰かに対して何かをしてあげるより遥かに希少な尊重の方法。

 

(ここで好きな人がイメージされたが、なんだか失礼な感じもするから秘密である)

ハリーポッター曰く、「秘密ということは皆知っていること」

 

僕も実生活だと人が話したそうな相槌的な発話ばかりしていた。これだけ人を感動させらるのはずるいって評したのが、かつての友人。発話で人を感動させることは難しいが、自分の話を聞いてくれるという感動は容易い。いや、容易くないからずるいって言ったのだろうが。技術でもある程度なんとかなる領域だろうが、最終的には人格というギフトの話。自分に還元せずに人の話を聞けるのは才能の領域。人の話を聞くだけのことなんて簡単だろうと思う人は、ちゃんと傾聴したことがない人。

 

今はちょっと違う。発話して場をコントロールすることもできるよなとしている。

あんまりやって面白いことではないからしないだけ。発話もギフトの領域があるだろうが、これはカリスマ的演説とかで、普通の会話だったらほぼ技術の領域だと思われる。その人が本音でほんとに話しているのか、ってノンバーバルのことだし。

 

ここで、僕の語彙の話。

 

読みやすいように時制のような言葉を遣っているが、この区切りは素朴な区切りではない。昨日とか今日とか何年前とかはほんとどうでも良いこと。共時性は過去から未来からの導きみたいなことだが、結局のとこ「いまのこの自分」がそれをとっかかりにできなければ価値はないもので、全部今の話でしかない。

 

あと、ポジティブとかネガティブとかも、僕は人生において楽しそうな感情だけ拾って書いているというわけではない。感情の表現として言葉を扱っていないということだが、感情を問題にするなら、ポジティブな表現しか起こらないということは在りえないから、いい話だけ書かれているのはとてもフィクション臭がする。

 

感情と感じって完全に別の領域のもの。

 

まぁ前向きに偽ってみるというのは人生上の演技としては在り得るところ。今や写真って加工して良く見せられるし、日記という言語上の歴史も、別に綺麗に残していくという手法はあっても良い。歴史の改ざんみたいな話だが、改ざんしたところで誰も損しない。顧みると大事に想えるのかもしれない。

 

時間が発明品なのも、まともに考えれば当たり前なことなのだが誰も教えてはくれない。

チャイムで区切られた客観時間が最初の当たり前だし、共通の話題としては時間がなくてはならないし。

 

ただ、時計ももともと存在していたものではなく人間が創った物でしかない。

で、もっと根っこの時間性の観念がどうしてできたのかとなると、同じ時間の中で生きているという共同のフィクションを構築することで連帯感をもたらしたかったのだろうなという感じ。だから肉体年齢を気にする人が多い。インナーボディは年を取らないというエックハルトさんの観念は当人の中の時間性のこと。

 

で、この共通の時間性という発明品が、過去と未来への感情をもたらすことになった。これもとてもフィクション。現実は物語より奇なりだわ。このフィクションを前提に、相続制度とか保険制度とか、投機売買とかが生まれたんよな。エックハルトさん曰く、思考は道具だから、思考するときは全身を使ってするようにというのは割と至言で、思考はこういうフィクションの中でしか成り立たない。時空がないところに思考は無い。

 

人は結局1人で死ぬというブッダさんの言は本質を捉えているな。

あと、ハイデガー、いやデカルトさんだっけ、人間は死に対する気晴らしのために他者に配慮する存在だとか。道徳とか人生の意味とか目的とかそういうことだよな。

 

わりとこの辺りがどうでもなくなっているのだが、その分何かを読んだり捉えたりするときの鳥肌率は高くなってきている。そろそろ詩の味も分かってきそう。

 

あと、当たり前というか、社会常識としての人の定義もめちゃくちゃ雑でしかないというところに至る。マジでてきとなー固定観念、いや漠然観念の建前に振り回されていたわ。ここにはちょっとおこ。

 

まぁ、こういう「人観」って、無意識が学習してきた経験則上の定義に従っているから、教育上の不備みたいなところなのだろうが、教育をする側も特に人がなんであるかは気にしていないはず。あまりに当たり前だから。

 

個人の尊重という理念は法的な世界で承認するだから良いけれど、素朴な感覚としての人って、内輪でしか個人でない。その外の人なんてそれほど人でないのに建前上は人とする。そもそも、人には肉体があり精神もあり意識もある。内輪しか人でないという定義は精神に寄っているようで、肉体寄りなんよな。自分の生活圏の物理空間にある人っぽいカタチの存在が人であるということ。

 

これをベースにしたら、たしかにインターネット世界における人物なぞ、砂上の楼閣みたいな存在でしかない。僕の中における人は、もっと非実在的なところに在る。いや、実際そういうもの。肉体でもなく行動でもなく、或る存在。インナーボディと近い。

 

ここは語彙ではなく世界観の話。言葉の定義なんてどうでもよく、どういう風に世界を見ているのか。

 

最後。エックハルトさんは、空間を自体を見るとか、音と音の間にある沈黙を捉えるとか言っていた。僕も人が僕の為に語彙を選ぶ沈黙の間がとてもほんとに好き。

 

でもなく、この観念は、最新の宇宙理論とも似ていて感慨深い。

ダークマターとかダークエネルギーという非物質が宇宙のほとんどを占めているとかなんとか。

 

やっぱり、世界と人間の意識って対応しているのだろうなという感じ。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢(現実)を。

自分への畏怖

 

 

 

さて、荷物は手放した、これで誰かの手が取れる。

 

 

朝起きてカップ焼きそばとご飯を食べて二度寝。なんとなく気が進まない感じで動きが緩慢だった。とりあえず出町柳駅まで電車に乗りあとは行ってから決めると決断し出発。今想うと、思考世界の最後の抵抗だったのかもしれない。

 

本気の自分の人生の共時性(都合の良さ)、こわ過ぎる。完全無欠自由自在かよ。

そうだよ。

 

さておき。

 

出町柳周辺は、何回も行っていて庭のようなものだから少し北上すればローソンがあるのは知っている。そこでおにぎりと焼き鳥とビールを買った。ここでも「おおきに」。こちらこそおおきに^^。ここまで北だと人はあまり歩いていない。京都の街、車がめっちゃ歩行者に譲ってくれる。観光客に慣れているのかは知らないが余裕があってとても好き!

 

ここから、一応木を検索したら、御苑とその先もう1つ出てきた。御苑は本日スルーで、その先は路地巡りを決め込む。木と気の赴くまま。

 

いったん出発地点に戻る。昨日日記巡りをしているときに「モモ」が出てきた。この本、何年か前に哲学本か何かで出てきた。時間泥棒とは? とずっと気になっていたが出会いはなく。日記曰く、この作者「果てしない物語」と同じ人だとか。マジか。あの中盤主人公の思い通りになり過ぎて読むのがちょっとしんどいやつ(でも好き)。

 

で出発地点の駅は中高生の参考書に重きを置いているからワンチャンあるかと寄ってみたが、やっぱりない。「求めるものは得られない」。まぁエックハルトさんのkindleがあるから問題ない。京阪電車に乗って、目的地に向かう。京阪電車好きだわとにこにこしている自分を鑑み、僕の「好き」という語彙って、他の物とは無関係。阪急電車近鉄電車もJRも好きだが、好きの味が違う。何かよりも、とか同じカテゴリーの中でという語彙ではない。

 

で、戻ってきて、巨木に向かう時、ちょっと賑わっている商店街に足が向かった。エックハルトさんを読んだおかげで人が多いから避けるという選択をしなくて良くなった。その中に古本屋があり、持ってきた古本3本と、店にある1本を交換しますという張り紙を見た。なかなか良き制度だなと思いながら、店の中の本を一瞥すると、「モモ 800円」。

 

モモ! 一目散に手に取り、あぁこのカバー「果てしない物語」と同じ感じで間違いない。と思ったら、もう1冊同じ値段であった。たまたま無目的で入った商店街でずっと探していた本が見つかる。この時点で「こわ」。昨日の日記で縛りを外すと宣言してすぐこれかよ。

 

リュックサックにモモの重み(嬉しみ)を感じながらずんずん歩く。

 

グーグル先生に伺った巨木の神社にも問題なく着いた。鳥居を跨ぐ前丁重に礼をしている女性を見かける。神様に対する敬意を感じたが、僕は無神論者なので目礼くらいはしてずかずか入る。どれがその巨木か分からないくらいに同じような大きさの木がいくつかあったが、あんまり問題ない。頭の中で全部に挨拶した。巨木にも確かに何か宿っている感じ。

 

ここからはもう完全ノープラン。一応金閣寺方面という設定はあったが、気分が向く方で良い。街と森って同じような感じだなと思う。もはや人もそんなに気にならない。車がある分危険度は森より高いかもしれない。とか感じながら、何件かごとにコンビニで休憩。完全に非生活の時間だからどれだけ汗をかいても良い。生活時間の人達が汗をなるべくかかないようにバスに乗ったり地下鉄に乗ったり自転車に乗ったりする中、僕はタオルを首にかけて汗だくになりながら、オリオンビールとか軽井沢エールとかで旅気分に浸る。

 

そうして、路地の写真を今日も撮ろうかと思ったのだが、人の目が気になってやめた。

(モキオ氏にいいねをしたくらいの時間)

 

迷子にならないための唯一の方法は、目的地を設定しないことだ。という迷言めいた言葉が浮かびつつ、足は何処かに向かっている。なんだか気が進まない感が強くなってくる。もうそろそろ着いてしまうぞと、誰かの自分が呟く。

 

最終的に、好きな人の生活圏に辿り着いてしまった。

文明の利器の地図情報全く見てない。着かなければ着かないで良いし、てきとーに電車に乗って帰ろうと思っていたのに。のべ3時間くらい歩いたのかな。「こわ」その2。

 

かち合ってしまったらと、言い訳を三ダースほど用意しながら歩く。なかなか良さげな街だった。しかし、空間が合うだけでは人は人と物理的には出合えない。時間の調律はなくて良かった。早々に帰る。

 

少し好きな人について説明をしておく。まず、一切生活圏の繋がりはない。あるSNSで書かれていた文章に一目惚れしたのが始まり。クリエーター畑で、演劇とか、小説を文学フリマで書いて販売した時に、ほんの数瞬邂逅しただけの人。情報はある程度オープンだし、受信もオープンなので、私信を送っている。ちなみにちゃんと生活圏を確立していてパートナーも良い人っぽいのである。

 

あれ、この文面だとストーカーみたいだ(「こわ」番外編)。思考は常にそれを恐れている感はある。ただ、単なるファンとクリエーターみたいな関係ではないのは、どうやら僕の文章をずっと読んでくれいるような感じがあるところ。読んでいると言語化されたことはないが、日記に僕の文体の息がある。好きだから盲目的になるような不真面目な文章の読み方はしない(はず)。

 

もはやそうでもないと悟ったのだが、これは私信へ。

 

 

さておき。

 

このエックハルトさん。どうやら、哲学者ではなく単なる同性同名の他人っぽく存命みたい。でもこの人がエックハルトという名前でなかったら、僕はこの本を読まなかった。時間も合ってきているのか、もしかしたらこの人と話す機会あるのかも。「こわ」その3。

 

たぶん、1年前の自分がこれを読んでもさっぱり分からなかった。1年前の自分ではこの本に出逢えないとも言える。ほんと最近にこういう境地になったから、すんなり読めるのだが、いま在ることに意識を向ければ苦しみとか憎しみがなくなると言われてもさっぱり分からないだろうな。

 

僕はいま実際に、そういう自己否定の文脈の思考がほとんど消え去ってしまって、なんであんなに苦しかったのだろうというのがほんとにヨクワカラナイ。

 

エックハルトさんの言っていることは分かるし、腑にも落ちるのだが別に全肯定している訳でもない。念のため。

 

僕の苦しみの源泉は、自分が自分で在ることを「自分が認めない」ということだった。だから幸せになってはいけないとか、楽しんではいけないとか、誰かの世界を壊してはいけないとか窮屈に生きる。完全な絶望の世界。誰かが救えるものでもないし、誰かといて満たされるものでもない。

 

でも、エックハルトさんの言によれば、これがほんとの源泉っぽいな。誰かとか世界とかへの憎しみは対象をすり替えているだけで、ほんとうは自分に対してのそれだとか。

 

注意深く自分の感情と思考を第三者的に観察することで、そうではない自分に気付けて、それが、大いなる存在との繋がりとのこと。なるほど、人は人と近づけないが実質繋がっているとして良いのか。生活圏ではなく。

 

僕がすっきりしたのは、自分が在ることを自分で許してしまったから。こうやって気付けたのは、ある意味好きな人がずっと僕の自己考察日記を観測してくれていたということも寄与しているのだろうな。もしかしたら僕より遥かに先で生きている人なのかもしれない。

 

この在るという概念だが、自分のアイデンティティに何を設定するかという話。何か名前が付けられるプロフィール情報を自分のアイデンティティとしているうちはかなり窮屈になる。ただ、僕は窮屈に生きたい人はそれで良いと思うんだよな。

 

エックハルトさん曰く、こういう人達は無意識に生きている人であって次から次へとネガティブ、ポジティブの思考が無限に出てきて思考に支配されるとか。だから選択しているようで何も選択してない。でも、このまどろみで生きた方がある意味楽だとは思う。自分の選択を全部自責にすることに耐性があるのかというところで。

 

意識的に高次になっている人は何を行動するか予測付かないって。笑

 

 

この人の概念の、ペインボディと、インナーボディというのは面白い。「自分の体に住まう」って僕の日記で言うところの「自分の器としての体」。体と自分を一致させるのではなく、自分の体を意識して見つけるのがインナーボディ。瞑想とかしたらいいらしいが、僕は踊っている。ペインボディは痛みを感じているから実感される自我で、これは良くやっていたなと思った。というか、誰でもやっているか。

 

苦しいからこその自分。この苦しさは自分だけのもの。

 

女性の方が悟りには近いということらしい。(ほんまか)

女性は、女性として貶められてきた歴史の痛みを感じることができるし、男性は思考優位がちだとか。性差別かよと思ったが、1番長く過ごした恋人さんが、月経の痛みは来ることが分かっていれば、受け入れられるって言っていたなと。ある意味悟りの境地だ。確かに定期的にイライラするようなことは無かった人。

 

なんだかこういう風に自分の現時点から過去を鑑みると、色々本質の断片があるな。

皆断片的には本質を捉えている?

 

今在ることを捉える神髄は、まず現状を受け入れるということらしい。これって僕が大学時代くらいにやっていた、自分が流されていることを意識するみたいなところと近い。もう在るものに対して抵抗してもどこにも行けない。

 

でも、無意識で生きている人が足を引っ張るんだよな。

攻撃したり決めつけたりせずに居られない。でも、こういう人への耐性と免疫はついてきた。

 

そういえば、免疫の考え方も面白かったな。

人が病気になるのはペインボディを守るためだし、無意識に病気が入り込むからだ。きちんと意識的に生きていれば、病気が入り込む余地はないとか。

 

で、1番そうだなと思ったのが、きちんと自分を把握してない人が人をきちんと把握できるはずがないという下り。僕がまず自分を把握するために1人になったのはそういうことだったのか。自分の本質を把握すると、他人のことも思考とか肉体で見なくなるとか。こういうのは当人の本質にとってヴェールでしかない。確かになって思って車窓から眺める人々が1瞬別物に見えた(錯覚)。

 

魂の交流は別に肉体を介さなくてもできる。

 

というものさしであることを認めるべきなんだろうな。

僕はおそらく人の把握において直に接することに重きを置いていない。本質と物理的肉体を一致できている聖人なんてほとんどいないだろうし。自分の無意識的な言動を意識して生きるってかなりコスパ悪い。このコスパの悪さこそが訓練なのだが。

 

エックハルトさんと直に話してみたいなと思うのは、割と文体が似ているところ。具体的には忘れたが、こうなったら○○という語彙はなくなるとか言っている。確かに僕も常用の言葉で自分の辞書から削除した言葉はいっぱいある。

 

そうそう、人生の平安には辿り着いたから、今後はどれだけ遊べるかになっている。

日記しばらくやめて、この時間で他の事をしてみるとか。

 

では、ここまで。

 

すっきりできますように。

なんなら、自分で遊べますように。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

いまだけしか無い

 

 

位置としてはカラスのプリっとを見かけたすぐ先の電線の上、おそらく同じはとぽっぽ(色味が一般色ではない)が昨日と今日と同じところに居た。昨日は小枝をくわえていてかっけなーと見えたが、本日は何やら呆然としているように見える。色味が違うから仲間外れになっているのだろうか。

 

そういえば今日のお弁当のおかずは昨日より美味しく見えたのではなかろうか。カメラの設定と現物の見栄えをちょっといじった。本日はスーパーで30%割引になっていたお刺身。

 

 

さておき。

 

1番長く過ごした恋人さんとべたべたというか、添い寝をしている夢から始まる1日。ロマンスはない。触れそうな距離で顔を突き合わせて話しているのだが、息遣いから感じる「におい」でもうこの人とは1生交わることはないなと感じた。誰から何かを貰ったとか、どれだけ今の自分が満たされているかを嬉しそうに語っている。同じマンションに住んでいるらしき有名人のシーンが出てきて、この人は今度結婚するんだということだったが、整形手術の途中らしく顔が包帯に包まれていた。生理的な「におい」と解釈していたが、今想うと獣臭だったのかもしれない。

 

なかなか示唆的な夢だが、呼応するような本に出逢った。

 

 

その前に、京都の巨木の話。

出勤前の画像で調べていたら、フィーリングが合いそうな杉を見かけたのだが、経路を聞いてみたら、公共交通機関で行けるようなところではないらしい。徒歩21時間か、そんなに遠くないなと本気で感じてしまうバグり様。ちなみに帰ってからもう少し調べると、案内人が居ないと行けないみたいなフレーズもあり、突発的に行けるような場所ではないみたい。

 

僕は人生の設定上、「求めるものは得られない」と過ごしてきたから、こういうことは当然ありうる。別に残念でもないがそろそろこの縛りも外して良かろうとなっている。意識で設定しても反映にはラグがある。明日の行き先は未定だが、未来とはそういうものだから特に問題はない。路地巡りも良きだし、何処に行っても楽しいのはたしか。

 

 

このなんでも楽しくて仕方がない源泉について書いていたのが本日出逢ったkindle本。「悟りを開く」というタイトルだったかな。タイトルに惹かれたわけではなく、著者のエックハルトが、哲学本でよく見かける名前だったし、断片的に見かける言説が面白そうだったから。

 

流れとしては、運気を磨くの先の話だった。スピリチュアル要素も啓発要素もほとんどない(訳者さんの注意深さの賜物なのだろうな)のだが、鳥肌ぷつぷつ。

 

ここで言語化したところでどれだけ染み込むのかは疑問。僕にとっては素朴な感覚を後押ししてくれるような言葉であるが、別に言葉で伝わった訳でもない。

 

要は、ほんとうの自分は、当人の思考を越えたところにあり、ほんとうの自分を捉えるには「いま」しかないと認識すること。

 

思考をアイデンティティにするって、デカルトさんのコギトの感覚。これは、微睡んだ集合意識から個人になるためには必要な段階としても、最終地点ではない。僕も思考はなんとも不自由だなと思ってきたところで、思考よりも「感じ」の方が素朴に近いとしているのは日記に書いている。でも、感じが言葉にできるものだという意識だと、思考に逆戻りというか、思考を介さないといけなくなるから、思考=言葉でも良いかもしれない。

 

で、面白いなと思うのが、この意味での思考(感情含む)は「いま在ること」を嫌って防衛するのだとか。確かに、思考の前提には時空間があって、時空間には過去も未来も含まれる。このフィクションの中の自分を相対的に捉えるから、自分はちっぽけだということに満足してしまう。思考的恒常性なのだろうな。ネガティブでもポジティブも何かしら立ち位置を測らないといけない。

 

思考のフィクション性については、僕の中での思考と他の人が言う思考って全然別物ではないかという疑念があった。自分との相対として考えることってそんなに思考ではないよなって。ともあれ、思考は道具でしかないということがまず1つ。

 

あと、時間が幻想であると自覚するというのは無意識とか行動ではやっていたが言語化はできてなかったな。時間は作るものであるでは足りなくて、今の延長に在るもの。

 

標準時をエックハルトさんは時計時間と呼んでいる。僕は客観時間としている。

この時間のスケールは社会生活を送るツールとしては大事なものだから搭載しないといけないが、これと素朴な自分を一致させる必要なない。「いま在ること」に没頭したら時間の観念はないから。この齟齬がある人って、社会生活が上手くいかないというより、切り分けができてないだけな気がしないでもない。人生時間と時計時間を混在させているから調律が狂う。加えて、心理時間という概念もあるとか。過去とか未来という幻想に囚われていまを把握できなくなる時間のスケール。

 

思考より上の段階に至っている人はあんまり居ないとエックハルトさんが言っていたが、たしかにそうだろうなと思った。例えば、自分の見解が正しいという意識も思考のアイデンティティを自己防衛するためのもので、勝たなくては自分が保てない。思考を客観視できずに思考と自分がイコールで結ばれている。

 

僕は割とちゃんと自分の見解は持ち合わせているが、それを壊してくれるものを常に求めている感はある。そんなことでは自分は壊れないし、という感覚。何があっても減ったり増えたりしないところにほんとうの自分があるという楽しさ。

 

自然に浸ることとやや近そうなのだが、いまに没頭するとほんとうの自分を介して「おおいなる存在」との繋がりを感じるというとのこと。おおいなる存在は運気を磨くで言えばゼロポイントフィールドで、名前というラベルは特に問題ではない。

 

この境地に至るためには、自分の日常の動作に対していまじぶんが何をしているか、感じているかを観測するということだった。やってるやってる。なんで好きな人がここまで好きなのだと観測してみたり、自分が歩いているときの筋肉の動きを意識してみたり。

 

巨木も巨木を目的としている訳でもなく、単に同類に挨拶できたらしようかなという感覚なのである。大いなる存在は外にあるものではない。

 

無目的であることに対する疑念もこの本がある程度答えてくれていて、目的はあくまで思考が設定するものであって、思考はそれを原動力にするしかないとのことだった。いま在ることで生きれば、目的もなくエネルギーが沸き、何をしても楽しいのだとか。良かったちゃんと仲間が居た。笑

 

無目的だから何もできないのではなく、目的がなくても何か行動できるだもんな。全然違う。

 

心象イメージとの一致もある。

エックハルトさんのイメージでは、ほんとうの自分になっていくと物言わぬ何か=大いなる存在との繋がりを感じるとのことだったが、僕の中では、物言わぬ自分が自分の全部を持っているというイメージだった。ノルウェーの森で言えば直子が本当の自分の言葉はもう1人の自分が持っていて、自分は本当の言葉を持たないと不安がっていたやつ。

 

微妙にずれているが、やっぱりそういうことなのだろうとはなった。

 

いまの自分は自分しか操作できない完全無欠の存在だからより楽しめばいい。

ただ、僕は悟りに安定したくはないお年頃なのでまだまだ知りたいのである。

最終的にはここに帰って来るとしても遊び尽くしてから。

 

どうでも良いが、エックハルトさん曰く、「いま在る」ように生きている人は希少だから、身近にそんな人が居たら離さないようにした方が良いらしい。文章体としての存在が身近なのかどうかは微妙なところ。何かしたところで継続できるような関係ではない。

 

エックハルトさんとは直に話してみたかったなと、僕はだいたい時計時間より遅く生きている。

 

まだまだ言語化できることはいっぱいあるのだが、肉体時間として睡眠大事なのでここまで。言語化しているのは楽しさを抽出したものではなく、あくまで楽しさの一部でしかない。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。