落とす人と上げる人

 

 

 

朝の田んぼ。ちょうどちょっと刈られていた。おそらく機械が壁に当りかねない端の方は手で刈るのだろうなと推測。もう終わったのかもしれないが、帰りは電車で最寄り駅に帰ったから見ていない。お刺身と小さなスケッチブックと12色の色鉛筆と遠出用の伊坂さんの新刊文庫を買った。

 

徒歩で帰るとお月様に背中を向けるからなかなか見えづらいが、最寄り駅の方からだと正面になって良く見える。あんまりぼやけてもなかった。

 

 

さておき。

 

こうやって楽しんでいる人生を一気に引きずり降ろしてくる母親との通話。憤怒氏が喚きだす。僕は自分を守るために人を変えるということはしないスタンスだし、当人の人生だからそれで良いとしている。だから、離脱するしかない。

 

憤怒氏が喚いているのは、別に凝り固まった母親の人格に対してではなく、自分を形作った最初の環境に対する反発。これは「思考のすごい力」でちょうどそういうところが出てきた。一般的に人には3、4歳までの記憶はないが、胎児の時も含めたここまでの環境が人の無意識を決定しているというところ。

 

僕は常々この環境に疑問を抱いていたのだが、どこからそれが来たのかは不明。モデルになるような人物もいない。ついでに昨日書いた料理の理想とか賢さももともと目指す対象はなかった。哲学の最初は本の師匠が勧めてくれた「ソフィーの世界」だったのだが、それまでも自分の頭で哲学していたし。このままで大丈夫なのだなとは思えたが。

 

憤怒氏が怒っているのは、人をオプションみたいに捉えるところと、オプションがないと価値が無いという不文律が読み取れるところ。母も祖母もやたらと彼女を作ることを勧めてくるのだが、これって僕のパートナーを僕のオプションとして捉えているのだろうなと。もちろん息子や孫とまだ存在しないパートナーの価値の重さは明らかに前者なのだろうが、僕が選んだパートナーが現実に居たとき、ないがしろにするような発言されたら噴火しそうな気がする、いやするだろうな。

 

この思想を進めると、僕がパートナーを選んだ、ないし見つけたことが、僕のオプションの為と捉えられる。パートナーが居る人生観もただの今の社会における一般的幸福論でしかない訳で、そういう風に人と一緒に居ることはできない。僕が今の社会ルールとは別に一緒に居たい人と制度を使って一緒に過ごすということだけであり、その人は僕の人生のオプションではない。

 

僕が一緒に長く過ごしただけで価値を置けないのもこの反発からなのだろうな。

今恋人さん居ないのに、僕の価値の為に作れみたいに言われてイライラしたし、生まれてからずっと関係している母親に対しても特に愛着が持てない。

 

これも「思考のすごい力」にあって、人は恐怖を生じさせる環境に直面したとき、なんだかのホルモンが出てきて、思考より危機回避に備えて、ただ環境に反応するだけになる。僕がずっと頭が霧の中だったのも漠然とした恐怖感によるものであり、この環境を作ったのが母親の独裁家庭政権だった。人が外のことを残しておけるのは義務ではなく自由にそれを考えて良い場があること。そんな場は家族で過ごした家には無かった。家のことを思い出す時に人物が出てこないのはそういうこと。

 

世界の抜け道みたいな思想だが、人間が人間であるための本質は強制ではない。恐怖も怒りも、人を阻害する。僕はこのご時世に自由を感じていた異端者だから時代が時代だったら非国民とか魔法使いでつるし上げられているかも知れない。

 

恐怖を煽ってコントロールすることはほんと簡単だが、そうなると相手は人ではなくなる。

命を守る術を知らない段階だと先に恐怖を植え付けるという教育法はありだが、僕が受けていた教育法だと、ほんとの危険はあんまり教えて貰わなかった気がする。

 

まぁ、頭を回すことができるようになることがほんとに当人にって良いことなのかも分からない。思考力が活発になるということは、今までの当たり前が崩壊することを内包している訳で。

 

恐怖に制限された人生を過ごすのもありだろうと思っている。

何が出てくるか分からないし。

 

制限解除しつつある僕は、僕が最初入った頃の職場よりなんとなく良い空気になっていることを観測している。絶対誰も意識できていないと思うし、普通はそこまで場を見ていない。ついでにこんなのあるかないかの誤差だから、あまり意味はない。現実としては歯車だし他人だし、何か存在感を出している訳でもない。

 

そういえば、前の前の職場のパートさん(なんとなく美人)が、僕が居なくなって殺伐さが増したとか言っていたことがあったな。送別会辺りでLINE交換したのに、その後すぐにスマホが潰れて一切やり取りをすることはなかった。

 

何の話なのだろうな。

僕の存在は僕の自我とは無関係にどこかに場所を取っている。

 

 

ちょっと頭の体操。

 

類推適用がゲシュタルト崩壊。専門用語って当たり前になっているから素朴が意識されない。法律用語って一般語用とずれているし、概念も独自。小5くらいの社会で出てきた罪刑法定主義は何気にかっこよい語感だった。この語感からここまで来ているのかも。

 

類推適用について言語化するとやたらと長くなる。そもそも一般的な社会の法律ルールって有事でしか意識されないし、意思表示とか代理とか民法の基礎の基礎も普通に生活する上では無用の概念。こういうのって、何か争いが起こったときに、じゃあどっちが正しいのかを判断してくれお上よ、とならないと認識できない。

 

法律学はそういう仮設の中で、何が正しいのかを研究する学問だと読んでいる。だから類推適用のほんとの意味が分かるためには、この仮設のルールを認識していないと無理。

 

あるルールを前提として、他の現実的な紛争があるときに、本質に遡ったら同じことですよねとしてしまうのが類推適用。

 

ちなみに法律でよくニュースで出てくる刑法は類推適用ができないとしている。罪刑法定主義による。殺人も過失致死も人を殺すという意味では本質的に同じだから全部死刑で良いとはならない。これ言い出したら悪いことをした人は全員死刑にできることになって、国家ウハウハの独裁やり放題になる。治安維持法時代とかはそうだったのだろうな。

 

自分にとって都合が悪いことは法規制してしまえばいいと思える感覚は、平和な時代で生きているからなのだろうな。自分とは無関係とできること。法律への恐怖がない。個人を助けてくれるルールではないのに。

 

そういえば、昨日のタイトルのあげてもなくならないもの。そんなものはないとされそうだが、僕の中ではいっぱいある。祈りもそうだし、認識もそう。

 

はい、おしまい。

 

もう頭がおねむ。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

あげてもなくならないもの

 

 

ゴミを出すついでにお月様にご挨拶。斜め半分のご尊顔が眩し過ぎてぼやけている。

 

 

あっという間の木曜日終了。今朝は田んぼにかかったネットを外しているのを見かけて、遂にきたかとなったのだが、帰りに見るとまだ街の明かりに生える黄金色の絨毯だった。今週末にやっつけるつもりなのかな。

 

 

意識し続けていると時間はこんなものなのかとよく分からない流れを実感している。いつの間にか一日が終わっているなんてことはなく、きちんと残っている。夢中ではなく今何をしているかを意識的に観測する。帰宅した後もわりと分単位のタスク。もうちょっと削った方がよいだろう本能由来のタスクはあるが、どうなのだろうな。

 

本日は帰宅してすぐに服を脱ぎ洗濯機を回す。土曜日にそろそろ京都でぼーっとしようと思っているため、あんまり溜めるといけない。パンイチでお弁当箱を片して買ってきた食材を冷蔵庫にしまい、そこから、民法を手動でエクセルに落とす作業をする。請負の項目が終わり、次が委任。会社法も5分程読み、云々。

 

まぁ僕の日々のタスク処理はどうでもよいか。しかしながら、今晩もご飯が美味しい。メインが特に。豚ロースが残っていて、昨日はねぎ塩ダレみたいな炒め物を作ったが、本日は蒸すことにした。残っているねぎと、買ってきた春菊。春菊が100円なのはとても珍しい。安定して安かったらもっと使いたいところ。ロース、ねぎ、ろーす、ネギ、とミルフィーユにして、最後に春菊をどっさり。最初の層に胡椒、途中の層にコンソメ顆粒をまぶし、料理酒をふりかけてレンチン3分。終わったら少し混ぜてオリーブオイルと白だしを加え、お弁当用だから多めに追加レンチン2分。初めての組み合わせだが、上々。

 

ネギはとろっとしていて春菊の苦みも和らぎ、白だしのキツさもレンチンで優しくなった。

 

料理も決めなくなってきたな。僕のコンセプトは「何が入っているか分からないのに美味しい」。調味料の調和が楽しい。

 

どういう料理を作りたかったかに近づきつつある。

名前の無いただの美味しいもの。

 

 

「思考のすごい力」、ほんとに信じたこと(信念)は現実になるという話があり、僕はどういう人物になりたかったのかというのを振り返ると、これも概ね近づいているところはある。

 

僕は優しい人ではなく賢い人になりたかった。優しいは良く評価される言葉だったが、これは「お人好し」とか「無難」みたいなニュアンスが隠れているし、守るべきものがないという性質のせいなだけだった。僕は譲りまくる人だった。

 

今は、この自分時間のハードルを越えるくらいの存在でないと関係できないとした。つまり、優しくなくなっている。これもなりたい自分。

 

別に優しさと賢さが対極にあるわけではない。たまたま思い付いたから並べただけ。一般的な賢さは「何でも知っている」という積み上げ方式かと思う。僕がなりたかった賢さはそうではなくて、「無知の知」に近く、自分が積み上げてきたものよりより良いものがあれば鞍替えできること。認識の上限を決めないから立場で人を見ない。

 

繰り返される無変化とされる日常も認識の更新の宝庫でしかないことを認識できるようになったのがまず1つ。

 

あとは、自分の為に世界を見ないこと。日本の一般常識においてまじまじ見ることってマナー違反なのだが、これは観察すること自体が悪とされているというか、観察するということは下心があるのだろうという根がありそうな気がする。だから、近い関係になった時にはこの観測が深くなってしかるべきとなるような感じ。

 

僕はこの価値感にずっと疑義があったのだろうな、解放すると世界がより鮮明に認識できるようになった。爪を塗っているのは女性上司だけではなかったとか、どういう風に意識してその人が世界を生きているのかは、当人の言説を聞かなくても読み取れるし、そういう風に観測して良い。答え合わせをしなくても良いし、別に悪用もしないし。

 

例えば、エレベータを待つ立ち位置で、誰かが乗っていることが意識されていないのだろうなとか。こういう視点で観ると、世界に無関心な人多すぎないかと思う。現実は五感を駆使して捉えるものだとすれば、イヤホンさして電話しながら自転車に乗っている人は現実と非現実が逆転してないかとか。無いと認識してしまうと世界にそれは無くなる。

 

以前、スピリチュアルの人にコメントを頂いたことがあって、神様の意思は識りたいであり、その為に宇宙を創ったということだった。これよく分からないなと思っていたのだが、宇宙の起こりの神話的解釈とする一定の説得力がある。そもそも宇宙の起こりは科学的な解釈があるにしても、原因が解明されていない。神様を模して人が創られたと繋げると認識によって1人1宇宙が拡がるようにできていて、宇宙が偶然生まれたという当たり前よりはなんだかしっくりくる。

 

 

当たり前の色眼鏡って為にならない。「思考のすごい力」では人は信念(フィルター)で世界を見ているとのこと。これが世界の全てなのだろうな。細胞レベルでそうなっているのだから、認知バイアス然り、行動経済学的な当たりも然り。

 

ここでいう信念は、世界はこうであるべきだという固定観念もあるだろうし、世界はこうでしかないという絶望感もあるかもしれない。

 

どうでも良いが、昨日か一昨日の話。仕事場の公園に生息している仙人(ホームレス)が、いつもは地面に座っているのに、何故かベンチに移動している行動を見てギョッとした。この人の中で何があったのだろうという注視。いつも通りでなくなった時には警戒信号が発されるのだろうと思ったが、この仙人の行動パターンが変わったところで、僕が警戒する必要は全くないのにな。

 

死に至る病」のキルケゴールさんは、もったいぶる文体。自己とは何ぞやというと自己に関係するものだとか。よく分からないが、端的に本質をついている感じはある。自己を定義するためには何かとの関係が必須。

 

自己と自我がどう違うかも微妙だが、「考える身体」で、自我は流行だというフレーズがあって、たしかになと思う。関係の中で自我を捉えるのであれば、それは自分が生きている社会と関係した自分が上限になる。

 

今売っている服も、男性は色の選択は少なく、女性はカラフルの中で選べるというかなり昔の感覚由来なのか。まぁ服は文化だし。

 

 

僕の素朴はもともと、他意が無かったのだろうな。

誰かに承認されて自分になれるみたいな感覚がなかったから、愛情不足のアダルトチルドレンみたいなところに倣ったが、だとしたら特定の誰かに怒っていて良い空気を振りまけるようにはならない。

 

関係無く人を具体的に観測できるのは現世でまぁまぁおかしいことは把握した。

それくらい人は人のことを見ていて、ただ言語化していないだけ、なんてことは無いで良い。

 

もっと他意ないように人と関係すれば良いのか。

もともと他意ないのだが、他意がないなんて無いのが当たり前とされてきた感。

 

やっと素朴で生きて良いのだという信念が芽生えたところ。

文字数上限も、僕が収集してきた常識観でしかない。

 

まだまだここから。

 

では、おやすみなさい。

 

良い開拓を。

 

 

ありあまる富

 

 

人に助けられたときは感謝を忘れないようにしてラッキーだと捉えれば良いし、人を助けたときには感謝を求めるのではなく貴方はラッキーでしたね、というくらいでよいのかもしれない。感謝とか笑顔があるのであればいただくが、それ自体もラッキーでしかない。

 

自分がラッキーであるとするのは問題ないが、これを人の価値にフィードバックするとニュートラルで居られなくなりそうだなと、本日たまたま人に助けられてときに考えた。

 

毎回書いているような気がするが、ほんと毎日がおかしいくらいに楽しい。変化を好む質だが、万物に変化が無いものは存在せず人にかぎって言っても常にどこかの細胞が死んで生まれ変わっているのだから、そりゃあ常々楽しいに違いない。

 

変化を嫌う質が平衡を求める細胞の性質に由来しているのであれば文化とか社会規範よりも根深いが、対自分だと変化していないと思い込んでいるうちに閾値を越えてしまい、いつの間にか変わってしまっていたとなるのかも。僕にはそんなことはないが。

 

僕の言語化は、頭の中で練ってきた言葉を満を持して現実に投げるようなものではなく、その「いま」の感じをぽいぽいしているだけ。感じと言葉はある意味別物なのだが、この感じがそう言語化されるのかと演者と観劇者の両方が楽しめる。一度で二度美味しい。

 

これは僕の料理観とも近いのか。本日の副菜は結構気合がはいった豆苗と人参のマリネを作った。昆布茶テイスト。あとは卵をレンチンするだけというところで、切れていたことが抜けていたことに気付き、急遽ピーマンのレンチン鰹節、すりごま和えを作成。白だしが美味しい。ある時間枠の中でどこまで作れるかと、それが美味しいのかを二度楽しむ。

 

こんなの変人の所業だと思うが、楽しむの本質は楽であることではなく、変化と試行による向上なはず。ついでに、きちんと楽しめば世界にフィードバックされてくる。料理で言えば、どれだけ気持ちがこめられているかが、形とか味で読めてくるとか。

 

文章で言うと、「クララとお日様」を読んでいて、この文体どうしてすらすら読めるのだろうと思ったら、漢字が続かないように意図的にひらがなにしている部分があるからだった。これは宵顔さんの語用に倣って僕も日記を書くときに気にしていること。これを認識した瞬間ぶわっと鳥肌が立った。

 

この認識を自分の日記を読みかえすときに持ってくると、ここの媒体で読みやすいように意識が通っている。短文にしたり、体言止めにしたり。体言止めの多用はもともとの文体なのだが、そもそも僕の文章体の始まりはもっと日記に特化していないSNSだったからなのか、素朴な発話がそれだからなのかは微妙なところ。

 

まず文章として読みやすいかというのは人に読まれる最低限だとは思う。僕のは人が一息で読める文字数の上限を越えがちな気はしないでもないが、別にそこが目的でもないから良い。

 

これで言ったら夏目さんの文章は悪文の語用なのだが、それでも美文になるのは文体の術なのだろうな。静かな味わい。注意して読むと、全部の語尾が「た」だった。これを普通の人がやろうとすると、絵日記のようになるはずなのに注意しないと気にならない。こういうのが文芸と言える文章なのだろうな。

 

こういうのを気にして書くには日記の枠は狭いと思う次第。何処で書いても一定の文体があれば良いが僕の文章体はそこまで強固ではなさげ。緩さと軽さこそが僕の文体であるという感じもある。

 

 

ちょっと椎名さんの「幸福論」の話に戻って。昨日のタイトルも同名にしたが、幸福とはなんぞやって書いてなかった気がする。僕の中では何ものにも依拠しなくても自分で在れることがほんとの幸福なのではとなっているが、これは幸福というより幸運なのかもしれないという異説もある。

 

そもそも幸福って、その時代で決められた人生の理想形みたいなところがあり本当に素朴なその人の話ではない感じがあって、使いどころがワカラナイ言葉なのだよな。ほんとうに当人の理想形であれば良いが、そうなったら幸福という言葉を当てる必要がなくなる。

 

それとは別に、長く過ごした恋人さんはカラオケで歌うとき、当人の意味を歌に載せる傾向にあった。僕の当時では追いつけなかった知見。ここで、「幸福論」とか、安藤裕子さんの「のうぜんかつら」が耳に残っているということは、彼女にとって僕と居ることがハッピーだと捉えられる時期があったのかもと。僕がもっと僕になれていればもっとその非言語に気付けたのだろうが、僕の人生はだいたい気付くのが遅いので仕方ない。

 

ただ、幸福感が一瞬でもあったのであれば嬉しいことだなと想えるようになった。

 

 

僕はもう一生、誰かのこととか何かのことを掌握しているとできないという認識。

世界は常に自分というフィルターがかかっていて、これを完全に外すことは自分でなくなることだから。

 

何にも依拠しなくても良い自分で在ることってなんだか仏教寄りな感じがするため、原始仏教の読みかえしはやめて、ずっと前に買って読んでいなかったキルケゴール氏の「絶望に至る病」に移行した。キリスト教の枠内の中での話っぽい。死自体は死に至ることはなく、絶望という病が人の魂を退場させるみたいな話なのかなと予想。

 

ちなみに僕は世界に絶望は全くない。この枠なら希望しかないで良いくらい。

自分の処方箋として本を読むということもやめている。良い感じに機会が巡ってくるだけ。

 

「思考のすごい力」なのだが、ほんと凄い。

 

信念を生物学用語に翻訳すると、「中枢神経系からのアドレナリンからの指令」という言葉になり、これは個々の細胞の環境に対する反応に優先するとのこと。ほんとのポジティブは病気を治す。ただこれは自分に言葉で言い聞かすことではなく、中身を信じるかどうか。

 

うさんくせぇとなるのは当たり前。陰謀論ではないけど、人が制限かかっていた方が都合が良い勢力があるから。オカルトではなく、製薬業界のやり方が書かれている。

 

プラシーボ効果は、心理学をちょっと読めば出てくる言葉だが、製薬業界では統計取るときにこの効果が高い人は排除する運用をしているらしい。なにやら抗うつ剤の80パーセントはこの偽薬効果というフレーズがあり薬とは、となる。先輩男子は良きお医者さんに当たることができれば良いが。ここも祈っておくか。

 

制約業界怖いというのは、かつての友人がMRだっけしている話を聞いてなんとなく知っていた。信念の話で言えば、薬を飲んでやってくる環境効果は、脳からく指令によって覆るということ。僕は鎮痛剤も常備していないし葛根湯くらいしか飲まないのだが、安心の為に常備薬を飲んでいる人も多そう。眠眠打破とかカフェインとかも、結局それが利くと自分が信じているかどうか。これが本当だったら、世の中の医療システムはひっくり返ってしまう。

 

カフェインに覚醒作用があると思ったことはない。コーヒーは美味しいから飲んでいるだけ。

 

こういう情報を収集すればするほど、世界についての問題は、自分がどうであるかに還元されるという自由度が増す。

 

人のことも僕は経験則で判断してないことを認めれば良いし、なんだか接していて気持ちが良い人はいる。これは効果とか結果は問題としていない。

 

MRのかつての友人も僕にだけに自分の中身を呈示してくれた。強気で世界と向き合っている人だから、弱みは提示できないだろうに。

 

誰か特定の個人を知るということができないというのは、無意識が95%を占めているのだから当たり前。見えている相手もフィルターがかかっているし、見せようとする自分のことも把握できていない。この曖昧な関わりで、完全に相手が分かっていると思うのは思い込みでしかない。

 

もしかしたらこんなの社会の共通認識で、言わないのが華ということなのかもしれないが、仕事ならともかく素朴な関係でこれをするのもされるのも嫌。

 

「クララとお日様」に戻ってきて、ほんとに嫌だと思うのが、表では良いこと言っているのにその人がその場に居なくなったら蔑ろにできること。ほんとが良い顔できないのだったらやめれば良いと思う。

 

この話根深そうなので強制終了。

 

おやすみなさい。

 

良い信念を。

 

幸福論

 

 

雨音をBGMにして蒼を枕に心地良く寝入る。起きると布団の反対側で普通の枕を敷いて寝ていた。寝相悪い。蒼は寝る瞬間には冷たくて気持ち良い。おかげで随分と首が柔らかくなったが、この季節途中で冷えて普通の枕に移行したくなるのかも。起きたら反対側というのは、小学校時分によくそうなっていた。感覚的には回帰している実感はあるにしても寝相まで回帰することはないだろう。

 

雨が降ったらまずいのではと気になっていた田んぼの様子を通勤がてら観察。見たところ落ちてはいない。これくらいの雨で落ちるようでは主食を担えないか。ちょうどがたいのしっかりしたスポーツ選手のようなパツパツの服をきた所有者っぽい型が何かしていて、夜には刈られているのかと期待した。予測より2日の誤差。どうなっているか気になって、帰り道のルートを変えたものの、まだたわわな黄金色のままだった。区画が直角だから手で刈らなくて済むだろうし、始まったら1日で終わってしまいそう。

 

いったん昼に戻る。檸檬の様子も気になり(気になることがわんさか)空中庭園でお弁当を食べた。ほんとうに微々たる変化だが真緑の中に黄色があるような気がした。そういえば、そろそろ紅葉か。機会を合わせて貴船神社の辺りにもう1回行ってみるのも良さそう。川魚のお茶漬け美味しかったな。3年前だったか。

 

立ち読みリブロ。ちょっと図書館に寄ってみようかとも思ったのだが、心に任せる。何やら趣味としての絵の棚に足が向き色鉛筆12本で書くイラストの技術本をぱらぱらめくっていた。小学校の頃は好きで、中学にはもう嫌いになっていた領域だからやり直しはどうなることやら。なんで嫌いになったかというと、低学年の頃にブドウ狩りを描いた絵で何かの賞をもらったことによる。おぼろげな記憶だと飛行機に乗ってまぁまぁ大きな会場だった(ような)。ここはおぼろげなのに、姉からこの絵を否定されたことは割とくっきり覚えている。子供っぽい拙い絵が好まれるのだろうな、へたくそなのに、みたいな。

 

もちろんどんな絵だったかというと、たしかブドウの粒と人の顔の大きさが同じくらいで、登場人物が皆笑顔だった感じの間違いなくただの子供らしい絵。中学校の人権ポスターも嫌だったし、高校は美術と音楽が選択になっていて、自分の声が嫌いで歌うのが嫌だったから消極的に選んだ。客観的に描くのはできなかった。

 

表現としての絵ではなく、主観の挙動としての現実化としてこつこつやり直したいなというだけ。まだ客観に適っているとはとても言えないが、文章もこつこつそうやって続けたからここまできている。「魔術講座」で瞑想を続けてみるという下りで、人は21日間続けられたことはずっと続けられるらしい。文章も料理も読書も全く問題ない。笑

 

なんでも同じことだが、頭の中にあるものが外化することで初めて現実になる訳で、現実にしてみないと結果は出ない。僕の場合はそれによって自分の価値が高まるみたいなことに重さはないから、自分の表現(外化)はどこまでなのだろうなという感じ。昼間見た緑の紅葉の像とか檸檬のシーンも頭の中では鮮明なのだが、絵で現実化するとなると勝手が全く違う。ただ、絵だろうが写真だろうが結局どこを切り取って何を強調するかという意味では主観でしかないという気楽さ。文章だってもちろんそう。

 

 

さておき。

 

本日の気付き。自分がどんどん図々しく、ふてぶてしくなっている。迷惑への誇大評価をやめて、自分が評価されることを忌避することを辞めつつある。お客さんに「さすが! 大好き!」と言われたのは流石にびっくりだが、別の部署の人に挨拶して良いのか良くないのかという無駄に迷うくらいなら挨拶したら良いとしている。

 

このふてぶしさっておそらく普通の感覚なのだろうなと想像するのだがどうしてこうなったのか。おそらく守るべき自分がなかったから空気に合わせて自分を閉じたということ。僕の素朴は勤勉とか怠惰とかそういう標準にはなかったし、独占欲もないらしい。独占欲で生きたとき、無茶苦茶しんどかった。長く過ごした恋人さんに浮気された後、これって、今や僕の無意識がそういう方向に仕向けたのではという説もある。ほんと何も見えてなかったし今と比べたら霧の中の世界だった。

 

この人が良くカラオケで歌っていた椎名林檎の「時の流れてと、メロディーふんふん、、、」という音楽が頭の中に流れてきた帰り道の方が先。ハッピーのことを考えていたから「幸福論」が流れてきたらしい。ほんとの歌詞は、「時の流れと空の色に何も望みはしないように」。

 

確かにこんな感じ。宵顔さんのことに焦がれているが、何にも望んでいない。

ハッピーであることは祈るが、別に相手が僕でなくてもハッピーであればそれが一番良い。私信も送らなくても良いはずだが、これがふてぶてしさ。

 

この辺りが自分の欠落なのかとぼやぼやしていると、フレーズが浮かんできた。

ほんとここのところ、ぼやーっとした毎日。

 

「物事をニュートラルに捉えると、相対的に外が深く、内が浅くなる」

 

これはなんだと言語化させると、人って内側のことは深く捉えて自分ごととして居るが、実際は対象をきちんと捉えている訳ではなく自分の物語の中としているだけだから、それほど深い意味で相手を見ようとすることはない。これは脳が安全圏だとした対象に対してはサボる機能があるから仕方ない。

 

外に対しては、自分が見ようとするものしか見えないし、見た対象を自分ごとにできるのは自分が気にしていることだけ。要は、外の世界は、自分の内面の色眼鏡がかかったところでしか視界がない。

 

ニュートラルに捉えると、どちらも自分ごとであって他人事になる。

この感覚を表現するのはとても難しいのだが、自分の為に生きるとかあんまり関係ないというか、勝手に人のことを自分の為にならなくても気になって良いし、どれだけ親切な人で内輪しか大事にできないのはアウトよなという俯瞰になる。

 

啓発本に物事を自分ごととして捉えたら理解が深まるという言説は多いのだが、僕はそもそも自分ごとが薄い。感情も情動もきちんとあるが、誰かを押し退けてまで実現したい現実の理想的な自分がおらんから、組み合わせで制限をかけることになった。

 

ふてぶてしさの続きは、結果的に誰かを押し退けることになってもそれは不可抗力だと認識できるようになること。

 

長々自分語りしていたら、生物学上の認識を書く時間がなくなった。

脳の認識は細胞に伝播するとか、感覚の反応をコントロールする因子を信念とするとか、現実観が覆る。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良き自己認識を。

 

 

はっぴー

 

 

通勤路の田んぼの稲刈り、終わっていなかった。これ雨降ったら落ちないか大丈夫か。気になる。せっかく黄金色なのに。

 

帰り道。お月様と夜に縁が合った。青空には溶けておらず、黄色に白で縁取りした様相。雲が幾筋も手前にあって、ブラ、、、ブラインド。いや、風情を入れるのであれば、「雲の御簾に透けた月の艶やかなりけり」みたいな。

 

言葉の当て方はどれが適切かというよりどれが綺麗かみたいな基準の方が良いのかも。ちなみに古文の文法は知らん。笑

 

絵は、タブレット端末を導入しなくても、スケッチブックと色鉛筆で良いかもしれない。自然に行くと、何もなければ休憩なしでひたすら歩くから一服がてらスケッチしたい。心に浮ぶ言葉のスケッチは帰ってからでもできる。脳内日記帳みたいなものがあるため。

 

 

仕事。先輩男子はどうやら長期で休まざるを得なさそう。精神不調はどうしようもないというか。カウンセリングが想像できない。話すことが大事な人は無関係の安心できる人に吐き出すことは癒しになるのかも。どういう人がこういう風になるのかを想像したとき、例えば叱られようが失敗しようが世の中がどうだろうが、宇宙の事ばかり気にすることができる人ってそういうことにはならないだろうなとなる。何を気にするかも心が肉体に及ぼすコントールに含まれるのかも。

 

自分のことでないことは全部「かも」である。

 

女性上司がちょくちょく雑談を振ってくるようになったのもこの影響なのかもしれない。明日新しいことの研修があるとのこと。新しいことはウェルカムだが、給料上がるのかな、上がらないだろうな。モチベーションは左右されないが、どういう仕事場なのだろうという観測には上がる。何を成果と捉えているのかとか、業績とは何ぞやとか。

 

 

お昼のお弁当時間では、ぎりぎりの曇り空の下、お弁当画像を貼るついでに母親にも送りつけた。やはりきちんとしたものを食べていることと生存していることの報告が一挙にできてよろしい。美味しそう! というメッセージをいただいた。実際美味しい。副菜の緑の塊は、春菊の胡麻辛子和え。いつもは醤油を使うのだが白だしを使ってみた。白だしは風味の主張が激しくて調和を保つのが難しい。たこわさには良さそうだが。

 

さておき。

 

この辺りから頭の中へ。

 

世界が五感で感知できるものだけで構築されているのであれば、洞察を磨くのは色んなところに行って色んな人と接すれば良くて、本を読む必要はない。ただ、人間が現実として捉えている世界は、五感の領域だけではない。第六感みたいなことも含まれるが、そうではない、例えば概念とか常識とか当たり前とか。

 

第六感とされているものも、現代科学は解明しつつある。

 

Kindleで「魔術講座」という怪しげな本があって、最初の方だけ読んでみた。今なら普通に読めそうな感じ。「魔術とは、意志によって現実を変化さるもの」という定義があって、読んでいる人が覚えているか知らないが、僕がハリーポッターの「魔法」の動力源を考察したところに似ていて、やっぱりそうだよなと思った。なんか論理的だもの。

 

要は人間の可能性を開く技術とのこと。自分が変われば世界が変わる。

 

ここで、魔女ないし魔術、錬金術(鉛を金に変えるのではなく、鉛のような心を黄金の心に変える術だったらしい)が、異端とされたのって、人がちっぽけな存在だとした方が都合の良い権力があったからだろうなとなると、天動説とダーウィンの進化論、資本主義の採用も同じ系譜にありそう。

 

なんだか本を読みまくっていて現実と乖離している感がありそうだが、現実と非現実・神秘はきちんと分けることができないというだけで、自分が捉えている現実世界が空虚なものだとはしていない。こんなの道端のススキやセイタカアワダチソウを愛でたり、仕事場の人達の服装を眺めたりする叙述で明らかか。観測圏内だと女性上司だけが爪に化粧をしている。していますよねとは言わないが。

 

全部未分離で捉えられるのが人間の本来。

でも、現実と非現実があやふやになって自傷他害の方向になったら駄目なので、ちゃんとかえってこられるようにしないといけないって魔術本に書いていたな。トランスはほどほどに。

 

歴史にこびりついている人間の可能性の閉じられ方。

ダーウィンの進化論は競争と淘汰がメインだと思うが、この考え方だと世界は敵ばかりになる。という感じで、資本主義の導入もすんなりいく。DNAという言葉は遣われてないと推測するが、親の形質が子に承継されるという考え方はひな形になっているのでは。穿った考察だと、前近代国家がやっていた、身分制の固定化にもそぐう。

 

こう考えると、素朴な罪悪感も神話から刻印されたリミッターなのかもという飛躍。飛躍というか、遺伝とは別の環境としての承継。

 

ここで、「思考のすごい力」だが、人の無意識は6歳までに接した周りの人を含めた環境で構築されており、人の現実の95%を占めるとのこと。自分が無意識的に言動していることは当人でも把握できない。これを克服するためには、啓発本を読みまくることより、自分の動きを逐一意識すること。これはエックハルトさんの本。

 

だから、顕在意識がどれだけポジティブに生きようとしたってうまくいかない。僕の無意識もだいたい否定されてきたことしか覚えてなかったからセーブをかけていた模様。素朴にありがとうと言うのが恥ずかしいみたいな感覚はなかろか。僕にはあった。今はそんなことないが。

 

あと、細胞がエネルギー場に影響を受けるというのが科学的に説明されていた。波長を強める波と、弱める波。スマホの電磁波も影響あるとか聞くし、人は意識できる領域ではないところにいっぱい影響を受けている。

 

ここにどう思考が関わってくるのかというと、おそらく、思考することってシナプスが電気的な信号を繋げてするものだから、その電気的な信号は外にも影響するということ。もちろん影響を受けるのは内の方が強い。

 

悲しみは負の感情ではないとするのは、何かを大事だと捉えていないと起こらないことだから、完全な負の感情は怒り。怒りはエネルギー源として狭すぎる。テニス漫画でも描かれていたのだが、怒りはパフォーマンスを落とす。ということは周りのパフォーマンスも落とす。

 

あれ、ダーウィンの進化論の続き書いてなかったか。

生物の進化のプロセスを競争と淘汰するのは粗い。人間はもともと単細胞生物だった細胞が50兆集まった共同体であり、生態系の進化には協調のプロセスがあったということ。寄り集まって分化して役割分担をする。

 

これって、素朴な人に利他的衝動があるということにも一致しているし、僕が集団に居るときに制限かかっているとなるのも分かった。集団行動に一体感があるのってこの細胞由来なのだろうな。人間という物体自体、細胞がチームを組んでいる構造だから、ある集まりに属することに快感がある。僕は集団に指示する立場になればやっていたし。自我とは別の文脈。

 

個人の自我って歴史上かなり新しい発明品だからうまく扱えないのかもしれない。

 

最後。

 

締めのお祈りに人のハッピーをやたらと祈っているが、そもそもハッピーとは。

個人的な定義としては、なんらかの充足、目的と結果の一致みたいな感じ。

 

これは物体的な充足なのか環境としてなのか、色々個人的な定義はあると思う。

 

僕としては、ハッピーは要らないという立場だが、ハッピーが内側にあるとすれば、もうこれ以上は無くて良いいう意味で毎日ハッピー。

 

例えば、冒頭のお月様の美とか、お弁当とか夜ご飯がやたらと美味しいとか、宵顔さんの可愛さがおかしいとか、外のことに感謝できる内側になれたことがハッピー過ぎる。

 

では、おやすみなさい。

 

良きハッピーを。

こころ

 

 

髪を切りに行った。道中、草がぼうぼうと生えている空き地のススキに見惚れる。白も現実世界では無色ではない。ついでによく見かける黄色い細かく咲いた花。セイタカアワダチソウというらしい。形も名前も知っていたが1つになった。

 

エネルギッシュな店員さんは親友の結婚式で珍妙な役割を頼まれたらしい。体を作って何日か前から断食するという役作りに対する熱量。うまくきますように。まぁ結婚式って何があっても良い話になる稀有な場だからなるようになるだろうな。

 

この店員さんはゲーマーだから、某作曲家の現実劇場からの退場ニュースで泣いたらしい。僕もドラクエの音楽は好きなのだが泣けない。薄情者なのか思ったのだが、僕はアーティストに対しては別の感情の方が強いだけだとした。その芸術に時代が合うのは奇跡であって、心を動かしてくれてありがたやという感謝の心持ち。アーティスト個人への悲しさは直に会ったことがあるとか生活圏ならともかく、自分の中で何か違う。個人的には悲しさで泣くってネガティブな感情ではないと捉えていて、泣けるのは良きだが、作品が更新されないことに対する悲しさは、どちらかというと内向きな感じ。

 

 

帰り道、年配手前のご夫婦が手を繋いで歩いていてほっこり。人のハッピーは良いものだ。見上げた空にはここのところ夜にはご縁がないお月様が、今にも青空に溶けてしまいそうな儚げな細さで浮かんでいた。午後4時のお月様も美人。

 

 

さておき。

 

人ではない存在を擬人化できる条件は、「一定の目的、あるいは機能をもったもの」なのではという仮説。水まくらは僕も若干擬人化しつつある。定期的に石鹸で洗ってあげる。ヲタクのクラスタの電車とか、漫画「銀の匙」のホルスタイン部とか、機能美を擬人化している感じだし、馬と心を通わせることは人以外の動物でも素朴に人と同じ水準で心があるとしているという意味で擬人化と言える。この擬人化できる機能って、人の本質論としてとても重要な感じがある。

 

人とは何ぞやという分野で超絶ヒットのシンクロニシティの本と出逢った。「思考のすごい力 心はいかにして細胞をコントロールするか」。昨日「クララとお日様」の下りで、DNAと人は一致しないという見解を書いたが、これを生物学者が学問的に説明してくれるみたい。

 

本来この本は啓発本のところに居るべきではない。時々こういう科学の最新知見の本が学問領域でないところに現れる。個人的にスピリチュアル棚に置かれていた「こころはなぜ腰痛を選ぶのか」と近い。共通項は、西洋医学・西洋思想という既得権の層が認めないから、化学棚に置かれないことによる。出版はさせてあげるが、科学のお墨付きは与えない、みたいな。

 

「こころはなぜ腰痛を選ぶのか」は東洋医学を下敷きにした、全体として人を捉えるみたいなところにある。腰痛はその炎症を対処療法しても治らない。憤怒を自分で見るに耐えないから、痛みに逃避しているみたいな話。この「思考のすごい力」も、現代生物学のダーウィンの進化論に反旗を翻していて、生物のシステムは全体として捉えないと見えてこないとしている(要約)。この全体性って原始仏教の世界観とも一致しているという面白み。

 

そもそも心ってなんだろう。こんな子供でもすぐ思い付くような問いに対する回答を最新科学ですら持ち合わせてない。世界は不思議過ぎないか。

 

「クララとお日様」でも、父親がクララに対して、君はジョジ―の反応を複製できたとしても心まで学習できるのかいというという問いがあった。クララは、人の心は部屋のようなもので、全部の部屋を回って行けば学習には限りがあるから大丈夫ですって答える。とてもAI的回答だが、一般的な心観もこれに近そう。カズオさんの文体はとてものどかなのだが、中はすごく怖い。ジョジ―が不治の病になったのは、母親がジョジーに「向上処置」なるものをした副反応っぽくて、これってたぶんDNA的な何かよなって。

 

「思考のすごい力」の回答として、おそらく心もカロリーとかと同系列のなんらかの「エネルギー」という定義なのではという予想。これは僕の心観ともやや一致している。

 

あぁ、DNAの話。電子顕微鏡の視点でみれば人間は50兆の細胞が集まった共同体であるというところから、最小単位である細胞の話になった。細胞をコントロールしているのが何かが分かれば、共同体である人間をコントロールしているものも分かる。そうして、DNAは細胞の脳ではなく、設計図だっけでしかないとか。ほんとうに細胞をコントールしているのは細胞膜で、環境をトリガーとして、反応するかどうかを決めている因子があるらしい。

 

免疫反応のメカニズムも面白い。(僕が個人的に打ってないのは、この素朴な免疫反応を狂わせるという研究結果があるらしいということなのだが、これは別の話)

 

おそらく、この環境というトリガーの中には思考も含まれるということになりそうな感じ。

量子物理学で言えば、物質はエネルギーでしかにないから、何をエネルギーとするかは思考の解釈による。甘い物を食べるのはご褒美だとするのも、血糖値が高まることによるブーストとは別に、そういうものだと心が決めていることによる。

 

はい、ここまでが採り入れたほやほやのもの。ここからが考察。

 

思考の現実化もこの文脈なら分かる。思考というエネルギーで自分の現実を誘導するということなのだろうな。で、自分素朴がしたいことをしているときにエネルギーが最も高まるから人はそれに寄る。

 

僕がそもそも好きだったことってなんだったかなって省みた。

人のことも好きだったし、本もそこそこ読んでいたし、なんなら絵を描くのも好きだった。でも、何をするのが一番好きだったかと言うと、ただ、世界をぼーっと眺めることだったかもしれない。蟻の巣を観察するとか家族の不和も観測対象だったとすればまぁまぁやばいが。

 

小学校の運動会で将来の夢を表現するという無茶振りがあって、僕は宇宙飛行士にして腕を広げて走り回っていたな。

 

好きなことが決まらないのであれば社会の一般的見解に従って生きれば良かったのに、僕はまだここに居る。誰かに承認されることでは満足できないことなのだろうが、最終的に何になるのだろうな。という構想のなさが外から見たら危ういのかもしれない。彼女居ないのか、嫁をと言われるのも、そういう文脈なのか。はて。

たしかに、退場しそうな時期はあったのは確かだが。

 

今や、1つに決めなくて良いというか、好きというエネルギー源があるからやっているという人参と馬みたいな行動規範で動いていない。

 

僕が人に対して鋭くない、なんて読者さんには通用しないが、人に対する洞察ってあくまで自分にとってどうかという枠。僕はそういう枠で人を捉えてないんだよな。だから現実世界ではぼーっとした人物と捉えられて、もないか。

 

承認されなくても生きていけるもんな。

これは、ほんとは承認されたいのにされないから逃避しているという節も考えていたのだが、そうでもなさそう。これを読んだ人がハッピーになったらそれで良いくらい。

 

表現を手段にするか目的にするかの話。僕が好きだった踊り手さんは目的にしているような感じだったのだが、自分を見つけてもらう手段にしていたのかなぁという感じになった。宵顔さんはどうなのだろう。

 

なんだ、やれやれ、僕はもっとできそうなことをしまくった方が良いな。

画も描きたい。タブレット端末の導入かー。

 

するのだろうなとなったことをするというのが心のエネルギー。

 

人の精神性って現実的にも何かのエネルギー的場をもたらすのだろうな。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良いハッピーを。

できること

 

 

 

面白いことに何処にも行かなかった。最低限本屋には行くかなと思っていたのだがそれもなく。ゴーサインを出したのも直感で変な感じでブレーキをかけたのも直感。変な感じは悪い感じのざわざわではなく、これ以外に言葉を当てられない。もちろん解釈はいくつかある。

 

ごろごろしつつ、民法の条文を写経する作業を進める。脳の準備運動なイメージで結構楽しい。Excelをマウス使わずに操作する訓練にもなるし。法律の原初ってなんとなく刑法だったのかと思っていた。でも、刑法ってそうとう高度な共通感覚が形成されていないと無理だ。憲法はもっと後で、新参に挙げられるのが知財法とか租税法になるのだろうな。

 

おそらく法律の最初は個人間の個別的な約束にあったのだろうなとなる。民法って一般的に生きている限り、婚姻とかの家族法関連しか意識されない。あとは交通事故とか医療過誤とかの損害賠償か。不法行為の分野は社会的な便益と損失の調整という意味合いが強く、国家が設定したルール間があるが、民法の本質は当事者の合意だから、あんまりどちらかに偏らない限り、ルールは合意で決められる。だからこそ、骨格を言葉で示しておく必要があるという感じなのかな。という風に、不完全性が把握できる程、対象に親しみが沸く。

 

法律談義もなかなかできるようになってきたな。民法って書いてなくても当たり前のことは書かないという因習があったみたいで、今回の改正でやや修正されたみたいだが、ややこしい奴である。

 

八百万思想の日本人の系譜からすると、ルールの体系も擬人化して問題なさそう。むかーしTwitterで法学たんというアカウントで面白い文体があったのを思い出した。おそらく中の人は男性で真面目な人。何しているのだろう。

 

隠喩は言語を介した人が世界を把握するための機能みたいな話を「ことばと意味」で読んでいる。文法学については詳しくないのだが、喩えって要は全然別の物事の間に繋がりを見出すことであって、シンクロニシティと同じ感じのイメージ。

 

法律解釈学でいうとところの類推適用とも似ている。

 

 

さておき。

 

変な感じの何に、自分こそが逃げているのではというフレーズがありそうだが、ともかく。

 

 

「クララとお日様」が本格的に現代SFとしてホラーの様相を呈してきた。

以下ネタバレあり。

 

 

 

AFであるクララのお友達の人間はジョジーという名前。ジョジ―にはお姉さんがいてサリーという。サリーは亡くなっているのだが、一回サリーでも試したっぽい描写がある。AIに人格を学習させて、人格をアップロードすることにより、亡くなった人物を継続させるという試行。ジョジ―は病弱でなにやら不治の病らしいのだが、まだ生きているのに、クララが買われたのは、ジョジ―を学習できるAFはどれかという基準だった。

 

バックアップを取るというのはデジタルでは当たり前のことだが、人格にバックアップを取れるのか、取れるとしてもそれをするのかというと、なかなか意見は分かれるはず。

 

僕の見解。

 

そもそも他人のバックアップはもっての外。これをしなくても多分同じような感覚になれる人とは出逢える。よほど深くしてない限りだが、この深さは他人へのというより自分の深い領域に向いている。だって、相手はどこでまでいっても自分に感得できる外界の領域でしかない。

 

自分のバックアップを取れるということであれば、とても便利だとは思う。ある瞬間の自分の全部が保存されているのであれば悪い体験も無かったことができるし、良い体験の瞬間にいつでも居られる。僕はこれもごめん被るが。

 

僕は人も自分もアナログに捉えているから、脳と肉体のコピーがあったとしても全然別の人格でしかない。物理的な絶対的ルールとして、ある瞬間のある空間には1つの物体が有れば他の物体は重なれないから、その場の経験はその人だけのもの。VRにならば重なっても透過するのだろうが。

 

これがデータ量の問題であれば、そろそろ現実的に克服される技術的な問題かもしれない。なんなら、なりたい自分にもなれるかも。でも、その理想化された自分が自分と別の物体として現実化されたら、人はその存在を許さないと思う。インターネット世界で理想化された自分を演じるのとは訳が違う。制御できるとしても、きっと自分達で生き残り競争が起こる。火の鳥ちっく。

 

個人的には、僕の現時点の人格が複製されたとしても、それぞれ生きていけば良いとしかならず、何を選ぶかは当人によるよなぁという感じ。僕が三人居ても、同じ選択をする気がしない。いや、さすがに宵顔さんとくっつく僕が居ればそれは裏山。でも、それはそれで離れられてすっきりするかも。直感的にはどっちでも良い。

 

クローン人間が倫理的に禁忌だとしているのも同じような不安感なのだろうなと思う。現実的な反応パターンによって人を決めていて、反応はDNAで決まっているみたいな。運命論過ぎるし、骨格によって犯罪係数が高い人が決まる説のロンブローゾかよ。

 

僕と全く同じDNAの人が今この世に生まれたとしても、僕と同じようには絶対ならないと思うのだが、環境要因を度外視しているのか、「人は自然に生まれるもの」としているからなのか。

 

そもそも自然に生まれるようにはしてないが、その操作に対してはなんにもないのだろうか。いや、別にそういう社会であることを問題としてはいない。自然とは何ぞやというだけ。

 

別に人の事の家族計画のことはどうでも良い。

家族計画的な社会は個人ではなく群れとして捉えているだけとは思わなくもないが。

 

そうして、人にとっての人ということを考える。

 

「ことばと意味」で、1回隠喩化されたものは閾下の無意識になるという話があった。これは確かにで、人は概念なのに物体とできるようになる。僕はここを無理やり引きはがして、人は自分の人生劇場の登場人物ではないとした。もう会わない人なら書ける。

 

ここでちょっと関わった人に、人は自分と同じようなものだとして相手を捉えることが筋だって書いたのだが、その人はそれは当たり前だと応えながら、自分にとって都合が良い恋人さんを求めているように見えた。この人にとってはそれが当たり前の世界観。これで相手を見ていることになれる。もちろん、これは否定的な叙述ではない。

 

まぁ、自分にしてくれたこと、自分がしたことだけでしか相手を語れないのは、略

分かり易い世界観だから良きとは思う。

 

 

僕は人をそういうものと捉えてない。僕を気になる人って、そういう世界が無かった人なのかなという推論はあるが本筋ではない。

 

人物評価で、自分の本当はそうでないと評価してくる人は人生上多々ある。これに対する解釈で、それを素朴な自分と合わせる必要はないというのが今までだったが、そもそも素朴な自分の人格も在って無いようなものだなとなった。

 

言語の外にあるのが自分。

 

とすれば、というか僕をどう解釈されようがそれはその人の中での僕なのだろうなという無責任で良い。違いますよ、言質取りましたよって言われたとしても、その辺は無意識がきちんとやっているはず。

 

この文脈で、誰かの中に残っていることが人の自分に対する想いの強さにする手法は悪手でしかない。人は義務に対して素朴になれないから。

 

緩い。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。