そわそわ

 

 

こうやって僕が書いている時間に車を運転している人も居るし、働いている日も居る。ごろごろしたり睡眠中だったり、もしかしたら、僕の文章を読み返している変人も居るかもしれない。ビュー数の増加の要因を考察すると、その数の人がやってきたというより、もっと少ない人がいっぱい読んでいる方がしっくりくる。

 

こういった、自分の時間だけで世界を捉えなくて良いというのは、通信技術の発達の賜物なのだろうな。現実的にリアルタイムで別の時間を観測できる。もちろん観測と実感は別物で、昔の人は想像で捉えていて、こちらの方が実感に近かったかもしれない。

 

雨という言葉。語源となったカタチをお勉強した訳ではないが、これって、天気が自分の世界だけではなく移り変わるという想像がイメージされているのではと想像している。点々はもちろん雨粒。上の横棒は雲で、縦線は雲の下の空間。真ん中は土地の境界か。そうして、その外側には雨は降っていないという文字の外の空間。好きなカタチ。

 

自分に降る雨も他のところでは降っていない。情報として知っていることと実感として想像できることの距離は随分と遠い。

 

 

さておき。

 

お喋りが過ぎたりなんだりしているが、次の試行として、「素直に生きる」というのがある。これは、「外から自分がどう見えるか」という観測網を余計に気にしないということで、素直に自分を捉えることも含む。

 

これで捉えたとき、ふと、僕は外の人より随分優しいのではないかという観測に至る。これは情が厚いとか、気遣いのクッション言葉を連発するとかではない。この性質で近いのは、先生とあだ名を付けている上司。相手の事情を想像する余裕。正解かどうかはともかく、可能性として。まぁ先生は仕事は人情より合理派だから、そこはジレンマなのだろうな。

 

だから、新人さんの「相手の解決より自分の理解(納得)」みたいな性質に当たりが強い。一生懸命誘導しているのは見受けられるのだが、きっと聞いてないのだろうなと観測している。人から影響を受けられない人は余裕がない人。

 

僕の優しいは自分の事情をほとんど放棄するくらいのものでとてもバランスが悪い。「優しい」と評されるとややこしいことになるという経験則も制限だし。大事な人だけに優しいというのは装いだと思っているし、配慮的なものは普通全世界的にあるもの。バランスを取るために、恣意的に優しさを配分する必要がある。なにせ体は1つしかないから、自分に対しても優しさを配分すべき。

 

これはただの僕の方法論なので、あまり読めるものではないのは知っている。

片面的なポジティブって何か歪だと思うだけ。自然の摂理的に。

 

という感じで、僕は優しいと評されるかどうかとは別に優しい人物ですわ、で良い。

何か返ってくるからその人に好意がある訳でもないし。観に行けるかどうかは分からないけども。

 

見ず知らずの人を個人として認知することも優しさの範疇なのか。

 

こんなことまでいちいち解放していかないといけない。

 

やれやれ。

 

本日のお風呂読書で2冊読み終わった。「シュールレアリスムとは何か」と、「香君」下巻。

いやはや、どちらも美味しかった。ご馳走様です。

 

シュールレアリスムの巌谷さん、よく喋る喋る。お話したら楽しそう。笑

ユートピア」論の、人間が機能であるという話は、これはシュールレアリスムではないということだと読んだ。超現実って現実から離れることではないし、地続きでなおかつ個人の見えるがままの世界を捉えることのはず。

 

ただ、この「機能的人間観」のユートピアって現代日本に相当浸透している。自己紹介をするときに、事務情報を羅列することとか、就活でも自分に何ができるかを紹介しないといけいない。後者はそれで良い。だって法人は機能的個人の集合体だし。でも、機能を持ってないとアイデンティティを保てないという自己観はそうとうにユートピアに浸っている。

 

年齢の若さを機能的に捉えていたり、

それよりも余白を保ち続けられるかの方がきっと大事。

 

 

これと「香君」も繋がっていて、我ながら良き食べ合わせを選んでいる。

個人的にほっこりしたのは、巻末に参考文献がびっしりだったところ。さすが学者さんという感じ。一種の論文的物語。

 

ファンタジーを突き詰めると神話になるのかな。

農作物を食い荒らす厄災みたいなバッタは聖書のイナゴ風。

 

あと、思わずいやいやいやと思ってしまったのだが、啓示を述べる神様みたいな立場で、自分が持っている情報を国民に渡して、国民自身で判断できるようにしたいという下り。たしかにこれが個人の理想形だと思うが、枠外を決める判断は自責になる訳で、そういう意味でほんとうに自分の動向を決めるってかなり難しい。

 

通常の判断って、一定の枠内でどれにするかだが、決めたことに責任が生じることを決められるのか。情報量が多いか少ないかの問題ではない。

 

機能であるか人であるか。

正しいって言われたからやったのに駄目だったから怒りが生じるみたいな精神性ではできない。

 

なんだっけ。

そわそわしているから抜けてきた。

 

 

あぁ、そうそう、憲法の本でもこういうことが書かれていて、自分で自分を決めて良い時代になってきたのかなぁという感じ。

 

そういう感じで、自分が自分であることに重みを置く人は良いのだが、それでもって他人を蔑ろにできる人はアウト。自分を人とみなすなら他人も人であるのが当たり前。嫌いだから遠ざけようとするとか。

 

素直な自分。

 

傾向がやっと分かってきた。

僕は、世の中の当たり前の出自がずっと気になっている。人は基本的に自明を前提としているけど、その自明ってどこからきているのだろうって。

 

ここを探るには古典的哲学が詳しい。時代的に退行した方が解明できるって、人はタイムスリップできる存在である。自我とか個人とかももともと人類に在った概念ではないし。

 

経済観とかも、それに価値があると浸透した自明であって、あんまり分かってない。

行動経済学の概念を読めるためには微積分の自明を要する。

 

なんでも良いけど、相手の時間を尊重できないパートナー関係は無い方がいい。

相手の時間が自分にとって自明でないと観測できるのは、別に優しさでもない。

 

お迎えに行こう。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

 

多弁

 

 

 

お喋りが過ぎるのではという感じ。

 

初めて一人暮らしの家で男三人、宅飲みしたときに、氷結で酔っぱらって「恥ずかしい」と連呼していたのと似ている。

 

何の開示が恥の概念になっているのかもよく分からない。これだけ中身を垂れ流しているのに、何処にそんなスイッチがあるのか。

 

この「大丈夫か、自分?」という感じにおいて、何か大事が起こったことはないからきっと自己規制でしかなく、これを突き抜けた先にまた拓けた所があるのかも。より自発的迷子的散策(思索)へ。

 

 

さておき。

 

やはりお刺身を挟んでいないからご飯がマンネリ気味。そのため、メイン料理の野菜に豆苗を買う。草なのにちょっとマメっぽいのが良い。サラダも好きだが、不動のベビーリーフが鎮座しているため炒め物へ。

 

副菜も和風から洋風に奇をてらって、パプリカと茗荷のマリネ。パプリカを細切りにして塩もみして放置。洗って絞って茗荷を加え、水、オリーブオイル、お酢白だし、昆布茶、砂糖を入れてシェイク。どうなることやらと思ったが、箸休めに最適のさっぱり味。冒険しても失敗しない。揚げ物用の油も常備することになったから、そろそろささみのチーズフライが食べたくなってきている。

 

 

そういえば、本日は本格的な雨。職場に置いた傘が帰りになくなっていた。この職場における傘は共有財産になっている。いつでも置き傘が溢れている。傘の共有化の提唱は昔よんだ「パイロットフィッシュ」だったか、「アジアンタムブルー」だったか。使うことでしか機能を持たない物は財産にカウントしない方が、皆身軽になるきがする。

 

専門用語だと物には使用価値と交換価値がある。この用語を知ったのは、民法の物権という分野の本。所有権が完全な物に対する権利であって、使用(利用)できるし処分(売却(交換))できる。抵当権は物を使用することはできないが、交換をするとしたらの価値を担保として把握している権利、みたいな。

 

ただ、これって今の法的感覚ではなく、もっと前の哲学なり社会学なりが発明した概念を流用しているのだよな。したり顔で。いや、ほんとうの専門家は苦難していると思うが。

 

お金は財産だが、所有していると言えるのか。

 

ちなみに刑法における窃盗罪の客体になる財物には、客観的な価値とは別に主観的価値もある。他人にとって財産価値がない物でも当人にとっては思い出の品だった場合、それを盗ったら犯罪ですよって。

 

まぁそりゃそうだろうと思いつつ、なんでそうだと感じるかって、そういう感覚が浸透しているから以上の論理的な理由はないのだよな。所有している感覚は物だけに留まらず他人とか自然にも拡がるものだし、きちんと区分けできるものでもない。

 

お昼休みにリブロで立ち読みしていると、ふと、「難しいことは何故難しいのか」という思索が起こった。難しい所以はどこか。

 

法律学が難しいのは、法が社会の動向によって移り変わるという変更可能性にある。普遍の法があるとすればそれは自然の営みと変わらなくて、人間の法なら個人個人が完全に納得する共通ルールはない。にもかかわず、法はルール付けを存在意義とする。この意義を保つために論理がある。社会が恙なく運用されるための最低限のデフォルトルールとは何ぞやという理由付け。少なくとも六法に分類される古典的な法律はそういう精神がある。

 

完全に表に出なくなるのが法の理想像なのでは。かつては道徳との一致は法を歪ませるというのがあったみたいだが、それぞれの理性としてみたら、云々。

 

個人的には人個人の方が法律学より難しいと思っている。人は社会の動向より遥かに即時的に動くし、かつて正しいことが時機によっては正しくなくなるし。人の運用を把握することは人間の能力を超えているような。自分に対しても含め。

 

この分からなさが醍醐味。

 

 

で、もっと一般的な難しさに戻して。

おそらく、自分との距離感によって区別されている。簡単だと思えることは自分の法則と近くて、難しいことは自分の素朴と離れていること。

 

もしくは、自分の方法論が情報の蓄積によって成り立っていると思っている自己観の上に、新しい情報を乗せていくという徒労を難しいと表現するとか。基本的に難しいことって採り入れられない、あるいは採り入れる価値があるというなんだかんだ自分に引き付けた言葉だと思うのだが、僕の感覚とはちと違う。

 

こういうのを統一的に把握できないかと目論んでいるのだが、なかなか難しい。

 

最近理系のデジタル的な感覚もやっと分かってきた。

理系の人の方が人に対して自分と引き付けない優しさがありそうというのは、数学がかなり恣意的に厳密に法則を限定した世界だからではという想像。適用する法則によって結果が変わる。

 

簡単なところだと、1+1の答えは2だったり、0だったり1だったりするとか。

僕は未だに分数の概念が曖昧だったり。

 

理系はアルゴリズムさえ習得できれば分かる世界。

これを習得するのが難しい。素朴な感覚とは離れているから。

 

やれやれ。

 

そうして、文系。

文系ってベン図で言うと理系の方法論に精通していない集合だから、単に識字できる人から言葉を突き詰めている人まであって、発話の空気感でうぇいうぇいが文系みたいな層もある。

 

言葉が自分の存在と混在なのかというのは1つの指標だと思う。

 

まずもって、文系と理系で人を区分けする人って、きっと国語の成績が芳しくなかったと思う。芳しい人でもそういうマウントを取るのであればそうかもしれない。

 

文系の大学を出たから文系脳になる訳でもない。

文系の学問ってほとんど情報を集積しているかどうかだから、言葉そのものを考えることがない。専門用語を覚えただけで良い。

 

どんな大学を出たとしても人にマウント取るような人格は、理系でも文系でもないただの一般人だと思う。

 

知らんけど。

 

お喋りが過ぎるな。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

 

 

 

ただただ

 

 

なんだか頭の中がとっちらかっている。

良い意味なのだが、言葉を掬うのが大変。

 

 

「12週で天才脳を養う」で、脳の中身は街のようなものだというイメージがあった。個々の建造物(記憶情報のようなもの)は道が無いと繋がらない。ここでいう道が神経回路であるとすると、記憶力は結局のところ情報と意識を繋げる道である。

 

現実世界における街並みとか、路地とかも好物。

だいたいはどこかに繋がっているのだが、あまりに込み入っていくと行き止まりで誰かの家の前に着いてしまう。不審者と通報されないかのスリル。

 

都市論とか空間論も読んでいると、現実の構造は精神の現世(うつしよ)みたいなものなのだろう。どちらが先なのかというと微妙で、双方の交信ありき。舞台とか劇場とかスタジアムも、人がそういう空間を欲したから生まれている訳で。

 

国家はどうなのだろうな。

ある程度騙しつつ保護してくれる権威に需要があったのかもしれない。

 

 

さておき。

 

本日の日記的日記は特に書くことがない。スラックスを補給したり、残業あると思わせてなかったり、色々イレギュラーはあったが、あんまり書いていて面白そうではない。

 

古参の先輩が、作業するより人と話す方がしんどいと言っていた。そしてお洒落な先輩が、それは1日しかやっていないからではという反論。たしかに昨日古参の先輩から「いつもはしない作業だから時間が早い」って独り言が聞こえてきたような。

 

僕の中では、人と話す方がしんどい説に1票。語彙が限られた中で説得したり、納得させたり、安心させたり、コントロールしたりするのはとても大変。自分の頭の中のことを理路整然と説明できない人もいるし、そうなってくるとそもそも何を回答したら良いかがぼやけてくる。あと、特にそんなことを想ってないのに共感的感情を声に載せるのがほんと大変。大変なのは理解できても共感している訳ではない。

 

作業残業がなくなってうはうはだが、もう少し試行したいところもある。まだ早くできそうだし、左手の小指に負荷が無いようにすることもできそうな。まぁ人生上無駄かもしれないが、結局のところ、無駄じゃないものってなんだろうなとも想う。何の為に生まれて何の為に生きるのかを設定することが大事だと言われるが、そんなことなくても生きて良いのがこの世の人間だしなぁ。

 

ふと観測されたシーン。人って通り過ぎた事物については大事にしないのだなって。自分とは切り離してしまう。個人的には、通り過ぎた事物こそが今の自分を形作っている訳で、切り離すことができるようなものではない。情報として忘れたとしても残っているから、人格が固有になる。

 

すごくどうでも良い話。

昨日の日記に出てきた岡山に行った日記を探したり(単語検索「鬼」ですぐ見つかる)、最近ちょっと前の日記にスキをされることが多くて、それも何書いたっけと見てみたりしていて、たまたま足跡も確認した。

 

直近1ヶ月で1300ビューってなにかおかしくないか。全期間で8000ちょいのはず。嬉しいというより何かやらかしたのではないかと若干こわこわ。この畏れ多さは、認知されることに価値をあまり置いていない野郎が認知を是とする場に陣取っている場違い感なのかもしれない。

 

恋人さん曰く、「アングラのタイトルだからでは」ということだが、タイトル詐欺で申し訳ない。僕の性質は別に陰の者ではない。陰の中で仲間を作ることも需要していないし、陽の者ともよろしくできる(もうあまりしてないけど)。

 

まぁ、一年前の日記もスキが増えている日記も、本質的には同じことばかり書いているなという感じ。ちゃんとこのいまの僕と繋がりがあって分離していない。書いたことは過ぎ去った事物ではない。

 

やれやれしながら思索パート。

 

新規情報の採り入れというか、学習について書いている人が居て、なかなか面白い。

できる人のことを分析して方法論を採り入れるとか、かなりの向上心が見受けられる。

 

僕も結構傍目から見れば学習志向が強そうだろうが、演算能力とか事務処理能力とか記憶力の向上とかは人間自体の能力というより脳の部分的な機能だから、あまり重視してはいない。これをいくら高めても人には勝ててもコンピュータには勝てない。

 

ユートピアの思想におけるディストピアみたいな世界で、人間は機能になって、時間通りに機械的に動くという話があるのだが、それと似たようなことだと思う。

 

僕の中の人間的な賢さは、単純な機能ではなく、もっと数値で把握できない「気付き」とか、問題を発見できる曖昧な能力、AIが画像認識に疎いというのもそういうことで、人間の世界は機能に分割できるようなものではないような。

 

もちろん個々の機能の総合みたいなものだから、脳トレとか記憶のトレーニングも大事だが、そのときだけしているのもどうなのだろうな。

 

 

なんでこんな話になったのだっけ。

 

あぁそうそう、この記事を読んでいて、学習の材料である「言葉」は機能なのかという問題が起こったのだった。

 

ある分野を学習するときの教材はだいたい言葉で書かれているのだが、言葉は学習している対象そのものではない。言葉を概念だったりイメージだったりで抽出した意味こそが対象である。言葉そのものを記憶したところで意味は把握できないし、意味の握持は、自己の内にその意味を掴めるとっかかりがあるかどうかによる。

 

ここにおけるとっかりは、時間をかける努力というより、内部の世界においてそれを採り入れる余白があるかどうかによりそう。

 

僕は読書家に分類される人物だと思うが、名言を収集する癖はない。

響くフレーズというのは分かる。ただ、そのフレーズだけで響いた訳がない。もっと前後の文脈とか物語全体の感じの一部。

 

言葉が対象そのものではないというのは、割と世界全体に適用できそうな解釈。

言語学とかは疎いのが、言葉で表現したら(もしくはしなければ)、存在として認識される人物像ってほんまかって想う。

 

詩作の人はそういう世界観でやっているのだろうな。

なんなら小説も、物語としての言葉と対象がずれている。

 

この間隙が醍醐味である訳で、世界は解釈と同時に観測するものではない。

この発想面白そうなので、しばらくやってみようというか、こういう世界観で生きたかったのか。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

遊び足りない

 

 

カワウソカフェがあったら行きたいな。五月蠅そうだけど。

YouTubeでコタローとハナの動画を1本観てから日記を綴り出す(もしくはもち猫、あるいは食パンのような柴犬さん)。

 

土日に作業のお仕事するのは良いが、デメリットとしては髪を切る暇がない。月1回、じんわりツーブロックにしてもらっているのだが、ちょうどそろそろもっさりしているのを失念していた。毎月1ヶ月に増える毛量ではないですねと弄られながらゲーム談義をしながら刈られる。

 

あと、仕事日は弁当という生活用のご飯で食費が安く済むから良いのだが、生活とは別の美味しいご飯を食べられないこと。基本的に金土のどちらか(いずれも)スーパーでお刺身を買って食べている。今週は次の日のお弁当のためにそうはいかないのだが、生活から離れたいつものお弁当では作らない料理を作る衝動が沸く。

 

唐揚げ用の鶏モモ肉を買ってきてフォークで穴を空け、塩コショウ、醤油、にんにく、しょうがを揉み込んで下味をつける。細切りピーマンを胡麻油ひいて鶏ガラ顆粒で炒めたあとに、肉に片栗粉をまぶし、米油を薄めに引いて焼き色を付けて、油を捨てて水をいれてアルミホイルを被せて弱火で火を通す(その間に諸々の生活作業をする)。火が通ったら肉は皿に上げ、蒸し汁にもやしとピーマンを投入し、さらにやさしいお酢、ポッカレモン、砂糖を追加。水溶き片栗粉で甘酢あんかけにして、肉にかける。

 

ポッカレモンの酸っぱさとちょっと入れただけのにんにくチューブが良い味を出している。

そしてもも肉はお箸でほぐせるほど柔らかい。そんなに時間をかけた訳でもない(待ち時間で他のことできるし)のだが、まさに生活用ではない美味しい料理になった。

 

生活用でも美味しいに越したことはないが、生活の概念だと料理だけにかまける訳にはいかないから、お惣菜を買うとかになる。お惣菜も美味しいと思うのだが、作り手の顔が見えないし作ってからの時間経過によってどうしても劣化している。たまには良いと思うが、いつもでない。あくまで個人的な見解。

 

 

さておき。

 

やはり昨日より随分と早く作業できるようになっていた。平日に作業をしていた人が、「スピード感がない」と言っていたが、そんなことは全くない。読み込み中に準備するとかExcelの挙動を学習してなるべく手順を減らすとか、そぎ落とす余地は多々あるから時間の経過が遅いとか意識している暇がない。ちょっとした個人的大発見はtabキーで表の行の最後まで飛べること。かなりの省略になった。ということは表の最初に戻るショートカットもあるはずだが、そこまでは発見できず。最後のセルまで飛べるのも、alt+tabで画面を飛ばすのを押し間違えて変な挙動しているなというをたまたま見つけただけだし。

 

すんげぇ早い人が居て、何故だろうと思ったが、おそらく左利きなことが関係しているのではという推測。コピペと画面遷移に使うのが左手だし。ただ、左利きなだけでそんなに早いのかというと、そんなこともないような。

 

頭の集中はまだまだ大丈夫そうだったがあまりに日常使っていない左手の小指が最後らへん熱(痛み)を帯びてくるし、肩もがちがちになってきて、自分の体思うように挙動されなくなってきて作業効率ががくんと落ちた。体の限界速度でやるようなことではないのだが、手を抜くと時間が遅くなるし。

 

そうして、もうこの作業、今日で終わりだから、この作業のノウハウ自体は活用できる場がない、なんてことはない。経験則を事実として捉えれば同じ作業がない以上、使えないものだが、抽象的に捉えれば、ミスをすると早くしようとしてもできないから、自分の体はきちんと制御できる範囲で動かしつつ速度を上げていく必要がある、という教訓が得られる。急いでいる気分だけでは急げない。

 

何事も抽象を抽出しようとすればいくらでもありそうだが、実体的に考えればそれが起こらないことが多いから、時間だけが過ぎたなとなる。

 

まぁこんなのは僕が低すっぺくだから(卑下ではなく、感想)で、あんまり自意識を挙動の齟齬とか意識されないのだろうな。もしくは齟齬が無いところに居られるように調整するのか。

 

2回前の日記で、面積の話を書いたが、1という長さの正方形の面積が1のままであるって、何か哲学的でないか。お風呂に入っていてふと思った。それでも現実世界における測量が問題ないということは、1は面積というより1つの単位なのだろうなって。

 

やれやれ。

 

お昼休み。もう夏だわーという日差しの下、スマホの画像保存アプリが1年前の今週の記録を見ましょうってポップアップしてくる。見ると、岡山の森の中だった。まだ1年前なのか。閉鎖された(でも通行禁止にはなっていない)、観光地的な山に迷い込んだのだった。黄色いテープが張ってあったり、ウォーキングコースで蜘蛛の巣が張っていたり。そのときの日記もきっと残っているよな。

 

時間が濃くなって距離感が曖昧になっている。2カ月が3年みたいな。

時間が濃いのは、結局のところ無意識に譲らないで意識している時間が多いからだと思う。時間が経ったという感覚は意識と次の意識の間が長くなればなるほどワープみたいになるが、そのワープの指標は社会時間における暦になるから、それほどワープはされない(できない)。

 

僕の世界線と近いところで過ごせる人は、きっとこの感覚が分かるはず。

 

 

ちょっとメタへ。

文章という作品において、メタ的な叙述は何か礼儀違反な気がする。これと同列な感覚として、何か世界に対して遠慮がある自分が在るのに最近気づいた。別に天才である訳でもないし、思慮深い訳でもないはずだが、何か当たり障りのないところに留まろうとする感じ。

 

最近は突き抜けている感じがあって、とても解放感がある。

変な話、森の入り口で誰にも分かる(と勝手に思っている)ところで足踏みするのは辞めて、もっと奥で思索上の迷子になっても良いのだろうなと。

 

それでも読む人は読んでくれるだろうし(昨日の日記にスターが付くとは)、文章としてなりたないようなことは書けないし。

 

あぁそうか、スキではないけど読むというのは、近いのか。

 

もっと早口になります。(知らんけど)

 

戻して。

 

吉本隆明さんのカフカ論で、「法的な言葉」は人を遠ざけるというのがあった。カフカさんは「変身」しか、いや「審判」も齧った気がする。税務関係の公務員だったらしい。法としての語彙は、人間を一般化させるものだから、たしかにそれを語れば語るほど個人からは乖離する。

 

まぁ学問自体がそもそもそういうものであって、統計学の本もそういうこと書いていた。あんまり統計学的見解の語彙を持ちだすと場が白けますよ、みたいな。

 

でも、学問してない一般の人も自分の経験則の中で人を一般化するのは凄いよな。習性なのか、生きる術なのか。学問は世界の見通しを拡げるために行われるが、個人の一般化は世界を狭めて省エネするためにありそう。

 

学問って実は喜劇的なものなのかも。

 

「香君」は何やらメタ的で面白い。専門的な知識がある人の意見には安心があるって、文脈上何か違和感がある。暗喩的世界観。

 

暗喩と言えば、現代詩。

静止画みたいな言葉を使う人が多い。詩って、公的な構文をずらす試みなのかな。

普通は組み合わせてはいけない言葉が繋がっている。

 

最後。

 

人間という世界観において、どういう視点が人間的か。

科学的な視点も面白いし、日常の生活感も良いのだが、僕としては芸術的な世界観が最も人間的な気がする。生存において無駄なところで遊べるところ。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

よい遊びを。

 

 

観測網

 

そもそも俺はスペックが低い―という某有名な曲の歌詞に共感を受ける1日。

とりわけ手先スペックが低いが頭も悪い。やっとこさ人並みにはなったかなというくらい。使えるようになってくると楽しい。

 

頭がしゅわしゅわする作業のお仕事。Excelシートの情報を他の所に貼りつけつつ、チェックしつつ、ちょっと考えるところもあるという、単純なだけではない複合作業。今のところ人にしかできないのだろうな。

 

派遣時代に丸形クッキーをひたすら13個ずつ詰めていく仕事を想い出す。手先スペックの低さで、周りの人の3回(5・5・3)に分けて詰める速度に追いつかない。遅過ぎる。試行錯誤していくうち、手の感覚で6~8の間を2回で詰めるという省略方法を開発した。これだと単純作業にならずにゲームみたいに楽しめるし、手の遅さもカバーできる。

 

今日の作業もちゃんと遅い。作業の手というより、確実性を重視し過ぎた。こういう作業って結局ダブルチェックがあるから、正確性をある程度保持しつつ、速さの方がきっと大事。左手の小指が鍛えられる。コントロールキーとCでコピーのショートカットになるというやつ。左手の不器用さは改善したいところなので、単純作業そっちのけで割と楽しい。

 

こういうのが苦手な人が雑談している(それでも僕より早い)。転職するならこんな仕事選ばない、病むって。僕も前半には同意だが、後半は不同意。人と話さなくても良い、自分の作業に没頭できるのがなかなかの気晴らしになる。世界が1つで良い。

 

話すことで気晴らしになるというのは、内側の世界ではありうるが、僕は外の人と話すのはとても苦手。苦手を苦手なままにしないという方針があるらしく、なんとか外向けの語彙も習得されてきたが、雑談は未だにとんと苦手。いや、これは苦手というより、しようと思えばできるが、なるべく避けたいというところなのかもしれない。

 

なんの話だっけ。

 

あぁ明日も同じ仕事だから、自分を信じて確認の手順をなるべく省き、早く終わらす試行錯誤をする。試行錯誤しているうちに仕事時間は勝手に終わっている。

 

人と話すとか共同作業するお仕事だとそうはいかない。時間の流れを合わせないといけないし、相手の中に流れている時間って時計の時間通りではないから、なんとなく非言語で捉えるしかなくて。

 

そういえば、本日の出勤の道すがら、精神の中にある空間と、物理的な風土の建築物は連動しているという思索。北欧の建築物ってかなり壁が厚いらしい。日本の住宅も断熱とか防音でそうなってきているが、もともとの風土だと街中は長屋だし、田舎だと自然と区分けが曖昧。縁側は自然と家の境界だし。

 

僕も昔は精神の中に部屋がある世界観だった。大学に入る直前に実家に自分の部屋ができて、我が城のような空間だったし、大学も1人暮らしでうはうはだったのだが、大学に近かったからか、知人のたまり場になった。

 

精神の部屋と外界の部屋が連動されて、内部に無作法に侵襲されているなという感じに疲れる。土足でずかずかと入り込んで、挨拶もなく去っていく。

 

でも、外界と内部を連動させているのは自分でしかないとなんとなく気付き、今や中に部屋はない。開放したところで、別に何も変わらない。あくまで解釈の問題。

 

本質的に1人で生きられる人だと現在の恋人さんに評された。それが淋しいみたいなニュアンス。たしかに僕は長く過ごした元恋人さんとお別れした辺りで、人をあてにした人生劇場は間違っているのではという違和感があった。そこからだいたい3年後くらいの解放感は別に1人で存在していて良いわだった。

 

誰かと生きられないことはない。あてにすることがないだけ。

あてにしないというのは、その人が居なくても良いと解釈すれば、なんとも頼りない繋がりだが、あてにしないのに一緒に居たいと解釈すれば、純粋な好意になりそうだが、いかがなものでしょう。

 

僕のことを好みじゃないけど好きだとしてくれる人が理想の人物だとしていたのはこういうことなのか。納得。僕じゃなきゃいけないより僕じゃなくても良いけど、あえて僕を選んでくれる人。

 

(選んでくれた人には運をまきます。笑)

 

自動手記だなぁ。

壁を気にしていたら書けないことだ。

 

「天才脳」で記憶するためには忘れる機能も大事だとのこと。たしかに脳の容量はともかくとして、意識で想起できる情報が動画みたいだったら意識はすぐにパンクする。ここでいう記憶が事象通りに再現できるというということだから。

 

絵の先生の動物の絵を楽しく鑑賞しているのだが、絵って現物通りに描けるものではないし、それでも現物と見えるようにうまく情報を切り落とす修練が要りそう。

 

ここからすると、脳(というか意識)の機能としての忘却って、喪失ではなく、練磨なような。無駄情報をそぎ落として、必要なものだけを抽出する。

 

これって、言語情報ではないはず。

というのも、僕は外界の情報をそういう風に捉えているからか、言語的な根拠がなく人の中身の動きを当ててしまうことがある。エンパスとも違うとは思うのだが、人の阿吽の呼吸に勝手に合わせるとかしている。

 

無意識レーダーと呼んでいるよく分からない領域。

単純作業するより、かなり脳のリソースを費やしていると思うのだが、疲れるとかはない。

あくまでただのレーダーであって、それに対してどう動くかによる。

 

あぁそういえば、どうでも良い話。夢に出てきた紫の彼岸花はこの前愛知県に行って2人で歩いている時に見つけた。厳密にはきっと彼岸花ではないのだが、形はそのものだったからそれで良き。

 

 

この無意識レーダーはあまり使わない方がいいという教訓がある模様。

呈示された情報外の観測だから高校の現代文で答案に書いたら加点はないし、現代文は文章で書かれた壁の中で読まないといけない。ノウハウが分かればできることだからできたのか。しかし、点数が増えても全く概念が増えない読み方。

 

昨日読んだ現代詩は鮎川信夫さんだった。

名前が付けらない詩ばかり書いているという感じ。

 

レーダーで読む本の感想。

 

「人間嫌い」は喜劇という括りらしいが、良識で把握される人間観を突き詰めたら滑稽になるということで、良識に対するアイロニーなのだろうな。善なる個人は存在しないのに、道徳上の善人の設定が人間の身の丈に合っていないから、そんな人物がフィクションになる。

 

「香君」。

ファンタジーの皮を被った、現在の暗喩なのではという感じがしてきた。このご時世のことを書いているような。この解釈に気付いてぶるっとした。吉本隆明さんが、カフカが「変身」を暗喩としてしか語れなかったというご時世論との癒着なのだが、だいたい当たっている気がする。

 

香りは目に見えないが存在している。

 

はい、ここまで。

 

おやすみさない。

 

みんな楽しめますように。

 

 

 

メタ的な場所

 

 

余分がほとんどない怒涛の1日。

 

 

どうでも良いメタから。

 

ここ何日かの日記、読みにくいのかなとふと思った。早口過ぎる?

まぁ、読まれることに対する感謝は標ではなく跡が付くこと(ぜんぜん観測してない)だから、読めるものになっていればそれで良い。いつもどうもです。何かの考えのとっかかりになっていれば尚良き。

 

さて、戻して。

 

朝の夢。何故か算数の計算問題が出てくる。直径と対角線が等しい円と正方形の面積はどちらが大きいのか。これって正方形のマンホールがないという知識から円の方が大きいのだろうなと想像できる。正方形のマンホールの蓋は角度によって落っこちてしまう。

 

これを微睡みの中で概算しようとしていた。今のところは脳内黒板もないし、何故か分かっている線の長さを7に設定したから計算がややこしい。三角関数にもう少し詳しければ対角線が7の正方形の面積なんてすぐ出るだろうし、円の面積も(3+0.5)の二乗×πですぐ出る。過程は省略して、もっとも分かりやすいのは、対角線と直径をルート2に設定することよな。正方形の面積は1で良いし、円の面積も2分の1(2分のルート2の二乗)×π(3.14)として、少なくとも2分の3以上になるから、円の面積の方が大きい。

 

二度寝の中で何をやっているのだ。

個人的には微積分の概念とか正規分布の意味くらいは分かるようにしておきたいところ。計算できるかより、考え方というか空間的な認知。

 

そうして、朝の身支度をして出勤。

観測対象の田んぼは植わっている稲のズレが気になっていた。課外授業で有象無象(言い方悪い)の子供が植えたのだから仕方がない。今朝、田んぼの持ち主も気になっていたらしく、調整のために長靴を履いて歩いていた。子供に自然を体感させるために所有している土地を提供できる良いオーナー。

 

 

仕事はまぁまぁお祭り騒ぎになっていて、こういう時に人の本質が出てくるよなという感じ。ストレス耐性がどれくらいあるか。僕も自分が動けばそれで良いのだったら勝手にやるが、個人で判断がつかないことが多すぎてなかなか大変だなぁと思いつつ、先輩と雑談していた。皆しんどいわなぁって。

 

「香君」との繋がりだが、人って、特にきちんとした理由付けを求めている訳ではなく、自分が納得できる理由があればそれで救われるし、正しさの後押しがあれば尚良い。それで間違ったとしても、後押しした人に責任を押し付けることができる。信仰ちっく。

 

でも、物語(神話)の効用はこういうところにあるのかも。

自分の位置が確保できる物語を皆求めている。

 

 

そうして、帰宅。

土日も仕事で切れ間がないみたい。明日は昨日までより一気に2時間早い出勤になるため、帰ってから一服する暇もない。それでも一連の流れは止めたくないから、帰ってから30分後のお風呂に入るまでに、夜ご飯と弁当兼用の副菜(春菊の胡麻和え)とメイン(鯖缶、ズッキーニ、新玉ねぎ、にんじんのオリーブオイルマヨネーズ生姜白出汁仕立て)を作り、シャツにアイロンを当てた。

 

(どうやって収めたのだろう?)

 

お風呂読書とこの硯に任せる時間とのちの通話時間を確保してなお7時間は寝られる予定。

 

しかし、これって、読書と書くことの時間をないものにすれば、かなりだらだらできるのはたしか。どんなマゾなのだと問われたら、これが楽しくいきることですわって答えたいところ。自分を使わない方が疲れてしまう。

 

 

ともあれ。

 

演劇成分の補給。ここ何日か書棚からアピールしてくるものだから、小説の読み返し枠の1冊と交代。モリエールの「人間ぎらい」。誰かれ構わず尊敬するのは誰にも尊敬を払っていないという言葉に鉛筆で線が引いてある。50円で買ったらしい。

 

シェイクスピアさんよりは読みやすそう。でもこれって、翻訳者の手腕なのかもという説。だから、台詞のフレーズを暗記する意味はない。原文ではないのだから、感じで捉えるしかなかろう。記録媒体としての脳は不正確過ぎる。

 

「天才脳」ががっつり記憶力のことを書いていて、「共通感覚論」にも記憶術が出てきて、対比が面白い。記憶術の方は頭の中に場所を作って、その場所にしかるべく保管することだとか。僕はこういうのは駄目だった。なにせ、頭の中に場がない。脳科学から見た記憶力は、こういったフォルダとしての記録ではなく、もっと全般的な脳の動的活動によるものとしている。何か新しいことを覚えるためには今までの情報との連動があるし、記憶は孤立した物ではない。

 

こういう意味での記憶力なら活性化したい。いや、しているのか。

語彙のピークは70歳という話もあってまだまだ先がある。

 

概念は運用ありきだから、定義として言葉で持っているだけでは使えない。

いや、それを持っていることで何か救われるのであればそれも良き。

 

 

刑法談義。

は、省略しよう。

 

 

現代詩。詩の先生曰く、1人の好きな詩に逢えばそこから読めるようになるとのこと。

たしかに、詩に一般的な意味を付けずに読むという所作ができてきた。これを嗅覚と呼ぶのは、結構正しそう。説明できない感じの世界の中で書かれている詩は美しいし、だから響く。

 

今日読んだ人の詩のフレーズ、全くコピペできないのだが、それがほんとの詩の読み方なのかもしれない。記憶情報としては抜けているのだが、たしかに存在している感じ。

 

記憶力の定義って「符号化」、「保持」、「想起」らしい。

一般論としてはとても分かりみなのだが、個人的にはこの枠では生きていないような感じがする。まずもって符号化を辞めたし。

 

覚えていないという感じで生きていた方がより思い出せるという感じ?

 

なにやら、非言語領域になってきている。

「最終講義」で、建築学者が、空間の観念のことを書いている。どこが外でどこが内かは国によって違うとか。ホテルは靴を脱がないが、旅館は靴を脱いで入るとか。

 

場の観念も素朴では逆に分からなくなってきている。

 

また明日。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

けしき

 

 

仕組みとか起こりを追求するよりも運用を考えるのが効率的。お金も法も。分かったところで世界の景色が変わるだけであって訳には立たない。ただの食指の方向性。でも、僕は世界の景色こそが人生劇場の醍醐味としている。

 

 

さておき。

 

何か今日はテンションが高い気がする。今週はおそらく土曜日も出勤だし、まだ木曜日だし、公私で失敗めいたことを起こすし、特に良いことが起こった訳でもない。

 

まぁ楽しんでいるであれば仕方ない。これも景色の変化。

 

昨夜、長く過ごした恋人さんの話をしていたからだろう、夢に当人が出てきた。

懐かしいとか寂しいという感情は起こらず、僕の失敗を顕在化するために出てきたのだろうなという解釈。なんというか、僕はこの人を救いたかった。でも、人は他人に救われるような存在ではない。人を救うのはあくまで当人。何かを相手に対してしたいとかという行動とは別の概念。

 

何が良くなかったのだろうなと思って当時のやり取りを想起する。

3年越しくらいで再会したとき、彼女は当時の当時、僕に奉仕するようにしていたから駄目だったから、自分にとって奉仕するような存在を求めるべきだというような方針を語る。教訓だったのだろうな。僕も曇りに曇っていた時期だったから、自縄自縛で身動き取れなかった。

 

で、同じ事象を経験した僕の教訓はちと違って、言葉はあてにならないなというところであった。世界線の分岐の構想はまだ芽のようなものだったが、あるべきように収まるみたいな感覚はあったように想われる。

 

世界線を無理に変更させると碌なことにならないと学習された。

いまはまた違うけど。

 

これでテンションが上がるはずがないが、なんというか刷新している向きはある。

 

 

そうして、本日もぎりぎりまで寝る。起きて気付く失敗。米を研いだのに、予約ボタンを押してなかった。焦りはないが、炊飯器には焦ってもらう。早炊きを素早く押す。間に合わなければ梅干しおにぎりを買えば良いし、そこまで自炊にこだわっていない。安全の中のスリルを楽しむ。

 

結局身支度整えて、ぎりぎりの出発時間から3分オーバー、炊飯器はあと1分を示していたのを無理やり止めてよそう。吸水時間が十分だからいつもより固めの美味しいご飯になった。

 

仕事では怒られ案件。あんまり引っ張らずに聞いたらええと窘められた程度だが、なんだか面白かった。もう1つは、役割をいただく案件。理詰めの統計的集計は苦手ではあるのだが、日ごろの読書の効用が出てきているのかもしれない。でも結局集計したデータをどう扱うかが経営のような気もする。

 

冒頭と同じで、見通しとか省エネになる為の道具だから、その制度自体を気にするより、それをどう扱うかを思考した方が経済的。

 

誰かの古典の幸福論(このタイトルで書いている作者いっぱいる)で、水車を使って農業を営む農夫が水車の仕組みが気になって農作がおろそかになるのは本末転倒だという話が出てくる。僕はここでいうところでは農作しながら水車の仕組みを考える人なのであてはまらないけれども。

 

現実の生活はこなしつつ、余白を作ってせっせと本を読んで言葉を綴る。余白の中で生きることが生の実感とも解釈していない。

 

昨日の勤労の義務の続きを読んだ。ベーシックインカムの否定論は、憲法学者とか労働法学者から出てきているみたい。法的な枠組みから考えれば、というか、これって働かざる者食うべからずと同じで、根っこには労働は崇高だという宗教観があるような。アリとキリギリスの童話の世界観。

 

もちろん、財源をどうするのかという経済的な観点もあるけれど、ここで語られているのはその前の話であって、政策論の手前。例えば法人税で徴収している財源を個人に分配するというベーシックインカムとか。てきとーな素人見解だが、それができるのであれば、した方が国民の財産状態は公平になるし、時間も増える。

 

法人の利潤は労働者があくせく働いているから成り立っているのであって、サイクルが滞る。でもAIができることは人に代わって良い、とか考えていくと泥沼になりそうだから強制終了。

 

僕も何も知らない。

 

でも、知らずに生きていけるというのは、先人の英知の結晶みたいなものだから、肩に乗って自分がしたいことに傾注すれば良いような。

 

 

そういえば、そろそろ演劇成分を注入したいところ。

 

演劇が何故面白いのかの言語化がでてきた。演劇って実生活とは別の世界だから、まずもって、演じられているあるがままを見るしかない。解釈はそのあと勝手にやってくる。演劇に馴れた人は解釈も同時に起こるようになるかもしれないが、これだと実生活の世界とあまり変わらない。

 

見える像と解釈のタイムラグを楽しむのが創作物全般の醍醐味だと思うのだが、人の感想文とか劇評って、ここに一致があるような感じ。漫画の感想とかもだいたいそう。あくまで自分の世界の枠組みで解釈が語られる。

 

ここで別分野を出せるのが散文の醍醐味。統計学の本で、人はそれらしい解釈を1つ見つけたら、それ以上異説を追求しない傾向があるという話があった。例示ではある野球チームがホームゲームで勝率が高いのは声援が多くて元気づけられるからだという解釈。いやいや、ホームゲームは後攻であって、後攻が得意なチームであるという解釈もあるよと。

 

解釈ってきっと世界観そのものっぽいが、こんなのいくらでも変更される。

天才脳の本で、記憶は物質的なデータではなく、新規の情報によっていくらでも可変する動的なものだという話があり、その通りと思った。アイデンティティになるとか書かれていて、おいおい予言かよと思いつつ。笑

 

解釈は1つの辻褄合わせだが、他の解釈を排除するようなものではない。

劇評だと紙面の都合で、最もそのときの感じにそぐうものを書くしかないのだが、何に焦点を当てるかによって景色はいくらでも変わる。これは過去の解釈でも同じこと。

 

そうして、「香君」の感想文。

 

獣の奏者エリン」と同じことを書いている感じ。伝承で伝わってきた訓示を蔑ろにすることによって起こる惨劇。エリンでは対象は獣だったが、今回は植物。もちろん、物語は面白く読んでいる。

 

物語については「世界の終わりまで」が考えている。物語の効用は、他の世界に移動できることみたいな。移動は逃避ではない。

 

物語によって人は人の内部に入れるというのは分かる。ここで言うと、国語の教科書に載せるべき小説は、文豪の結晶化した物語よりライトノベルの方が良いような。当時、森鴎外さんとか高尚過ぎて分からなかった。今もそんなに好きな作家でもないけれど。

 

自分の解釈の中を足せることばかり採り入れていると、人はぷくぷくするよな、という感想。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い舞台を。