仮定的可愛さ

 

 

なんだか覗き穴から覗きたいような人が居るみたいだから、不定期に更新することにした。露出癖がないことは自分の中で露呈しているのだけど、需要があるなら応えられる限りは。もちろん、需要のために供給している訳でもないけども。

 

なんだか精一杯のおねだりの気もする。これはある事象をそう仮定して前提としなきゃできない解釈だけど、この仮定という思考過程はとても便利だ。信じて断定する訳ではないけれど、思考を進めることができる。これがなければ人類はどこにも行けなかったに違いない。

 

これを書く前に1つの仮定は潰れた。潰れてよかったもの。やはり更新されると嬉しいし、中身も美味しい。すみっこに居ると思っている人格が考えている言葉の方が。

 

そういえば、伊坂さんのホワイトラビットのナレーション的俯瞰視点の言葉が読んでいて鬱陶しい。どうやらビクトルユーゴーレミゼラブルがそういう形式らしい。たぶんここの書庫にはあるのだけどまだ読んでいない。とは別に、ふと、この人が村上チルドレンと呼ばれていることを思い出した。本の師匠が村上春樹氏のノルウェーの森には登場人物以外にも言葉があるとか。そういうことなのか。と仮定してもう一回読み返さないといけない。

 

僕の中では読んだ小説って、言葉が残っているのではなく光景が焼き付いている。何で言ったら分かりやすいだろう。ハリーポッターも映画見る前に映像化されていたし、なんというか、見たことがないのに既視感みたいな。でも、これって体感の記憶を想起するときに現れる光景と何が違うのだろうというのが常々疑問。ぱっと取り出せるということはおそらくそこが自分に影響を与えているということなのだろうけど、だとすれば、現実世界であるかどうかは無関係。

 

さておき。

 

 

ここ4日くらい完全素面で過ごしてみた。素面でも普通に楽しく過ごせる。素面用の過ごし方で時間の段取りを組んで、寝られないこともないし、ストレスもない。飲んでも飲まなくてもどっちでも良いわという感じで、ほんとにこんなに楽で良いのかと我ながら思う。

 

違うところは、素面で過ごすと肉体感覚が生々しい。ヤニクラもするし、夜ごはんを食べた後の胃が消化している感じはなんとも気持ち悪いと感じる。あと、やたらと眠いし、やたらと水を飲んでいた。昼に甘ったるい缶コーヒー飲む以外では特に砂糖が欲しいとも思わないし、お酒を飲みたいとも思わないし、寝ようとしたらちゃんと寝られる。

 

むしろ、素面の時の方が現実離れしている説。勝手にシンクの掃除も合間をみてやっていたし、何かをしようとすることにラグがないの。この自動操縦感はよく分からない。主観としては見ているだけで良い。

 

あと、好きな人はやっぱり好きなのだなと実感された。幸せでありますようにとか元気でありますようにとか祈っているし、例えば添い寝の想像をしたとして、僕の腕の中では何も考えずに安らかに寝られますようにとか考えていて、お前ほんとにそんなことで良いのかとセルフツッコミを入れているくらい。まぁ安らかに腕の中で寝ていてくれたら僕は嬉しいのだろうなとは想像する。実在したらほんとに希少な時間。

 

このほんまか案件は現実世界にも波及していて。

 

今日書こうかなと思ったきっかけの出来事。

 

仕事で研修があった。内容は、自分がお客さんと応対した録音データを講師と聞きながら、これが良かったあれが悪かったとディスカッションするというもの。

 

まず、仕事どうですかって聞かれて、楽しんでいますって言った自分が居た。何が楽しいんですかって掘り下げられてもちゃんと答えがあって、システムの仕組みが分かるのが楽しいって。これに対して、歴戦の応対講師(応対専門でいろんな企業で研修をしている人)も、こんな答えが返ってきたのは初めてだと言っていた。

 

システムの仕事をしたことがあるのかって聞かれて、いやないですって言ったら、初めてなのにそんな興味をってびっくりされて。ほんとは、法律の勉強をしていて、法律も一種のシステムなのでという先もあったのだけど、ここまで話して余計バグらせる必要はないかなと自重した。これは話せなかったことではなくて、話さなかったこと。

 

まぁ確かに自分を他人事のように楽しめる人なんてそうそういない。僕だって厳密にはそうではない。

 

あと、自分の録音された声って聞くのずっと嫌だったのだけど、かなり他人事として聞けるようになっている。横隔膜頑張って高い音出せるようになったなぁとか。ただ、抑揚は全然ない。声における共感能力が全然ない。声色を合わせるとか全くやってなかった。

 

にもかかわらず、最終的になんだか相手に甘えられているという不思議。この音声データの相手は男性だったのだけど、講師曰く、相手のことをちゃんと見ている感じがするから、相手も僕のことを良い人だと思ってツッコミを入れることができるとかなんとか。

 

確かに、僕は仕事の時でも相手を個人として見ている節があって、相手の知識水準とか癖とかに合わせている節はあるけど、これが声のトーンでも、語彙でもなく伝わるって相手も超感覚を持っているのではなかろうか。

 

いや、僕はそういうことばかり見ているから、ほんとに愛想がないのかどうかはなんとなくやっと分かるけど、ふつうの人って器用なんだなぁって。そんなに鋭敏では生きづらかろうよって。誰でも良いように見られることがいちいち痛そう。

 

僕が「いい人」かという概念に対してはかなり反論をしたいところ。僕は自分がしたいようにしているだけであって、自分にとって都合が「いい人」にはなりえない。いや、なりえたときもあって、あの時代はとてもストレスだったわ。

 

「いい人」の定義が、自分のことをまるっと受け入れてくれることだとすれば、僕は観測フェチだし、自分にとってその人がどう有用かなんて無関係だから確かにそう。だけど、これだけいい人だったら、自分の要望も思いのままって思われだすと相手が調子に乗ってきてなかなか良くないことになる。

 

ところで、書き忘れるとアレだから添い寝について。僕は添い寝ってかなり好きだったのだけど、今は、刹那で良いと思う。これは、自分が想っている人と寝ているのに、その相手は自分のことを思って居なかったという事実があったからだけど、今想えば、何故双方向じゃないといけなかったのかも分からない。自分が想って居るという主観があるなら、相手のことなんて分からないのだからそれで良い。というのが今の見解。

 

研修の続きで、僕は人が嬉しいところを観測することが好きなのだと思った。音声データを聞きながら、自分の至らなかったところを挙げていったら、講師は漏れなく観測できていることがすげーって言っていたけど、そういう作法の世界であればそうなのだろうなと客観視しただけ。

 

 

例えば、人は自分が遣われた言葉通りに繰り返されると安心するらしい。僕は対話において自分が遣った言葉をオウム返しされたらそんなことは良いから僕の言葉を踏まえてなにを考えたのかを言ってほしいってことになるから、このまどろっこしさは嫌だと思うけど、安心はそうではないのかと思い、改めようとはしている。

 

要は、人って、人の話はあんまり聞けないし、自分の言葉を聞いていると思わせれば、相手の懐に入れるということ。

 

僕はこういう風に媚びてくる人は真っ先に排する対象になるのだけど。共感されない方が良い。

 

あとなんだ。

 

そうそう、この4日、自分の頭を観測していると、うごうご考えているのだけど、それを言語化しようとすると齟齬が生じた。やっぱり人って言葉じゃなくてイメージとかの非言語で考えている気がする。言語化した結果を思考としているだけではないか、それでは結局スケッチの浅瀬でばしゃばしゃ言葉を扱っているだけのような。

 

とりあえずここまで良いか。

 

僕は僕をめちゃくちゃ楽しんでいる。これは、自分がどうなるかではなくどうするかを決められるようになってきているから。

 

どうでも良いけど、波さんが自分を言語化しているより外からみた波さんはそうとう「いい人」なのではという仮定。でなくては人が集まらない。次に逢ったときはもっと現実的波さんを観察してみようかと思っている。お触り禁止で。

 

もっと色々欲しがっても良いのではないかって思わなくなくもないけど、欲してないのに在ることのほうがとても貴重に見える。

 

結論。他人も環境だ。嬉しさは原動力ではない。

 

ではおやすみなさい。