もう少し続けたいところなので連投。
ぽつぽつと毎日あるアクセスが読み足りないという信号に見える。僕は観測されることに快を感じない不感症だけど、僕が書いている肯定的評価というのはもしかしたら貴重なのかも。確かに自分が何もしなくても肯定して観測する存在というのは稀有だ。ただ、僕が肯定しているのは当人が要らないと思っている人格の部分だから、生活には邪魔かもなと思う。
たどり着くことができるだろうか。僕は勝手に観測できるから問題ないし、好意と観測とか関係は全然連動していないから、何もしてくれなくも途切れない。内側の開示はありがたいけど、もしかしたら生活に悪影響があるかもしれないと思うと、ほどほどに、とは思う。
広い世界の他人のことを気にしている人が居る。その感情自体は尊いとは思うのだけど、個人的には結構ちぐはぐな気はする。その感情は自分の為のものと気付いている人はどれくらい居るだろう。自分はそこに居ないという前提ありきの感情。それを表明するって、自分がいい人だと思いたいのだろうか、ってひねくれた僕は思う。全世界で見れば、一日15万人が亡くなっている世界で、何故、局地的な不幸にだけ心を痛めることができるのか。
ここは割と素朴な疑問ではある。痛めたい対象を決めているだけのような。あんまり心が厚いと評価はしたくない。
まぁ、Pythonのアルゴリズムについて読んでいると、人のこういう意味の偉大さが分かる。コンピュータではいちいちひとつずつ順序を付けないといけないところを、人はあたりをつけてだいたいの正解を出せるのだから。感情に順列があるというのもおかしなことだけど。
そういえば、新しい本を買った。夏目さんの人生を切り開く言葉。人生に行き詰っている人みたいだけど、僕は人生についてはどんどん楽しくなっているからちと違う。フレーズが面白いなと思って買った。説明文は全然読んでいない。自分を突き詰めるという方向性が近いなと。要は、自分が任意であるためには、ちゃんと自分を生きないといけないということという感じ。
例としては、天と親がこういう風に自分を生んだのだから、人生は自分流で生きないといけないとかなんとか。確かに。
あと、自分がしていることが自分の目的(エンド)でないことは苦しいというのもあった。これについては疑問符がちらほら。目的って本当に大事なことなのだろうか。ところで、後輩のねっとり発話する女性は、すげー意図的に立ち回っているように観測される。賢しく効率的だなと思うのだけど、この、自分が生きやすくするために他人を利用するというのが目的としておかれることにどれだけの意味があるのだろう。もちろん夏目さんが言っているエンドは自分を突き詰めた後のものだから、ニュアンスは全然違うけど。
人が環境だっていう話はここに繋がっている。天候でも良いかも。適応するか、制御するかというニュアンスがある。素朴な自分で接することができるのが内側の人だというのは理想論でしかない。相手の自由を認めるのであれば、自分は不自由になるし、であるならばそれに見合う対価を求めるのが通常。
この文脈で自分を改善しないといけないなと思うのは、相手の中にある僕像なんて貴方が決めたものでしかないよとぶっ壊すこと。なんで壊さない方が良いと思って居たのだろう。自分に制限かけてそうするってどういう思考回路なのか。今なら笑顔でぶっ壊せそう。
「いい人」像の続き。「いい人」って侮られる。時系列ではなかなか大変だった。僕の精神性は一貫していたのだけど、だいぶ傷つけられたのは確か。恋愛で言うと、おそらくいい人が自分だけに見せる内側みたいなところを求められていることは分かる。一生懸命それをやろうとしていた。でも、思ったのと違うということでフラれる。需要にこたえられない自分よ。
仕事で人格を開示してみたら、1件1件が長くなる。この人ならもっと聞いて良いだろうって。人ってちょろい。
そうして、僕に求めることがない人とはなかなかうまくいくという。この話はなかなかアレだけど、刹那的に安らげたのは確か。そうとう面倒くさい人物だとは自覚している。対価が原動力ではないから。対価になるとげんなりしてしまう。したいことをしただけでしょう。
素面期間を過ごしていて、人の原動力とはと考えた。最低限は睡眠と水分だなって。ただ、これって、原動力というよりは原材料だ。原動力って本当に必要なのか。
僕は少なくとも目的のためには生きていない。
そうそう。これを書くための前提。
お酒と言葉。
普段物静かで、お酒を飲んだ時にはよく話すと評されていたのだけど、これって、自分の人格が解放された訳では全然ない。お酒を飲んだら本性が現実化されるということだけど、言えないことは言わないし、できないことはしない。
流され傾向ではあるけれど、あくまで僕の範疇。
ほんとは人といっぱい話したいという欲求はあるけれど、汎用性のある言葉で話されたら面白くない。
このよく話すという文脈は、相手からした僕像の範疇を越えますよっていうだけであって、別にその人に話したい訳ではない。
変な話、アルコールで頭を鈍麻させないと、他人に言葉を発することができないというところまである。素面の僕は別に自分を誰かに伝えることにエクスタシーを感じない。報告できる相手が居ることなんて求めてないし。母親と通話していて思うけど、なんで人って人に報告したくなるのだろう。
つまり、ハードル下げないと書けないし話せない。その自覚は皆あると思うのだけど、買いかぶりか。
自分が自分であることの自己感も難しい。
僕は毎日楽しんでいるけど、この認識の更新は、自分が自分で気に食わないからともいえる。気に食わないから更新できる。
自分が自分であることにうじうじできることってたぶん、なんだかんだ自分のこと好きなのだろうなって思う。
スピリチュアル系の本で、素朴な自分の目的傾向は前世から来ているという見解があった。
僕は別に輪廻転生を信じてはいないけど、なんとなく腑に落ちるところはある。オカルトではなく、精神性って自分の中にあるものしか取り入れることができない。
このあるかないかってどこから来たのかというと、科学的な証明はできない。
人格って環境要因がほとんどだけど、環境とは別に自分のことを認識できる人向けに書いている。
僕の文章を読んでいる人はあくまで他人事として読んだ方が良い。
ちゃんと皆自分を生きてね。
おしまい。