素朴

 

 

今日書いたらしばらくまたしばらく潜る。とはいえ、昨日の時点でまぁまぁ書いているな。説明不足なことが多いけど、どれだけ説明しても漏れなく過不足なくなんて不可能である。でも、この不可能性があるからこそ現実が楽しいのだろうな。

 

さて。

 

読みたがっているというのは、ニュアンスがやや異なる。別に僕の文章が好みということではなく(知らんけど)、人の中身の開示を見たいとかつて書いていたから。たぶんこの手の自己解剖は好みだろうというだけ。たぶんこれを読んでいる他の人もそんな感じなのではないかと想像する。単なる読み物と言えば聞こえは悪いけど、読み物になりうるのはなかなかの量と質が要るという意味では稀有、なのか。

 

ただ、現実に現れない中身の開示ってどれほどの意味があるのか。いや、もちろん読み手は僕の現実なんて知らないし、興味もないだろうけど。日記とは現実に開示できないことを書くという定義もあるのかどうなのか。

 

僕は現実では毎日ニコニコにやにやして過ごしていて、たぶん、何も考えていないと思われて、はないか。口角上げると確かに声の響きが柔らかくなるなぁとか自分を試行錯誤している毎日。でも、この声の響きは誰かに発したことがあることがあるもの。特別な人用だった声色が任意的に遣えるようになるだけ。波さんが僕に遣ってくれた声色はどういう形態だったのだろうとか。声という音を発するのも人だと考えるとなかなか神秘。

 

とても固有に聞こえて余計に好きなった。当人にとっては単なる外用の声だったのかもしれないけど、そんなことは関係ない。

 

世界は、「どう見えるか」が全て。観測できない相手の中身なんて斟酌しようとすれば無限大の世界になる。主観的に見れば、だいたい皆素直だなぁという感じ。僕を通り過ぎて素直になればよかろうよ。

 

この文脈で、僕が何故波さんを好きになったのかと考えると、この人にとって僕は肯定的存在なのだって言ってくれたこと。共感傾向がないからこそ響いてしまった。この人の言う嬉しいは、気を遣って言っているのではなく、ほんとにそうなのだろうなと。

 

言葉を相手を利用するするために遣える人がだいたいだけど、この人はとても不器用。僕は不器用フェチでもあるのか。

 

なんだか人の日記を見ていると、とても切羽詰まってる感じがする。ひねり出してどうにか肯定的な言葉を綴っている感じ。何がそんなに苦しいのだろうって。波さんを筆頭に。当人はそんなこと一切思っていないかもしれないけど、そう見えてしまう。

 

これは夏目さんの人生を切り開く言葉にあった。人の最大の不幸は所在がないことだとか。居場所を求めるのが人。分からなくもない。波さんと夏目さん同じこと言っていた。居場所は自分で作るのだ、みたいな。確かに、居場所が確立している人ほど他人事みたいに人に同情できるし、自分を動かさなくてよくなる。

 

僕の素朴な認識だと、所在なんて別になくても良いということになっている。自分が帰る場なんてなくて良い。これは強くなったという話ではなく、人の中に自分の居場所はないと気づいただけ。ただ、この認識って、僕だからそう至ったという節もある。どういう現実的な場所であろうとちゃんと椅子があるから。これは、別に媚びて作った場ではなくて、手段としての場でしかない。

 

確かに世の中椅子取りゲームだけど、僕は椅子がないことの方が幸福かもとか思っている。

 

 

認識の更新の話。

 

あぁもうそんなに書きたくないのだろうなという感じ。

 

在るか無いかの話。僕は何十年か生きてきて、色んな人の認識を読んで来たけど、どうしても取り入れられないものは無理だし、無理じゃない認識もある。これってアプリオリなのだろうなと。

 

要は、どれだけ世界を過ごしても、受容できるとっかかりがなければ世界は更新されない、更新されない世界がすなわち大人ぽいから、なんとも言えないけど。

 

グリー界隈で言うと、全然誰も開示していないから全然美味しくないなぁ。

 

もっと美味しい言葉を求む。

 

なんでそれで自分を開示できると思えるのかはいちいち聞いてみたい。

ではおやすみなさい。