任意性

 

 

 

「人一日に千(ち)里をゆくこと能わず。魂(たま)よく一日に千里をもゆく」

 

雨月物語はとても言葉が美しくてひんやりしている。単語はまぁまぁ読み飛ばしているけど、物語の情景はだいたい分かる。人間の行間を埋める能力というのは凄いものだ。助動詞くらいはまだなんとなく分かるから、完全な素読とまではいかないけれど。

 

というか、京極夏彦さんが書き手の視点から書いていた。言葉はそもそも伝わらないものだ。これは伝えようとしたところで伝えきることはできないという意味の救いでもあり、だとすれば読み手としてどう読めても仕方がないという絶望でもある。救いと絶望はひっくり返してもいい。

 

 

さておき。

 

ねっとりと話す後輩の女性は綺麗に爪を手入れしている。なんなら塗っている。興味はないし、特に見ようともしていないのだけど、こう、なんとなく目に入ってしまう。きっちり意識しているのだなって。アイロンで毎日巻いているようにも見受けられるし。ヘアアイロンを知っているのは、かつてここにそれを使っている人が住んでいたから。

 

もちろんこんなこと言語化しないけど。無駄に好意を寄せられても困るし。あと、別に女性ばかりが目に入るわけでもない。あぁこの人ツーブロックにしたのだとか、日常から変化した違和感というか。僕もこの前ツーブロックにしてもらった。この職場ツーブロックOKだったのかということで。

 

見ていると表現するために見ようとしなければ、色んなことが目に入るものだ。もともと気づいてもあえて言わないという気質だった。そういえば、ふと、前を歩いている女の子が運動靴を履いていたのだけど、かかとの少し上の持ち手(?)の部分の靴擦れも見えてしまう。赤くなっていてとても痛そうで、変な話、そそられる。

 

僕はもっと気付かない人だったと記録されているのだけど、どうしたことだろう。なんてことはない、近くないから。近ければ近いほど注意しなくて良くなる。まぁ今であれば操作できるかもしれないけども。

 

ほんとうは、誰にも見せることがなかった赤く塗った爪と、ハイヒールで血だらけの踵を見たかったなぁとか。

 

何の話や。

 

スピリチュアルという単語を書いたから見に来たのだろうなぁと思われる人が居たから、僕のスピリチュアル観を少しだけ細かく書いておこう。自己感とも繋がるところ。

 

思考の現実化とか、引き寄せの法則とか、輪廻転生とか、魂の階層とか、在るかないかと問われれば、ないとは言わないから、信じる側寄りに見えるかもしれない。シンクロニシティの観念もある意味ではスピリチュアルかも。

 

ただ、僕はこれを前提に実践するべきものだとは思わない。なんだかよく分からない、まだ解明されていない因果を説明するための概念としてはありかなというくらい。たまたま自分が感じている現象の繋がりがそういう風に説明されているだけという意味。

 

人生は魂の修行だという説は、この一回しかない人生で自分を突き詰めるに一致するだろうし、思考の現実化は、意志みたいな仰々しい心の動きではなく任意的に自分を動かすという意味での現実化。自分で自分の動きを選ぶことが、何か結果として現実になるという意味であれば思考の現実化と説明していい。

 

引き寄せもなんとなく、現実的に説明できる気がする。運が良い人は自分は運が良いと思って居るとかなんとかも、最終的には楽観性になるけれど、楽観って一種のというか、究極の諦観のような。統計というより主観の話。

 

だからスピリチュアルなことを信じているって公言できる人が身近にいたとしたら、そんな壮大なことを前提とする前に、自分を観測した方が良いのではないかと言うかもしれない。だって、精神って内側にあるものであって、他人に説明するものではなかろうよって。

 

引き寄せで言うと。何を思ったのか、ソウルメイトが云々の本をぱらぱらめくった自分が居た。自分が好意を持つということは、相手にもそれなりの、、、みたいなフレーズがあって、いやいやいやって。

 

ただ、真面目な話。人の体は物質でできていて、60%が水分だから、月の満ち欠けに気分が左右されるというのは、信じられない人もいるかもしれないけど、割とまともな因果ではある。自分の体の物理的な機能は血液という水分が回しているし。

あと、人間は恒温動物だから、物質的な機能としてホメオスタシスがある。外界の温度が下がったら鳥肌とか振動で自分の体温を一定に保とうとするとか、暑くなれば発汗して、体温を下げようとするとか。そうして、この恒常性が精神にも通じることは、心理学的にはちゃんとした因果関係だったような。どんなに悪い精神状態でもそれが継続してしまえばそこを保とうとする経験があるかどうかで納得できるかどうかは左右されそうだけども。

 

これを前提にして発展して考えると、もしかしたら物理法則はすべて精神世界にも影響しているのではないかということになる。人と人の縁というか引き合いは、重力という法則の応用なのではとか。重力は時空を歪めるというのが相対性理論らしいのだけど、ここまでくると因果が壮大過ぎるから、直感的に納得できるような人はあんまり居ないと思う。

 

要は、惹かれるということは惹かれているということではという仮定。

 

僕は更新されない時に読み返しているだけど、それと同じことをされているのではという発想が起こると、もうほんと勝手に好きだってなる。もちろん、それが示唆されるとっかかりなんて全くない。けど、事実がないことを仮定して思考できることが人の本分。事実を基に考えるのはとても簡単なことだし。あくまで比較の話。

 

まぁ良いとして。

 

ここのところ大阪は暴雨続きで、濡れることとか、不都合なことにあくせくしている人を見て考えていたこと。

 

なんというか、天候を擬人化しているなと。この観念が、自分の生死を左右する時代だった古事記とかでは天気は神様だったことに繋がる。現代では、相手の不機嫌に影響されて自分も不機嫌になる、みたいな。要は自分に対する影響で世界を見るという視点。人ってそういうものとして観測しているような気がするけどぶっちゃけどうなのだろう。きれいごとが出てくるのだろうか。

 

天候と似た概念に環境がある。僕は基本的に環境はままならないことだと思っていて、人も環境に含まれると認識している。人は環境を改善したり維持したりすることを続けて今があるから、環境を変えることに対して欲があることは分かる。

 

けど、これを人にするってことは、人からこれをされることも不可避なのだけど、大丈夫かと。こうやって調整するのが人間関係だとすれば、僕はできないなって思った。相手を自分の都合よく調整するって、たぶんできなくはないけど、都合が悪いのが人だし、もともと都合の良しあしで物事を見ていない。僕が相手に費やしたいかどうか。

 

 

どうでも良いけど、日記を書いていない日に、縦書きフォントで書いては消したりしている。僕ではない誰かの視点で書くのはなかなか難し楽しい。これって、僕が他人のことを知らないのと同じくらいに、他人がこれを読んで人格描写がなっていないとは読めないから、好きに書いていいのだなって。この延長が小説になるのかと。僕は別に物語を構築したいという欲求はないけど、自分の中に物語があるのかどうかを知るために、こういう媒体も遣う。

 

 

自分も環境だ。この文脈はまぁまぁ難解で、自分の行動の前提になっている自分とかそこから外れている自分の影響値の統計で、自分の本当はどこかを観測する試み。

 

俯瞰している自分も居るけど、俯瞰している自分もあんまり本当でもない気がする。感情は確かにまぁまぁ本当だ。でも、別に誰かにも自分にも説明する必要はないから、特に言語化する必要はなかったりする。

 

というところで、誰かが自分について言語化したものは、どれだけよく書いたり謙遜したり悪く書いたりしても、俯瞰のその人が説明概念として書いたものだから、本心ではあっても本質ではないのよね。

 

最後に私信。

 

このままだといつか僕が貰った安らかさを物理的に抱きしめて移動する現実がありそうです。僕の安さかの中で眠って良いよ、みたいな。需要と供給の話ではなく。なので、、

 

文学フリマも楽しみ過ぎる。今のところバレない方針で妄想しています。

 

まぁ余計なお世話だし、他人の内心なんて考えたところで答えはでない。

 

自分が任意であることって、嫌われてもしょうがないっていうより好かれてもしょうがないにある気がする。どんだけ聖人だっていう意味でなく、人って自分のことを見てくれる人って貴重でしょうということ。

 

では、また、僕の主観的時間でしばらく。

 

おやすみなさい。