源泉

 

 

スーパーで信州フェアをやっていたから伊那市野沢菜の漬物(作った人の顔写真付き)と、安曇野の生そばを買った。そばは今日食べてみたけどかなり美味しかった。本日は、弁当用にセロリの葉っぱと玉ねぎと鶏むねのひき肉炒め。セロリが安くて嬉しい。この食材は実家で住んでいたら食べることなかったもの。我が家の食卓には全く出なかったもの。

 

大人は子供に好き嫌いなく食べるようにって宣うけれど、自分が嫌いな食材は使わないで良いのだからずるい。まぁ僕は給食に出てくるものも、家のご飯も食べられないものはほぼなかったから、食に対しても何か色々言われたことはないのだけど。O-157が流行った時のボイルキャベツは駄目だった。あれはまずくてしょうがない。あと、酢の物も苦手だったけど、子供が酸っぱいものが嫌いなのは当たり前のことらしい。人体にとって毒だから、と免疫学の本で読んだ。

 

別に、子供に何を食べさせるかどうかなんて一律にするものではなく教育の自由の範囲内だから、どうしようが自由ではある。サプリメントも発達しているだろうし化学物質だからどうのということでもない。天然物質も化学物質だ。

 

 

やれやれ。

 

今、割と嫌な気分なのは、昨日母親の話を書いていたからか、今日通話するハメになって自分がイライラを表現している姿を見たから。でもこれも進歩ではある。

 

最初は、大阪の感染数が増えていることに対する心配だったからありがたやー大丈夫やでっていう感じで話していたけど、ところでから始まった話がとても嫌だった。むしろこっちのほうが長かったから、やっぱりこっちがメインなのかと。自分の正当性を一ミリも疑ってない。親族関係の相続のごたごただから、まぁ分かなくもない。

 

今読んでいる新刊枠で、「女性の言う心配は自分への心配だ」みたいなことがあってなんとなくわからんでもないなと思った。ただ、男性の言う心配もあまり変わらない。心を配する自分を起点とした言葉だし。

 

でも僕はこの人が父親の亡くなった時にあった相続の際、利益相反になりかねないことをしたことを知ってしまっているから、話半分にしか聞けない。僕に名義があるのは僕が単に長男だったからだし、当時18歳の僕と16歳の妹については法定代理人として遺産分割の代理をすることはまだありとしても、姉は当時20歳だったから、分割協議をしないといけなかった。姉がそこに対して憤るのも無理はない。僕に当時法的知識があれば、相続放棄していたけども、まぁしょうがない。

 

この人は僕を独立した個人として見てないなぁって思うから、あんまり話したくない。この人は、僕が自分の味方であるというフィルターがなければ僕のことが見えない。

 

そうしていつものごとく父方の祖母とか親戚筋がどれだけ正当性がないかっていう悪口。恋人だったら味方するかもしれないけど、汚い言葉を話すのを聞きかされてどんどん不機嫌になってくる自分が観測された。別に母親が嫌いとかではなく、無駄なことに時間を使わされている感じ。

 

こんこんと、悪口を聞かされるのは嫌なんですって説明したところで、自分が悪口を言っているという意識すらなさそうだから、余計に時間がかかる。実の兄弟がちょっと反論しただけでバグる精神性だから、とてもお姫様気質なのだろう。叔父さん達も大変だ。こうやって固定化されることが大人なのかというアンチテーゼで、僕はどんどん緩くなっている。法的議論だったら負けないだろうけど、議論をしたい人でもなし。ちゃんと怒ってくれる人が居なかったのだろうな。

 

買い出しとクリーニングの回収の帰り路で話していたのだけど、最終的にちょうど家に着いたタイミングで、不機嫌な声を出して通話を打ち切った。気分は悪いけど、自分、よくやったな。その話聞きたくないから電話切って良いと聞きそうになっていたし。

 

 

沿革論で言えば、この人も自分にたどり着けなかった人で、自分を外の基準でしか判断できない。自分が役割をこなしたのだから、相手も役割を返すべきみたいな需要と供給論。何か他人の為にするということがあってもそれは、何かがいずれ返ってくるということ。いや、とってもまっとうなものさしだとは思う。でも、果たしてそこに自分は居るのかという疑問が生じる。生じない人の方がまともではあるかもしれない。

 

そういえば、昨日の恋文で僕(の文章)に飽きないのですかって聞いたのだけど、相対的関係において自分に正当性がちっともないという観念がある。

 

人はきっと自分に飽きるのだっていう悲観でもないし、飽きるべきであるっていう義務的世界でもなく、そういうものだっていう感覚。天候とかに近い。我ながら悲しい性分だと思うけど、飽きられてきた経験則だから仕方がない。いずれ人は離れていくものだという偏見。

 

人と温かい関係を構築できない可哀そうな奴だという評価は甘んじて受け入れる。他人にとって僕は必要ではないし大した意義はないという相対的ものさしにおいて自己評価は頗る低いのは確か。しかし、絶対的評価における自己感はとても高い。てきとーなところで認識を固定して世界を知ったつもりにならないこの器の中で生きられて良かったって。

 

僕が人の何を見ているのかというかという沿革の話って結局答えを書いていなかったな。

 

僕は、人の中身が好き。ただ、これって、僕の存在を通したフィルターでしかないのも知っている。要は、他人のことをもっと知るためには存在の更新が必要だということ。他人の情報が増えたところで、解釈する自分が固定化されていたらなんにも分からない。

 

でもこれを全部の人に適用していたらキリがないのは確か。自分が見えている世界が恣意性に満ちていることに気づいている人は良き。あんまり居ないけど。

 

なんで好きで飽きないかって考えてみたのだけど、俯瞰の目線があることなのかって。好きなものはしょうがないで良い気もするけど、少なくとも、自分にとって有用だからという理由はない。自分の中にも環境があるというのが良いのかもしれない。セルフご機嫌伺いの日記も好きだ。

 

ともあれ、要はこういうこと。僕は人の言葉を文字通りに信じないし、行動もきっと自分のためにやっているのだろうなと思っているから、世界の見え方がちとずれている。

 

恋文も完全に自分のためだし、お店に行ってありがとうございましたって言うのもご飯を食べるときにいただきますと言うのも、お祈りをするのも、完全に自分の任意性が要因であるという世界に生きている。

 

では、皆さんが元気でありますように。

 

おしまい。