意味論

 

 

 

引きこもり1日目終了。概念に潜る。もっと潜らねば。

 

 

朝ごはん、ほんだしが見当たらなかったから昆布茶でだしを取って、わかめとトマトの味噌汁を作った。昆布茶は万能。食べてふと思ったけど、昆布とトマトって味が似ている。うまみ成分が一緒なのか。栄養学もまぁまぁ気になるところ。ただ、栄養学が誰にでも通じるものであればとっくに万能サプリメントが開発されている気もするので、そこまで優先順位はない。自分の味覚は大事だとは思う。

 

さて。感情の原典性には続きがある。どう開拓しても出自不明な自分があるということは否めないということ。出自があるものと出自がないものをどう分けるかもとても難しいところ。

 

個人的な話だけど、僕は自分の出自はなんとなくだいたい文章化できるような気はする。僕が穏やかであろうとするのは、穏やかでない感情が渦巻く過程で生きてきたからだろうし、自分が相対的に無価値だという観念は、人は人を有用性でしか見ないのだろうなという諦観だろうし、というような。ほんと、どうでも良いところに時間を使ってきたものだ。とはいえ、この時間が僕に人を注視することを学習させたと言える。社会的空間は結局は見る、見られの関係でしかなくて、自分が本当にどうであるかなんて見られることはない。

 

という意味で見れば、表情とか行動が外向的な人の方がより有利だとは思う。僕はなんにも考えてないのだろうなって評してしまうけど。例えば交友関係の広さって要は一人一人に対する価値が薄い。友達は友達という枠であって、自分と同じ価値はない。誰も言わないから言ってみている。人を自分と同値におけることは原理的に無理。

 

そういえば、昨日喫煙ゾーンでタバコを吸っていたら、ビジネスマンの会話が聞こえてきた。

 

「曖昧な日本人が創った、曖昧な日本語だから」

 

どういう文脈か分からないけど、なかなかの至言。僕は日本語のこの曖昧さが大好物だけど、他の言語と比べて本当に曖昧なのかというは分からないところ。だって言語には文化が付着しているから単に語意だけ把握したところでその言語を扱えることにはならない。

 

たぶん、このビジネスマンが言った日本語の曖昧さは、伝達力不足か読解力不足のどっちかだと想像する。日本語の曖昧さを楽しむレベルには至ってなくて、単なる疎通不足なような。伝えたいことがあるなら言葉という道具を使うべきだし、読むのであれば相手がどういった語用をしているかを見ないといけなくて、広辞苑的な意味を振りかざす意味はない。

 

あくまで一般論で語りたいなら語義だけ見ても良いかもしれないけど。言質っていう言葉がある以上、言葉には現実としてのその人が含まれている模様。でも、そんなに厳密に言葉と自分の一致を考えて生きている人はいないという観測値。

 

発話だけで仕事していてもそう。マイルールの言葉を平気で遣うし、マイルールの中で生きていることも気付いていない。ここで想うのは言葉は基本的にマイルールでしかないということ。誰にでも伝わる言葉があるという幻想を持っている人もいるかもしれないけど、そんなものがほんとうにあるとすれば、とっくにこの世界にはバベルの塔が建って神様に届いているはずで。

 

何を伝えたいのかという本質と、それに対してどういう言葉を遣うのかが一致しない人が多い。僕はこれを一致させようとしているところはある。別に伝えたいことなんてないけど、自分の中身を描写するためにどう言葉を扱うか。

 

こういう意味では人の言葉はちっとも信用に足らないと思っている。言葉が伝えるための道具でしかないなら、そこに対応した何かと一致しないと意味がない。こういう意味で僕は言葉に対して半信半疑だから、このネット世界で生きられているのかもしれない。

 

例えば、僕が波さんを好きなのは、嬉しいという言葉と、嬉しそうにしてくれた一致が1つの要因としてある。現実的には成立しない関係。

 

この意味が分かる人はまぁまぁ自分の言葉に懐疑的な人で良き。

 

言葉が不自由だって感じる人は、言葉という道具に万能感を持っている人。

 

日本語と英語の違いって自分の呼称だろうなという考察。英語では自分は「I」しかないけど、日本語では色々呼称がある。でも、英語にも自分の固有名詞を主語にする表現はあると思うのだけど、ジェニファーはこれが好きだよみたいな。

 

僕は僕で安定しているけど、俺と呼称しないといけない時期もあってとても嫌だった。俺と呼称しなければ自我がないとみなされる。現実的に自分をどう呼称するかなんて場合によりけりだから、本質とは関係ない気もするけど、あえて自分をアピールする呼称はあんまりしたくない。

 

僕に残っている記憶で幼少期、小学生くらいの自己紹介の時に、ふいに自分のことを自分の名前に君付けしてしまって周りにやたらと笑われた記録がある。呼称は大事なんだろうな。

 

確かに集団的に関わったとき、主語は大事。

 

でも、1対1だと主語の呼称は回避できるし、相手のことも特に呼ぶ必要はないんよね。高校時代からあんまり呼称したくなかった。それから相手をどう呼ぶかについてかなり試行錯誤している。

 

個人として認識していることをあえて表現する必要があるかどうか。

 

この呼称問題は出自が不明。そもそも呼称で本質が変わるのかという疑義があるし。

 

でも、どう呼ばれるかはまぁまぁ面白くはある。敬称不要ですよって言ったとして、どれだけの人がそれを実践できるか。

 

敬称がすなわち尊重しているなんて僕は思っていないので。

 

なんでそこまで人が言ったことを信用できるのかという観念はとても気になるな。

 

 

本当は、ここから現実と観念の乖離を刑法学に寄せてという言葉があったのだけど、まだ分解し切れていないから省略。

 

はい、おやすみ。