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昨日の日記の誤字を訂正した。優性ではなく優生思想。まぁ自分の中にある汚い部分は塞ぎたいよなという感じ。類型的えこひいきは全く居ない人なんてないし、どちらかというと私的な優生観念に公的な力を持たせないということにあって、有名人が私的に何かを言うことに攻撃することではないような。

 

法の下の平等の合理的差別観はこういうぎりぎりのところにある。どうしても類型で括って扱いを変えないといけない理由と手段に合理性があるのか。この観点で非嫡出(婚外子)の相続分が嫡出子の相続分の半分という規定が違憲になったとか、女性の再婚期間が長すぎるということで違憲になったのも子供の観点から。

 

攻撃している人は出産前に遺伝性の疾患を診断することに対してはどう言うのだろう。胎児の意思なんて分からないのだから、障がいを持っても生きたいかどうかわからんよね。他人事としてはどんな命も等しく大事だって言えるけど、現実でもホームレスの人を救える訳でもないし、実際問題どちらが良いかって決められるならより綺麗な方が良いという感情が優生的観念だと思うが。

 

自分が善きことをしているという陶酔感はさぞかし気持ちよかろう。言葉の狂気的部分。

 

この文脈に安楽死とか自死の観念も連なっていると思う。命は大事だっていう雑なものさしでは対応できないもの。

 

現行法上、自死の権利があるとは言えないと思う。憲法でも、国家人の命を奪うためには法定の手続を経た上でないという規定はあるし、幸福追求権(13条)の中に含まれると解釈もできそう。だけど、これって生存を前提しているように読める。現実的行為を問題としているから。そうして刑法自殺自体を処罰する規定はないけど、自殺に関与した人を処罰する規定はあるから、完遂できた人を処罰することはできないと読める。でも自殺未遂罪がないことからすると、少なくなくとも自分だけで遂行する場合は犯罪ではないとなっていることは読める。

 

つまり、法はこれをどういう風に捉えているかについて、何も答えてない。

胎児も死人も人より価値が低いから、保護対象としているのは生存者みたいなところはある。

 

あと、当たり前について疑っていたについての補足。僕は思春期頃から、常識とか普通みたいなことが良く分からなかった。その場に合わせることはできるけど、いったいこの場を支配している基準はなんなのと。この他に枠組みがあるということを知らなかったのに違和感。

 

凄くマイナーだと思うけど、例えば母親の基準にはよく分からないところがあって、彼女の機嫌がいい時には友達の家に遊びに行ったり泊まったりして良いけど、機嫌が悪い時は何かよく分からない言葉の理由がついて遊びに行かせてくれない。家と家の距離がやたらと離れているから危険だっていうものさしなら一律に禁止になっているはずなのに、そういう訳でもないという。僕は姉、妹より読めたから、比較的に自由に遊んでいたけど、遊びにいった記録がやたらとキラキラしているのは、息抜きみたいなところがあったのかもしれない。自分の家で寝るより、祖父母宅で寝る方が好きだったのもきっとそう。

 

あと、これはあるあるルール。だれだれの方が家のことを手伝っているみたいな比較論を平気で遣う母。向けられたのは僕ではなかったけど。反論としてだれだれちゃんとこはこうなのに何故自分ちが違うのかと聞かれたら、うちはうちと返していた。これが昨日のタイトル。

 

でも、姉弟妹(この組み合わせはきょうだいという読み仮名で良いのか)を比べるということはあんまりしなかったように思う。いや、僕が一番従順だったから特に言われなかっただけかもしれない。姉は祖父に僕より頭悪いみたいなこと言われて怒だったってエピソードを語られたおぼろげな記録。まぁ祖父は戦時のごりごりの封建男尊女卑みたいな観念の時代の人だから、ありうるとは思う。

 

あと、姉曰く、母親からあんたなんて産まなきゃ良かったと言われたらしいから、母には妹も何か言われていたのかもしれない。

 

凄いと言えば凄い家だけど、ありふれていると言えばそう。生来的家族程慰撫できない対象はない。記号が付着しているもの。もう嫌だったとか良かったとかうまく分けられない。

 

姉はこの抑圧を僕に投げて、奴隷契約書なるものを書かされたものな。小学年低学年時。家に居ることが嫌だったのは、こういうところにある。まぁ姉も姉で色々あったのだろう。家督継ぐ長男の方が無条件で大事にされて、そこが嫌だったかも。とか、知ったこっちゃないけど。皆可哀そうな人だとは思うけど、僕は他人より近いとは思えない。

 

だから本心が書いてあることの方が大事だとするのか。内心ボロクソに言う人に対してしれっと笑顔で接するところを最初辺りに見てしまったからなぁ。人の怖さ。どれだけ良きにはからって貰っても、それが都合のよさでしかないというアンチテーゼ。

 

大学入って一人になってどれだけ気楽になったか。記号が付着していない関係における自分は素で良い。純粋な素かというというとそうでもなかったような気がするけどマシはマシ。

 

大学時代以降、実家に帰ったら箱詰めされる気分になると評価していた。やたらと眠くて意識がもうろうとする感じ。

 

都合のよさで言うと、確かに、人が人を良く扱うのは都合の良さだというのは分かる。でもこの都合の良さの中身が、自分がより優位であれるとか、相手を利用できるとか、相手が自分を受け入れてくれる(味方)だったらなかなかきついものがある。

 

自分が笑顔になれるからとか嬉しい気分で居られるから、だったら良いな。

 

どうでも良いけど、ここ何日か希死念慮が凄い。これって何か出自がある罪悪感かと掘ってみてみても原因が見つからない。だからと言って余計に現実化するということではないのだのけど、扱いには困る。別に死後の世界がより良きとか今よりましとかじゃなくて、この意識があることがどうしても嫌になる。意識がなくなるためには、なんらかの手段で意識を喪失させるしかない。

 

なんの原動力になる訳でもないから放っておくしかない。何か居場所があればとか守るべきものがあればどうにかなるようにも思えないし。

 

あと、これはまた別件なのだけど、自身に向けた怒りとかお叱りは、他人に対するものよりはるかに持続的だし強大だ。

 

今日仕事でありえないポカをした。出勤時間を30分間違えて普通に出勤したけど、誰も気付かなかった。電車の遅延とかもろもろの偶然が重なったのだけど、なんの咎も受けないことにも気に食わない自分が居て。これは自責ではなく、ただの怒り。普通に気付けたのになんで気付かなかったのだって。別にペナルティはつけないけど、怒りの対象が自分だった時、他人みたいに少し距離を置いて頭を冷やすことができないのはなかなかしんどいと思った。

 

でも、誰も僕が自己申告しないと気づかないというのも凄い。僕が遅刻なんてしないという実績を積んで居たということを踏まえても、僕は存在しても存在しなくても同じっぽい感。これで良いのだけど、こんなに実現して良いのかというか、仕事でそうなら、仕事でなかったら余計にそうだろうなと。

あぁ、仕事についてはちゃんと自己申告して叱られました。他人に怒られることより自分に怒られる方が痛い。他人のお叱りはあくまで行為だけだけど、自分のお叱りはもっと中身に向いている。

 

この、存在していても居なくても変わらないという観点は、他人の中にという文脈だったら良くありそうだけど、主観的にもそうなってきていて、やや悲しくなっている。

 

まぁいいや。

 

皆満たされますように。

 

おやすみなさい。