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自分の日記に悲しくなって少しだけ枕を湿らせながら就寝し、生生しい夢を見て目覚め、米を炊き忘れてスーパーで米だけを買うはめになり、半分とちょっとの月に後ろから照らしてもらいながら汗だくで帰宅した。

 

米を炊き忘れたことに対しては、お叱りどころか何の感情も浮かばなかった。僕だけが損することだからという理由を前提とすると、僕は誰にも気づかれないところで自分を害したい性質があるのかもしれない。外でポカをしたくないのは動揺することにより自分の機能が落ちることが嫌だというところだから両立はしうるのか。

 

誰かに迷惑をかけないなんて基準を設定してしまったら生きていくハードルが高すぎることになる。たぶんこの基準の中身は自分が迷惑をかけた他人からの不利益を回避するというところにあるのだろうから問題はないという邪推。不利益を被らない限度で迷惑をかけてはいけないというものさし。

 

素朴な罪悪感ってたぶんキリスト教の原罪論より前にあったと思う。それを神様に対する罪に転嫁したのでは。なんでかというと本能だけじゃない意識とか知能が生まれた時、価値を比べないといけないことになり、なんで自分の価値が他より重いのだという観念が芽生えるから。生物的には自己保存の本能は当然だけど、色んな価値の観念と比べて開き直るのはなかなか難しい。それに集団生活で相互依存して生きるしかなると自己保存という価値だけでは解決しきれなくなって、他の価値が必要となる。公共の利益みたいな。ここで集団的に生きたときに、集団全体のために自分が利にならないとなると、自分の存在は疑われるわけで。これが素朴な罪悪感の中身の1つでは。

 

あ、ここは特に原典はないです。宗教が救済になるところを考えてみただけ。キリスト教は神に奉仕することで罪を回避できるとして、仏教は修行して超越しろみたいなことなのかねとか。

 

希死念慮の出自もよく分からないところ。素朴な罪悪感とも繋がっている気がしないでもないけど、ほんとうにそうかしら。居て良いと思える場がないはあるかもしれない。これが幼少期の愛情不足というのもなんとなく。ただ、中身が安定しているということは、新しいものを中身に取り入れる必要がないから、僕は不安定で良かった。今のところ未遂も遂行したことはないし。いや微妙なところ(正直)。

 

家族の思い出で良かったことって何かあったかなと掘り返してみたのだけど、さっぱり団らんのシーンが浮かばない。幼少期は毎年旅行も連れて行ってもらって、頻繁にドライブには行っていたという外側の記録はあるのだけど、家族とのシーンで覚えているのは、父親と1対1のところばかり。といっても僕も父親も話す方ではなかったから18年過ごして交わした言語数って、かなり少ない。

 

会話で覚えているのは、僕は中学時代軟式野球をしていたのだけど、フリーバッティングをしているのを迎えに来た父親が見に来ていたシーン。1球だけ右中間に綺麗に打てたのを見ていて、自分の打ち方と同じだと嬉しそうに言っていたこと。そうして中学生の自分は振り遅れじゃないんってぶっきらぼうに応えていた。

 

あとは、小学生の高学年くらいに石垣島に行ったとき、父親と僕だけ別のコテージ、でいいのか、こじんまりしたログハウスが立ち並んでいるみたいなところで泊まるやつ。男性陣と女性陣が分かれて泊っていて、何を話したかは全く思い出せないけど、窓に這っていたヤモリは覚えている。なんで家族なのに分かれて泊ったのだろうと今やっとふと思った。

 

あと、亡くなる前夜のこと。ここも会話ないのだけど、自室から降りて冷蔵庫で飲み物を飲もうとしたら、こたつで寝ていた父親と目が合った。あれは責めていたのか、救いを求めていたのか。よく分からん。

 

こんな感じで、僕は「流星ワゴン」とか「無名」を読むと泣けてきてしまう。人格的にどうかというより枠組みで。

 

他の家族との思い出が全然発掘されないのは逆に凄いな。いちおう客観的なシーンとしてはいくつかあるのだけど、主観的に何かを感じたかというところが封殺されている感じ。

 

でも、ここに対してもっと欲しかったとかもっと姉が僕に優しかったらとかみたいな観念はない。個人は個人だし、自分の都合良くあってくれたらと言っても、その都合の良さ自体が分からないから。自分に奉仕してくれることを切望したとしてそれが叶ったら、相手の人格を殺しているのではないかって罪悪感に溢れると思う。

 

まぁなんとなく自分が家族ないし共同生活に期待が持てない理由は分かった。言語化してすっきりすることはないけど、少なくとも可視化はできる。可視化できれば調整ができるといっても、この調整あと何十年かかるやら。

 

なかなか根深いな。

 

おー、悲しや。

 

とはいえ、僕は悲しさもまぁまぁ楽しんでいる感はある。いや、悲しいのだけど、この素朴な悲しさが自分なのだろうなみたいな。どうあってもコントールできない自分が居る、みたいな。

 

だから、ここに対して悲しかったんだね、よしよしみたいなことをされると、いや違うけどってなる。共感されることを目的としてなくてただ解剖しているだけ。鍛えられた読者さんは分かっているだろうけど。

 

やれやれ。

 

あと何があったっけ。

 

合理性の続きになるのかな。

 

現代の素朴なものさしって、原因があって結果があるというか、ニュートンさんの自然科学的なものがある。結果だけで原因なんてどうでも良いというものさしもありそうだけど。

 

ここで想うのがラプラスの悪魔。これは、前提条件をすべて把握している悪魔は未来が分かるみたいな話なのだけど、むしろ、結果から逆算して前提条件が分かった気になる人が多そうな。別の悪魔。

 

無神論者がフラットに物事を判断できるかというとそんなこともなく、自分の判断の根拠に、マジックワードを使う人は皆何かの信者だと思われる。倫理とか常識とか正義とか法律とかに依拠しなきゃいけない自分はあくまで外用の自分でしかない。

 

何か一般論を語る時には確かにこういうゆるゆるのものさしに依拠するしかないのだけど、その先の自分の見解になった時に、こういう理由しか出てこないなら、特に何か考えている訳でもなかろうなと思う。

 

僕が読める文章と読めない文章の違いはこの辺にあるかと当たりをつけている。

 

世の中にはいろんな思想のカタログがあって、自分がそれに近い遠いみたいなことはあるだろうけど、まともな人間が見ているのは、カタログを踏まえた上でのその人なような。いや、そこまでの解像度で人を見るような奇特な人はきっとほどんどいない。

 

僕は元気です。

 

おしまい。

 

皆さんが夏バテしませんように。

 

おやすみなさい。