前提条件

 

 

 

「自分が大切にする人を周りに認めてもらう必要はない」

 

帰ってきて、そういえば、朝起き抜けにこれはメモっておかないと忘れるなと思って使いかけのA4ルーズリーフに書き殴ったなと見返したら書いてあった言葉。

 

これについて出勤時間に考えていた一連の思考が芋ずる式に思い出される。最終的にまぁまぁの地獄だ。

 

僕は高校2年くらいから大学1年まで1年ごとに別の恋人が居た。これはとっかえひっかえということではなく、告白されて付き合って1カ月でフラれていただけ。判を押したように繰り返される悪夢のような蜜月(いや、特に肉体的接触は大学1年の時の恋人さん以外はなし)。1年に1人というのもまぁまぁ面白い周期だ。その後は諸々もぐちゃぐちゃしているから省略して。

 

そうこう考えているときに、そういえば、僕は恋人を家族、というか母親に紹介したことがないなと思った。1か月はどうしようもないとして、その後まぁまぁ長く過ごした人も居るし、なんなら同棲していた人も居るけど、恋人は居ないで通していた。それのせいでゲイ疑惑が沸いたが。というところで何故紹介しなかったという理由で思い付いたのが冒頭のフレーズ。

 

確かにそういう面はあったと思う。客観情報で見られたら攻撃されるだろうなぁって思ったし、特にそういう儀式に意味を持てなかった。友人関係ではまぁあったけど、友人がろくでもなくて、自分の彼女の方が良い女だとかかわいいとかマウント取って来るのは鬱陶しかったな。その彼女、僕がフリーになった後、僕と浮気しましたけどとか黒歴史。僕はフリーの時は貞操観念のハードルが下がる。最後まで残っていた友人はなんだかかなり褒めていたが、これも他人の芝生みたいな感はなくもない。こういうサークルって結局凄く気持ち悪い。

 

ではなく、なんで公的な番にならなかったというかなれなかったかという言う話。僕が学生の後ずるずる試験勉強しているから身を立ててなかったという経済的要因もあるけど、我が家の家族関係に巻き込みたくないという要因も働いているような気がして。最終的には僕が決めたことだから、責任はすべて僕が負うのはもちろん。ここは後悔の話ではない。

 


いつかまだ姉と交流があった時分、恋人できたら会わせてみな、自分ならいい人かどうか分かるからって言われたことを思い出す。当時はそんなもんかーって思っていたけど、今から思うと滅茶苦茶なことを言っている。1回会って少し食事しただけで相手の本質が見抜けるとかめちゃくちゃ傲慢な視点でしかない。別に離婚歴なんてどうでも良いけど、こういうことを言っていて失敗するとはなんぞや。1人目の旦那さんしか知らないけど、とても穏やかで良い人だった。

 

女性が男を有用かどうかでしかみていないという観念は姉と妹由来なのかもしれない。妹も大学以降実家に帰るたびに恋人が変わっていて、これ誰だって思っていた。もちろん、実家に帰る周期は何年単位だから、それほど頻繁ではないだろうけど。子供も産まれて順風満帆なはずだが、これに満足できる器なのかというのはまぁまぁ気になる。

 

恋人の女友達と会食したとき、1対1の時より低く扱われるのは何故だろうという素朴な疑問もある。どういうものさしで見ているのか。

 

どういう文脈であれ、大事な人は低く表現すべきではないと思う。

言霊理論というか、言葉と行動の違いは外から違和感があるというか。

 

要は、人では満たされないということで良いのかな。僕の素朴なものさしとは随分違うから実家界隈がまぁまぁしんどいのか。人を幸せの手段とか結果にする手法はまぁまぁきつい。

 

 

思いのほか長くなってしまった。

 

さておき。

 

森博嗣さんの言葉遣いが好きなのは、あまり自分と言葉を癒着していないからだろうな。今読んでいる本は、普通のSFミステリーなのだけど、ところどころ染みる。今日読んだところだと、星は遠目で見れば浮かんでいるけど、重さを持っているから、人だってその人が囚われている重さは人それぞれで当人にしか分からないとか、自分が好きなことをすればいいけど、人に安心とか安全をもたらすようにうまく馴染まないといけないとか。

 

前文の方は、昨日の、僕が自分の根をどれだけ開示したところで僕は変わらないと通ずる。書いて人に賛同されたら慰撫される部分なんて上澄みでしかないような。賛同自体が嬉しいという感情の想像はできるけど、それで自分が肯定されるかと言ったら別問題なはず。

 

人の言葉を引用して語るのは大変。

 

ともあれ、世の中の話。

 

感染数は増えているし、職場でも透明なパーテーションが追加されて、なかなかしんどく思うのは分かる。閉塞感はストレスに直結するだろうし。僕がなんとも思わないのは「自由」のものさしが違うのだろうなというだけ。

 

枠組みの外に向かうか内に向かうか。枠組みの外が自由とすれば、スケールは拡がっていくだけでそのうち法律にぶつかる。無限ではありえない。内側であればほぼ無限に細分化される。

 

これは基準をどこに置くかにも関わっていて、個人個人の問題。

 

職場で面白い人として先生を挙げたと思うけど、向かいの席に座っている先輩女性も面白い。視点が自分じゃないの、ウイルスからすればマスクなんてスカスカよなとか、僕が感染数カウントする意味ないですよねって言ってみても普通に通じる。先生が自分は天才じゃないって言う文脈で、この人も自分はものを知らないって言うのだけど、両者とも謙遜じゃないとこが好きだ。

 

自分は無知だから粗相を許してくださいって相手に転嫁することはしないところ。

 

 

今の世の中が未経験だって思っている人は多いだろうけど、人類の歴史で見れば同じようなことはきっとあったと思うから、なにをあくせくしているのだろうとは思う。閉塞感は物理より心理の方がしんどい。

 

確かに、時代的には何かが問われているということはあるかもしれない。震災みたいな局地的なものではなく、全世界的なものだし。でも全世界までスケールをもってこの事象を捉えている人はきっとあんまり居ない。

 

どうでも良いけど、会計学の本で、「人は贅沢を学習する」というフレーズがあって、要は下限が高まることなんだろうなって思った。

 

最低限がどこにあるのかを個々人に問うているのかもしれない。

 

皆さんが一番大事なものを守れますように。

 

おやすみなさい。