分析

 

 

 

本日のご飯もなかなか。ズッキーニのゆかり浅漬けと、鯖缶とカットトマト缶とスナップエンドウの和風煮込み。粉チーズ入り。昼のコンビニカツ丼も普通に美味しかった。結局なんでもいいのかい。まぁ、ほとんどこだわりはない領域だし。美味しいという感じはメンテになる。カップ麺もうまい。続けて食べられないだけ。

 

さて。昨日のスーパーの下りを読み返したけど、なかなかの暴論。確かに、①合理的な行動とは危険を避けることだ、②スーパーでの買い物はなるべく避けるべき危険だということを前提とすればありうる1つの筋ではある。ただ、本質は僕が人の少なさに馴れて心地良くなってしまったことで目に付くからだと思われる。単純に1人より2人の方が場所を取るし、移動速度が遅くなるだけ。スーパーは目的の物だけ買ってさっさと出るものだという僕のご都合主義。

 

免疫的に見ればパートナーとなんでもない日常の買い物に行くことは息抜きでストレス軽減になるかも。慢性的ストレスが現代人にとって最大の危険であることは、報道と感染数を国ごとに比較したら明らかかも。そういうブログがあった。僕がたまたまこの環境に適応することに何の苦もなかったというだけ。

 

たまたま図書館を通り過ぎたとき、机がある読書スペースで密密だったように見えたけど、借りて家に帰って読もうと思わないかなとはちょっと不思議になった。読書は周りに人が居ない方が良くないか。

 

さておき。

 

危険の概念について。

 

僕が言葉の内在的意味と外在的解釈を想うのは、法律学において同じ単語が局面によっては違う意味で遣われているというところから。大学以降で全く法律学に触っていない人の知識水準はどの程度なのだろう。僕が高校までで覚えているのは、憲法の三本柱と罪刑法定主義くらいだけど、それほど社会科に熱心ではなかったからもう少しあったかもしれない。民事の過失責任の原則とか。相手の知識を確認せずに何か語った気になる人は自分が話したいだけで教える気はない。

 

社会的な最低限のルールの話なのに、義務教育にあまり組み込まれていない意味を考えるとなんとなく察せられるものはある。ここを最低限とするのではなく、道徳とか倫理をそこに置き換えたいのではとか。とはいえ、相手の立場を想像しましょうとか、いじめ駄目、差別駄目みたいな抽象論だった気がするから、教える側も特に最低基準というは意識できていないのかもしれない。

 

僕は、最低限は嫌悪で扱いを変えても良いけど積極的に排除するような言動は取ってはいけない、くらいじゃないかと思っている。

 

こういう意味で、危険も文脈によって色合いが違う。行動の自由とのバランスだから個人があえて危険なことをする自由はある。アルピニストとか戦場カメラマンとか。「岳」という漫画に滑落現場がたくさん出てくるけどなかなかグロテスク。

 

問題は、社会的な危険。この文脈だと危険性の程度、現実化する確率、社会的に許されている危険か許されていない危険がどうか。社会的に許されている危険は、それが社会の利益になるという意味。交通機関とか発電施設とか。夜道を1人で歩くのが危険なのは、犯罪に巻き込まれる危険があるからだけど、この危険がどの程度なのかは、1度も遭ったことがない人と経験者では随分違う。要は、危険だからするなという言は、その危険の具体的中身を論証できない限り、個人的な感覚でしかないということ。

 

今の社会で言えば、政府がなんで自粛を要請しているのか。致死率があまりに低いために法的に規制すると行動の自由を制限することに釣り合わないから、憲法違反になりうる。現代医学では対応できないのは確かかもしれないけど、感染しても社会復帰している人の方が多いはず。その点が報道されていないのだとすれば、他に何か目的があるのではと邪推したくなる人のことも分かる。国民の免疫力を低下させようとするのは何故だろう。

 

僕はたまたまマスクも出歩かないのも免疫力を低下させることではないから良いけど、人は親しい人に会うことで免疫力が向上するらしいし。あ、では僕には親しい人が居なかった説。近しくても一種の緊張があったのは確かか。相手に合わせないといけないという強迫観念が強すぎる。相手に合わないところはスルーされるし。なんか話がやたらと飛ぶって評されていたな。あんまりやらなかったけど、恋人さんにはやっていた気がする。

 

そういえば、この状況が起こりうるものだとして想像していなかったのかという昨日の言も、それは違うだろうと思った。危険はストレスのトリガーであって、より現実的にならないと発動されない。シマウマはいつライオンが自分を食べに来るか分からないまで想像していたら何処へも行けないし、実際ライオンが食べに来た時に反応できない。刹那的なストレスは危険を回避するために身体能力を向上させる。つまり、変化していない環境について何故その環境が変化しないのかを考えるのは思考経済上無駄でしかないから、変わった後に、あの頃は良かったとなる。思考はあくまで自分のために使うべきだという観念。

 

僕も別に常に危険に備えている訳でもない。そういうことはありうると想像しているだけで、何か備蓄するとか準備するとかではない。ただ、環境が変わることはどの時代でもありうるから、環境は条件というより前提だろうなというだけ。

 

人は歴史に学べないというのがなんとなくわかった。芥川さんの羅生門の時代に比べたら遥かに今の方が快適なはずだけど、あくまで比べる対象は自分がより快適だった頃。良いとか悪いとかではなく、そういうものだという話。

 

 

内在性と外在性の話。

 

世界を知るのは共有するためだっていうフレーズを見た。分からなくもない主張だけど、共有するという動機がなければ世界を知ろうとしないというのはおかしい。確かに自分が知っていることを共有することで嬉しくなるという感覚は分からなくもないけど、理由がなく知ろうとするという方向を閉じている。

 

あくまで共有は副次的な効果でしかない。主観ではむしろ自分で知ろうとしない方が人と共有できる。

 

例えば、同じ小説を読んだ時、共有される感覚はざっくり読んだというところでしかない。細かく一致しようとすればするほど齟齬が生じるから、言葉は最大公約数を選ぶ。これももちろん善悪の話でもなく。物語は個人の中に再構築されるものであって、共有とは完全に離れた領域にあるのだろうな。と、感じたのは、罪と罰で、「大家の私物」というフレーズがあって、これを単語として流すのか、私物って何ぞやって具体的に想像するのか。

 

もう一個重要な論考があったはずだけど、前の一文を書いているうちに消えてしまった。

 

すくなくとも僕は自分の世界を誰かと共有するために構築してはいない。

 

あ、思い出した。

 

人に迷惑をかけないという日本の観念も、罪悪感と同じくらい人を縛る作用がある。迷惑をかけないならば存在していいとか無理ゲーだけど、その無理ゲー的な感覚に固執している自分が居る。まぁ、歯止めにはなるだろうけど、この歯止めって自分を制限する方向にしか向かわない。迷惑の定義とは。

 

おしまい。

 

みなさん、良い夢を。