新世界

 

 

月。ものすごく夕日みたいだったのだけど誰か見たかな。もしかしたらほんとに夕日と見間違えたのかもしれないけど、8時くらいだったし太陽だったらもっと明るかったはず。橙色の月が雲から半分顔を見せていた。まぁ、誰も見てなくても僕が見たから現実である。綺麗だった。

 

それにしても野菜が高すぎた。もやしも売り切れ。昨日の残りのカットトマトと、ブナピーと豚肉でメインを作った。ブナピーって触るとなんだかねちゃっている。ぶなしめじはそんなことないのに。二日目のズッキーニの浅漬けはこりこり。

 

さておき。

 

昨日の日記を書いて恋文を送って寝たあと、何か1つ言葉に対してもう1つ知った手触りがあった。夢の中の幻かもしれないけど、漠然としたフレーズがある。

 

自分の語彙で生きる。

 

 

やれやれ。

 

どうでも良いけど、今日も帰ってから唄いながら本を読んでいたのだけど、かつて唄えなかった歌が歌えそうな感じになっている。そんなに音程高い曲じゃないのだけど、地声が低いと思っていたからなかなか面白い。スキマスイッチの奏でとか。たぶん声変わりの時期に良く声が裏返ってからかわれていたから無意識で絶対裏返らない音域で話すようにしたのだろうなという予想。特に発話を意識しなきゃならないこともなかったし。今の仕事は通話越しで声が相手に聞こえないと仕事にならないから声を出す部分を喉からなるべく離したところにする。前歯の手前くらい。めっちゃ腹筋というか横隔膜に力が入れなきゃだけど、唄うときもこんな感じなんかなと。1人カラオケ行きたや。

 

自分の声すら自分で知らなかったという話。だいたいの人は特に考えなくてもできるのだろうけど、このポンコツ具合が楽しい。声は人に伝えるものだというのが当たり前だとすれば、通る声は自然な日常会話で鍛えられているだろうなと。

 

四畳半タイムマシンブルースは、当たりだ。めちゃくちゃ面白い。最初の神話体系が世界線の話だったからか、タイムマシンが登場してもなんの違和感もない。大学のとき最初に読んだ頃の違う世界線を見ているようでほんわか読んでいる。森見登美彦さんのなかで登場人物はまだ生き生きと生活しているのだなと。

 

これ書いたっけ、美味しいコーヒーの入れ方シリーズまだ続いていてびっくりした。これはもっとさかのぼって高校時代になる。なかなか官能描写が多くて刺激的だった。僕は勉強ができないもこの中間くらいかと、芋ずる式。本気のポルノは父親が持っていたのを見つけて読んだ、あれいつだろう。別の衝撃。どういうアレかは書かないでおくけど、まぁ割とノーマルな感じだとは思う。何の話や。

 

しかし、森見さん、チャカポコという擬音語は良くない。ドグラ・マグラの衝撃を思い出す。あの本、密度が凄くて読み切れてないからなぁ。そのうちタイミングでアピールしてこようと虎視眈々と狙われている感。

 

少し真面目に。

 

昨日の迷惑になってはいけない観念について。こういう自分にこびりついたものが文化というものだろうなと。文化を日本人として括ったけど、ほんとはもっと個別的だ。自分の行動規範になる経験則の中に無意識的に沁みついているのが文化。一応迷惑にならないことについて記憶を掘り返してみたのだけど、明言されたことがある言葉ではなく、空気だったなと。内側にかける迷惑が度外視されている時点で矛盾だけど、内側でさえ迷惑をかけるなという感じだから、いつもにこにこ、はしてなかったけど、何も発言が許されない環境ではあったなとだけ。

 

この文化だけど、分かりやすいのは目玉焼きに何をかけるみたいな当たり前のずれ。こんなの自分の当たり前でないことを学習すれば良いだけだから、齟齬の調整はまぁ簡単だと思う。分かりやすくないのは、人はそれぞれ自己判断していると思っているけど、実は自分が育った文化の他律的基準のとき。これを調整しようと思ったらアイデンティティが揺らぐ可能性があるから、自分の文化を受け入れてくれる人を関係で選ぶしかない。

 

僕は自分の母親がまさに典型的だと思っている。ただ、当たり前の外も学習できているから、なんというか他律的なことに抑圧されて生きていたのだろうなとは読める。ただその抑圧を投げられた子供としては当人の精神性なんて知ったことではないという見解も分かる。

 

たしかに、どんな環境であれ似たような人と近くなる気がする。僕は自分と本当に近い人までまだ辿りついていないのではという感じだけど、段階的に考えられる人が増えているような。

 

次の本の話。

 

共同幻想論の次に狙っているのは、記号論ノーベル賞で見る経済学。

 

まず経済学からの話だけど、僕は経済学の根本にある希少性という概念を疑っている。希少性とは、人全体の欲求に対して資源が足りないということを言うのだけど、人の本質がここにあるとはどうも思えないところ。なんというか、貨幣経済を導入するにあたって、より資産を蓄えないといけない、より人より持たなきゃ幸せではないっていう観念を文化として植え付けただけのような。ここは論考が進んでいないというか、ある意味宗教っぽいからあんまり書けない。流行に合わさないと受け入れてもらえないという文脈に通じそうな。

 

 

そうして記号論

 

冒頭の方をぱらぱら立ち読みしたら、人は記号を読んでいるのだというフレーズがあった。

 

確かに、言葉も記号だし、世界の見え方も、その人がどれだけ記号のストックがあるのかというところによる。でも本当は、記号の先にある。記号で語ることも記号で考えることもとても簡単だ。何故ならどれも自分の外のことだから。

 

ここで冒頭の自分の語彙で生きるが出てくるのだけど、語彙が外在的な記号の人の言葉って全然響かない。凄く感覚論だけど、自分の内在的語彙が自分の世界を構築しているということ。何かを見た時に記号としての自然だなんだとなるか、自分の言葉でその他の自然と自分が見た自然を分けられるのか。これはその植物の名前を知っているという意味ではない。このヒマワリとあのヒマワリはどう違うか。

 

これで言うと、人の固有名詞すら記号感はある。それすら厳密に分けられないのが人の一般的世界。

 

そういえば、最寄りのスーパーで一番良い人の名札を見たのだけど〇さんだった。

 

僕の語彙で生きるというのは、記号的に世界を捉えないことにある。この記号は自分にとってなんなのだ、こんなのだということをいちいち考えることであって、自分にとって世界がどう効果があるかということとは別の話。

 

なんだか考えれば考える程自分が軽くなる。

 

感情の語彙の話もあったけど、ここまでしとこう。

 

おしまい。

 

読んでいる人の中で何か発見がありますように。

 

おやすみなさい。