まくらことば

 

 

昨日おろそかにしたからか、本日帰りの空を探してもお月様は見えなかった。ご機嫌斜めらしい。夏は好きでも嫌いでもないけど存在感があると思う。夏休みの短さとか、セミの五月蠅さ儚さとか、緑の多さとか。

 

雨月物語で「ぬばたまの」という枕詞が出てきて、枕詞という概念が好きだなぁと思った。独立した意味を持たず後に必ず同じ言葉を引き連れてくる。この遊び心がなんとも。

 

となると、夏も何かの枕言葉みたいだ。引き連れてくるのは言葉ではなく心象かもしれないけれど。

 

さておき。

 

現実的日記。ほんとに野菜が高いのだけど何かあったのだろうか。葉っぱ系に手が出ない。とかいいつつサラダ用にリーフレタスを買ったし、特に喫緊で何か問題がある訳でもない。このままこの状態が続けば、きのことかもやしとか常に値段が変動しない食材のレシピが増える。なんでも美味しいから常に1つだけにならなければ全然大丈夫。

 

どうにもならない、受け入れるしかない情報については特に調べようとも思わない。ご飯はあるものでやりくりできるし。

 

たまたま目に入ってしまったのだけどどこかの国で爆発事故が起きたらしい。火事の様子を撮っていたら爆発して巻き込まれた動画を見た。これを知る意味があるかないかって考えたとき、世界を知るのは共有するためだということを想い出す。怖いねーかわいそうだねーを共有することはできるわなって。共通話題のための情報。

 

僕はこういう情報を世界を知るとか拡げるものとはしてないからずれるのか。確かにインスタントで共有できる世界観だけど、これって共有する対象は誰でも良い。なるほど、相手を問わないのが世界か。

 

個人的には相手を問わざるを得ないところまでいったところが共有だけど。

 

ともあれ。

 

自分が書いた文章掲載されているところで、他人から見えるように読み返してみたのだけどなんとも薄かった。いつも感じるのだけどほんと伝えたいことがないのだろうなという、思想の欠陥みたいな。

 

思想をどう言語化するのかというのもなかなか難しい。憲法でいうと単純な好悪を除いた、人生観とか歴史観とかの価値観だけど、これは国家が守るべき国民の思想だから、解釈の目的が違う。素朴な文章でいうなら、何を伝えたいかという核心が思想なのかも。伝えたい核心が先にあって、それにどの言葉を当てるかという流れ。この工程を経ているとどれだけ言葉を整えていても思想がにじみ出る。言葉は思想を記述するものだという立場。

 

僕のは言葉の不自由性を自覚した上で、核心部分とは一定の距離を置きながら、ただ記述しているだけ。そもそも核心部分が欠けていると自己観測しているけど、普通に考えると確かに動機がおかしくはなる。伝えたいことがないのに読まれたことを観測する矛盾。

 

仮想として、僕のどんな言葉も聞くよっていう生身の人が現れたとしてもここで書いているようなことは語れない。これは自分を開示できないとかそういう話ではない。相手は良いって言っているのだから。そんなことがあるとしたら、僕はきっと違う語彙を使う。なんなのだろうな。

 

思想の難しさはもう1つあって、完全に素朴な思想が在りえないところ。どんな思想も今の文化と癒着している。これを固有とはできないのだけど、思想を自分の固有性に置くなら何が何でも固有だと主張するしかない。

 

というところで、素朴な僕は他人のとの距離感を物理だけに置いてない。でなければ、物理的に何も更新されない存在を好きで居続けられるはずがない。全く僕の現実を知らない人が僕の文章に好意を寄せてくれるとき、何も語らず好意を評することができるシステムに疑問。いや、この話はちと違うか。

 

なんだか安全圏で読むから言葉は良いものだという思想はありそう。ここで言う思想は憲法学寄り。

 

ほんとうに安全圏なのかというのも微妙なところだけど。

 

細胞が意志でコントールできるという研究結果があるらしく、意志は言葉だろうし、どんな言葉を読むかは人の物理に作用するかもしれない。物理世界自体が、世界は確固たるものじゃないようだとしているみたいだし、思考の物理的作用もそのうち解明されるかもしれないとなると、何が危険で安全かの基準も分からなくなる。もしかしたら、祈りの効果みたいなことも証明されるかも。

 

意識の領域は物質というより量子っぽいなとか。量子トンネル効果みたいな。

 

僕はほんとに何もわかっていない。

 

素朴過ぎて読めないかもしれないけど、これが僕の思考の中身ではある。自分にとってどうこうとはほぼ無関係。

 

では、おやすみなさい。

 

皆が他人のために祈れますように。

 

 

おしまい。