生身

 

 

本日もお月様は不機嫌なまま。僕の生活時間のついでに見上げた空には一切姿を見せないという断固たる頑なさを感じる。そんなことは許さざると、お風呂から上がったタイミングで明日のごみ出しをすることにして無理やり会いに行った。湿度が低いからか気温が高くても風が心地良い。少し歩きながら夜空を見上げてきょろきょろしたけれど建物が高くて見つからない。やはり駄目かと引き返したら、やっと居た。全盛期よりはちょっとほっそりしているけど輝きが半端ない。恋しさは光量を増やす作用があるのかもしれない。

 

「こんばんは、綺麗ですよ」と声をかけておいた。

 

綺麗に見えるということ自体が人格の発露だ。人格の定義も難しいけれど。これも近代憲法学というか政治学由来っぽい。曰く、成熟した判断能力をもって自律できる抽象的な人間という立場。パスカルさんの「人は考える葦」にも通ずる考え方。これはそんなに長くないから原文全部読んでみる価値はあると思う。遡れば為政者にとって人は思考しないモノだったのだろうな。そんなちっぽけな存在ではなかろうという言葉。

 

抽象的人格観も人はこういう存在だということを前提としてルールとか世界観を構築していこうという指標だから、素朴な人格論とは違う。個人的にはどう考えているかというより何がどう見えているかだと思う。外から見て人の思考は読めないけど、視界はまぁまぁ所作から読めなくもない。

 

 

そうして、具体的な今日の話。

 

日差しが強いと影が濃くなるのだなぁってしみじみ公園の木漏れ陰を見ながら歩いていた。子供がシャボン玉遊びをしていて、映るプリズムが綺麗だし、お弁当も美味しいし。今日も楽しい。

 

仕事は暇で、雑談がちょくちょく聞こえてくる。先生が今年は何もしなかったし早くこの年が終わって、なんなら2020年は来年やり直したいって発言していて、賛同の笑いが起こる。僕も笑ってはいたのだけど、おやとも思う。向かいの席の人は亡くなった人には申し訳ないけどって半笑いで言う。

 

たしかに一般的感覚としてなかったものにしたいのは分かる。いろいろ悲惨な経験をした人も多いだろうし。ただ、ここで言っているのはあくまで主観のこと。個人的には1年も空白にするのはもったいなくて無理だ。

 

この辺りから人が何をもって現実としているかがなんとなく見える。自分の現実と環境の現実が混同されている。こっちの方が夢と現の間を生きているのではないかという疑問が芽生えなくもない。今日と昨日の陰の濃さの違いを見分けられる方がリアリティあるような。

 

となると、現実とか生活って個人の人格を薄くするものだろうなという結論に至る。確かに、どういった文脈においても素朴な自分が自由になる観念ではないし。ただ、素朴な自分の人格で人はどこで生きているのだろうとは気になる。もちろん知っているけども。要は、社会における立ち位置としての現実とか生活であって、セミの抜け殻積みあがったのを見て、あぁ収集癖ある子供が集めたのだろうなって感想が出てくることではない。

 

少なくとも物理的世界の話からは離れているのが現実感。

 

ということは、やはり非現実よね。

 

最終的には、人はどれだけ生きようとしたところで現実では生きられないのではないかという問いかけになる。もっと言えば、どうあがいても完全に自律できないし、世界の構造も把握できない。胡蝶の夢は本質を捉えているかも。自分が夢の中で蝶になって遊んでいたけど蝶が見ている夢が人間としての自分なのかが分からなくなるという話。

 

別に自分の存在価値がどうのという話でもなく。そんなのは誰かに決めてもらうものではないし、それがないと生きていけないものでもないし。別に僕は誰に価値を置かれなくてもいいけど、当人にとってどうですかというのが気になるだけ。

 

四畳半タイムマシンブルースもそろそろ終わる。タイムパラドックスも、人間が時間に影響しているという恣意的な視点じゃないと起こらないのだろうなという思考とは別に、明石さんと主人公がうまくいけばいいなとひやひやしている。そっけないフェチ。

 

時間も時間なので。

 

どうでも良いけど、文章の書き方をちょっと変えてみている。一文はなるべく短く、接続詞はなるべく書かない。なんというか伝わるように整えるという試み。伝えたいことがないのに何が伝わるのかというと、僕の素朴な人格しかなかろう。僕がどういう風に世界を見ているのかの追体験としての文章。

 

評価するのであれば良いとか悪いとかではなく、自分はこう見えていますという表現が正しい。

 

自分の思想とか他人の思想を類型するのはリア充がやってくれと思う。

 

本日考えていたのは、言葉って規定するものなのか言葉によって規定されるものなのかということだけどなかなか難しい。史学は言葉にあんまり重きを置いていないのだろうな。発掘した物質があってそれをどう表現するかだから。だから、自己表現として言葉がある人もあまり言葉に重さがない。そもそも言葉に重さがあるのかどうかというのは気になって当たり前だけど、言動一致に価値を置く人がそれほど居ないのは、そもそも自分の中で言動が一致していない人が多いからかもしれない。

 

言葉の道具性。

 

ただ、自分が発した言葉に自分が規定されるということはありうる。自分は駄目なんだって描写してしまうと、その言霊に縛られる。ということで、僕は自分の文章はまぁまぁ好きだって自画自賛していく。特に昨日の冒頭文は良かった。

 

別に褒めて伸びる人物ではないけど、否定で縮む人物だから自分だけは自分のことを否定しないようにしようと思う次第。この絶対的評価とは別に相対的にはどうなのだというは常々気になるところ。

 

おしまい。

 

ちゃんと現実の美しさを捉えられますように。