ぱらどっくす

 

 

綺麗だと声をかけたのに帰り路ではやっぱり居ない。お風呂前にも外に出てみたけど姿を見せてくれない。お風呂上りにもう一度行ったらやっと。赤みが差していてなんぞツンデレかよと。声はかけないでおいた。オレンジのお月様もとても綺麗。23時だから夕日とは見間違う筈がない。

 

今日の陰はあまり濃くなかった。きっと薄い雲が張っていたから。おそらく木陰とビル陰は色合いが違う。柔らかな吸収と完全な遮断。葉っぱがなんで緑なのかと問うことははずれていて、何故緑に見えるのかという問いがほんとう。色自体は光の波長でしかない。いや、僕もまだあまり分かっていないけど。

 

何を問うのかも人格の水準の話だろうな。

 

さておき。

 

僕は自分の文章にそれほど人格は乗っけてない、という話は置いておいて。

 

四畳半タイムマシンブルースは読み終えた。良かった。

タイムパラドックスへの疑義も綺麗に収めてくれたし。アカシックレコードみたいな感じ。人がタイムトラベルしたところで、それも加味して宇宙は決まっている。ただ、人は自分の未来を知ることはできないから、決まっていようが関係ない。

 

これはなんだか運命論ちっくな考え方だけど、結構好きではある。決まっているのだから何もしない人でも決まっていないから何かする人も現時点では等価。なんにも分からない。

 

現時点から遡った過去の自分との相違は比較対象にできるけど、未来の予測値は測れない。もちろん、社会が今後どうあるかっていう不安みたいなところはあるだろうけど、それで自分がどうするかという文脈が全然ない。

 

もう、自分がどうあるかというのを決め切ってしまった人が大人なのか。疑問。決め切った世界では何をもって楽しさとするのか。たぶん余暇になるのだろうけど、僕は自分の立ち位置が決まってしまった世界ではきっと生きられない。

 

人は人を記号としてしてしか人を捉えらないことはこれだけ生きてきたら知っている。けども、そこには囚われたくない。たぶん僕はきっと、まぁまぁ良い記号ではあると思う。どういう記号が当てられているかは知らないけど。

 

 

記号論はまだ読んでいないけど、ここで言う記号は自分があくまで主体として他人を見るという意味。自分にとってどうであるか。他人が自分と同等の人格を持っているとみなしていない。あくまで、自分を主体とした世界観。まぁネット世界ではこういうのが剥き出しにはなるだろう。

 

良いとか悪いとかの話ではなく、そういう風にしか捉えられないというだけ。自分に対して好意的な見解を評する人は嬉しい存在だから、肯定的に評価できる。

 

ここのポイントはあくまで自分が主体だということ。そりゃそうだ。主体的でなく人を観測できることなんて、自分を確立している人では無理。

 

なんだか、ここから考えると、僕の言葉だけを楽しむことは僕の生身を度外視しているという恣意的な読み方をすることが僕を認めているのかというのはやや気になる。文章だけで人のこと見るなら、当然生身への連動があるような気がするのだけど。

 

ここの生身がないから好意を持てるという感覚自体が、まぁまぁ怪しい。だって言葉を発しているのはあくまでも生身の誰かだから。

 

この電子世界で、どれだけの人が言葉を綴った人は生身の人だと生々しく察せられるのか。

 

だから基本的に普通の人は言葉の他人事性はとうぜん分かっている。僕も分かってる。ということは、自然にその人が扱っている言葉も他人事的なのだろうなと思う訳で。僕はこういう文脈で、僕だけに遣ってくれた言語非言語を求める訳。

 

うむ、メルヘンな思想だけど、こういうピンポイントな一致がないと共同生活はできないかもしれない。

 

固定的人生の中では生きられない。

 

 

では、ここに書いていることは他人事ではないと自分を構造分析できますように。

 

おしまい。