突き詰めて

 

 

概念に溺れる快楽。僕は変態だ。

 

新刊枠でビブリア古書堂の事件手帖の第2シリーズを読んでいる。電車の中で読んでいたからもうすぐ終わるけど。あんまり時間の流れを感じない。一応現実的時間は流れていて、登場人物の経年についての描写も書かれている。僕はいったい物語で何を読んでいるだろうと思ったけど、ふと思う。たぶんこれが作者の意図なのだろうなと。この物語の主人公はあくまで本であって、本の中身は経年で変わることはない。

 

本の虫の子供が出ているのだけど、本の虫の描写のところで、なんとなく、本の師匠の子供を思い出した。一度だけこの部屋にやってきてご飯をふるまったことがある。確か、冬の日で夜はトマト缶で鍋を作って、朝は味噌汁を作ったような。あんまり定かではない。汚らしいキッチンでこんなに美味しいご飯ができるなんて魔法みたい、と賞賛とも侮蔑ともとれる言葉を賜ったのは覚えている。

 

すくすく育っていれば良いな。今何歳だっけ。言い回しが好きだった。

 

僕はなんだかんだ小さい子には嫌われない。おべっか使わないし、発話もそんなにしないのだけど、目線が同じようなのがバレるからかもしれない。この段階で蟻の観察も楽しそうだと思っているくらいだし。基本的に若ければ若いほど現実的今には近かろう。

 

結局免許の更新はできなかった。どうやら完全予約制になっていたらしく、ほんと自分のことについてはどうでも良いのだな。まぁどうせ更新できるまでの期間を延長しないといけなかったし、更新できたらできたで時間が余計にかかるから結果オーライというくらいの寛容性がある。

 

汗だくになりながらごてごてした街並みを歩くのはとても楽しかった。誰かと歩くことはできない道のり。自分の体調は分かるけど、どれだけ近くても他人の体調は分からないから、熱中症のリスクがあるところで付き合わすことはできない。

 

リクガメ専門店とか焼き肉屋とかリラクゼーションマッサージとか、道々が楽しい。汗をちゃんとかいていれば大丈夫だろうなぁと思う。Tシャツ一枚だったら汗かいているのまるわかりだけど、シャツを羽織っていたから、涼し気だったはず。

 

学校の校庭を横切ったとき、軟式野球の試合。部活じゃなくてリトルリーグなのだろう。部活であればあんなに保護者が居るはずがない。僕のは部活だったけど、あぁいう風にこじんまりした身長で、自分の体の動かし方も分からないままへたくそにやっていたなぁと。

 

部活の時に熱中症になったことと、ある時お酒を飲んでノックダウンしたことは通じている。視界がモザイク調になっていく感じ。完全にモザイクになった時に倒れる。これって外界の影響というより内部の話だった。自律神経の方。中学生時分で狂っていたのかと思うのとやや驚愕だけど、今思っても窮屈だったのは違いない。やたらと眠いとか寝てしまうも普通にストレスだし。

 

 

道々で思ったのは、どこに行こうが何をしようが、思い出がこびり付いているなぁということ。これを重いこととするか、自分の価値とするかは人それぞれ。僕はどっちでも良い。

 

いや、思い出としてこびり付くのが出来事か。

 

僕は自分の時系列にあったことは全部今の自分に含まれているから、思い出として切り離しきれない。分けて分類する筋も当然あるとは思うけど、分けてどうなるのだという気もする。かといって全部生生しくしたところで。

 

知らなくても良い世界があるという説も良いけど、ほんとうは知った後でも綺麗なのがほんとの世界ではという説。そもそも、自分の考え方が歴史に構築されたものだと知らず自分の固有のものだと思って居る。だから、誰かの見解と自分の見解が分けられない。これもありうる生き方だと思うしあまり細かく指摘するつもりはない。

 

まさに僕のこと。ほんと窮屈だった。曲折してきたからまだ僕はもともとの自分に辿りつけていない。一般教養なんて知る必要がないし、物語は消費するものだしという括り付けから離れられてやっとスタート地点。

 

有用なことしか収集しないという感覚は、古典経済学の水準。

 

本気で自分の思想を知ろうと思うなら、史学とか心理学とか哲学を学ばないといけない。短歌だと百人一首か。百人一首もいずれ読めるようにならねば。俳句も詩もそうだけど、非言語領域を表現するのは難しいだろうなぁ。

 

でもそもそも、正しさを疑うことができるためには、反面教師が必要な気がする。僕にとっては母親だった訳だけど、母親が依拠していていた正当性もだいたい分析できた。自分がこうしたいじゃなくて、世界がこうあるからという理由付け。正直気持ち悪いけど、まぁ家族通念は難しいし。今となっては相続放棄してさっさと離れたら良かったと思う。だってここの繋がり、家族である条件以外にないもの。

 

同性の兄弟が居たらちょっと違ったかもしれないとは思う。兄でも弟でも良いけど、味方が居れば世界線を変えられたかもしれないなぁって。

 

ほんと、過去の自分にはむかついてしょうがない。

僕だけが父親の死を止められた可能性があったのにと。むかむか。

 

変態性のこと。

 

試験勉強をせこせこしているけど、僕は情報を自分の知識にすることにちっとも価値を置いていない。内側に収納するため。

 

ただ、これを頭の中で遊ばせることができることはすなわち誰かに説明できることだから、あんまり変わらないような気もする。

 

 

要は知ったかぶりで語る人はすべて嘘として良い。僕の時系列そういう人がいっぱい居たけど今は居なくなった。大人になったら分かるよって適当にごまかすのって、要は自分を言語化できてないということ。

 

僕の変態性は、ここまで生きていてきても試行できること。自分の確立した何かなんてない。

 

もっと細かく書きたいところだけど、書いたら読めなくなるだろうからやめておく。消費税の概念が気になって租税法の次の本を買ったとか。

 

世界はすべからく面白くあるべきだけど、この面白さを追求するためには自分が面白くなければならない。

 

はい、おしまい。

 

皆さんが自分を試行できていますように。