言語化についての考察

 

 

水シャワーがぬるま湯だ。体温を冷やす効果があまりない。とはいえ恒温動物だからこそ外気の温度は変化させた方が良い。恒常性の機能は使われないと不具合を生じる。汗をかいた分水を飲む。

 

なんだか、解釈を遊ばせるのは良いとして、自分宛てだと感じることも良い。ただ、言語化するというのは良くない。昨日の私信みたいなのは朝一で消した。夢は今まで出てきたことがない人と見たことがないシーンの中で関わっていた。

 

英文の物語と翻訳がセットになっている本がなかなか見つからない。ブックオフと最寄りの古書店に寄ってみたのだけど。ブックオフにはそれらしき本が一切ないし、古書店の方は英語だけのものはたくさんあったけど、希望通りのものはなく。そもそも目的は情報源の言語を増やすということだから、辞書を買ってネット上の英語の科学記事を翻訳して読みこむのが一番早そう。翻訳AIを使う気がしないのは正確性ではなくそれでは自分の中に残らないから。特定の情報だけその場限りで読めたらよいという目的であれば誰かが翻訳したものを読めば良いのだろうけど。

 

自分の世界が狭かった時分だと、自分が何もしないでも吸収できる。幼少期に自分の体験だけしか世界とできないことは死活問題だから。世界についての情報量が少な過ぎるから、あらゆる情報を使えるかどうかに関わらず留めておかないといけない。という意味での映像記憶なのだろう。ある程度世界が確立してしまった後にはそうはいかない。世界を拡げる生存欲求がないから、自分がしたことしか残らない。これが意味記憶への転換なのだろうな。

 

世界に対する疑問とその回答も、ただ誰かに問うて答えを得れば良いということにはならず、既知の世界との整合性が問われる。完全な新しさは望めない。だって完全に新しいことに対しては拒絶反応が起こるから。異論は認める。

 

 

さておき。

 

今日の自分はなにやらテンションが高いように見受けられた。何か吹っ切れたというより、鼻の調子が良かったからかと思われる。僕は後鼻漏なので鼻の奥がつっかえて声が出しにくいのだけど、今日はそんなことなかったから。他の原因もありそうだけど解釈は何かを変えるわけではない。好きな人への執着がちょっと薄まったのかもしれないし、そうでもないかもしれないし。

 

お弁当は暑い中公園で食べる。会社の空調で体が冷えたのを温めるという意味もあり、休憩室に押し込められて食べたくないという意味もあり。鳩ポッポがチュッチュしている光景があったのだけど、仲睦まじいというより、相手の口の中にある食糧を奪い合いしている切羽詰まった感がありほほえましくは眺められなかった。決してカップルへの嫉妬ではない、はず。

 

煩悩からの解放は仏教のテーマだけど、僕はそこまで修行をする気はない。というより、世界の拡張欲求はある意味煩悩の極地だろうし。最終的には何の意味もないことを分かりながらもがくのだから。

 

村上さんとのリンクについて。ここでいうリンクは共通項というよりはタイミング。ここ何日か個人的に世界の言語化について考えていたら、今日読んだ章に言語化することを諦めたというニュアンスの言葉があった。昔の村上さんだったらなんとか言語化しようとしただろうにと思うとやはりすっきりしてそうだ。

 

具体的には知り合った女性の醜さを言語化できないという下り。色々絶妙なので原典を読むのが一番。例えば、村上さんの妻はこの女性と頻繁に会っていてもなんの心配もしていなかったとか。女性の自意識の描写が。

 

本題は物語とは独立して気になったところ。美しい女性は一括りにできるけど、逆はそうはならないというフレーズ。確かに一般的にはそうなりそうだなと。今に合わせたら、例えば目力メイクマスク美人とか個別化できないし、醜さの方がそれぞれにはなる。

 

これをトルストイのアンナカレーニナの幸福な人生は一括りになるけど不幸なのはそれぞれだに合わせて語っていた。トルストイはまだ読んでいないから僕の中ではさん付けにならない。

 

美の普遍性といえばカントさんの判断力批判なのだけど、この美が人の造形に適用できるのかというと微妙だし、そもそも美観で時代を越えるものってそんなにないという説。

 

僕は絵画では風景画が好きなのだけど、これって自然が普遍的に循環しているから。でも自然を美しいと思えるかどうかも、ある程度自然を他人事にできるように制御したからだと思う。雪を綺麗だと思うのは雪が降ったら死活問題になる環境で生きていないことによる。家で温かく過ごせるからこそ。

 

人体の美醜も、時代の流行りというか文化によるような。僕はたまたまこの時代に生まれたから特に不具合はなく過ごせているけど、例えば男は屈強で肉体労働すべきみたいな原始時代だったら醜いと評されているかもしれない。女性の美も、細身で小顔が流行っていたとしても、平安時代とか江戸時代では醜いかもしれないし。

 

要は、本当に普遍的なところは見てくれではない何かだろうなということ。

その美観が連綿と続いているのは凄い。ここになってくると美は人に対して問答無用に訴えることになるから、視覚情報とは少し離れてくる。

 

美は定義付けられるものではなさそう。

だからこそ言語化しようとしたのがカントさんの判断力批判なのか。なるほど。

 

言語化っておそらく対象と言葉がイコールで結ばれるようなイメージなのだろう。だから、自分の言葉が拙いと認識する。僕はどれだけ詳細に自分の世界を描写したところで一致できないという説だから、言語化は単なる馴れのレベルだと思っている。

 

言語化しないと意味がないのも分かるけど、この意味の中身とは。個人的には法律学もこの水準で思考できるようにならないとなと思っている。なぜ約束を国家が保障するようになったのだろうかとか、犯罪になぜ認識が必要なのかとか。今日は時間がないのでここは省略。

 

つまり、言語化の本筋は知識とか出来事を語ることではなく、自分の語彙で語ることができること。なんでここにこの単語を入れているのですかって聞かれて理由を言語化できることと言い換えても良い。人格と言葉の癒着を離すことでもある。

 

あぁ1つ分かりやすいのがあった。

 

平等について。平等の観念は今生きている人ならだいたい持ち合わせているだろうけど、平等とはなんぞやって言語化できる人はきっと少ない。どうやらソクラテスさん由来らしい。

 

「等しきものは等しく」

 

この語意からして操作性満載なのだけど、平等を語る人の恣意性が分かる。平等という観念自体には何の意味もなくて、何を等しくするかは判断する人によりけり。

 

で、憲法論はどうでも良いとして、素朴な括りで例えば男女。自分が含まれていない属性に対して攻撃的にできるのは、それをしたところで自分には返ってこないからだろうな。男は、女は、若い者は、みたいな括り。人一般では括れないのは、これで括ってしまうと自分にもブーメランになる。これだと確かに差別はなくならない。だって、生存本能として自分が誰かよりはマシであると思いたいのが人だろうし。そのためにテレビがあるのかも。

 

相対的な椅子取りゲームはどこまで行っても不毛だと思うけど、それを辞められるように継承できないのが人である。戦争もなくならない。

 

母親がサイコパスなのか、一般的なのか知らないけど、祖母が亡くなった後のことをやたらと語って来る。これはきっとえこひいきの話だ。

 

あんまり暗いのも良くないのでもうちょっと美の話。

 

好きな人の手の美。僕は個人的に脚フェチでもあるから、画像的に細くてそそるなぁとは思うのだけど、これはあくまで一般のこと。手の造形としては、主観的にはちんまりした手が好みなのだけど、どうも問答無用に綺麗だと感じる。1つの説明としては、この手が美味しい文章を綴ったことに対する尊敬みたいなものがあるのかもとか。感謝が美に繋がるってありうるか、どうだろうだろう。

 

これもあくまでえこひいきの話だけど、えこひいきした対象について語るべきで、しなかったことに対して言語化するのはちょっと違うような。

 

自分にとって有用かどうかでしか語らない人の言葉はだいたい淀んでいる。

 

ではでは。

 

外気に負けないくらいちゃんと生きていますように。

 

良い夢を。