できるだけ嘘はないように

 

 

 

花柄マスクを見かけた話を冒頭に持ってこようと思ったけど、書いてみて全然面白くなかったので省略。

 

思考という文字がやたらと目に入る。思考を文章化すると現実化するというタイトルの本があった。だいだい合っている。ただ、これは文章がちゃんと自分になっている必要がある。何かをしたいとかどうなりたいという結果は単語として書けるかもしれない。ついでに願いとか。でも、その過程が文章化できないということはそこまで具体化されていないということだから、文章がそれほど現実的ではない。思考の現実化という考え方は煽り文ほど大したものではなく、無意識の顕在化くらいな意味。当然のことながら人が1日でできることなぞたかが知れている。基本的にはいつかの為の思考であって未来の自分の理想化のために今をどうするかという素朴過ぎる考え方である。

 

こういう自在性を獲得するための手法が昔は宗教で今は啓発本か。

獲得したところで突き詰めないとよりブレるだけのような気がするが。修行が足りない。

 

さておき。

 

素朴な自在性。昨日書いていた、いずれ買うだろう本は今日買ってきた。「人間 この未知なるもの」。著者はアメリカの外科医でこの時代に合わせて書かれた本ではなく、この時代に合わせて再翻訳された1900年代の本。まだ冒頭の方だから中身にまで至っていないのだけど、科学的な知見から人間を学問するというコンセプトは鳥肌もの。目次を読んだ限り精神にも及んでいくみたいだからとても楽しみ。ざっくりした人間観ってこういう考えた人の上澄みをさらって自分の価値観としているだけなのだろうとずっと思っていて、人間が一番分からないだろうなとものさしがある。

 

人は人の一部を見て容易く人柄を判断するけれど、それって自分すら容易く判断していることに等しい。僕の場合、変な話、たとえ僕が自分の全てを誰かに開示しようとしたとして開示し切らんだろうなというくらいの人間観がある。

 

そもそも人の存在って必然的に変化が内包されている。悪く言えば当然経年劣化もあるし、より洗練されていく部分もあるし。何をもって相手を個人と特定できるのかって考えていくと難しい。

 

より洗練されるという部分も、勝手にそうなるということではなく、意志か義務が必要。

 

僕の時代の先代とか先々代には大人という義務的規範があったのだと思う。特に地方だったから、嫁は料理とか家事ができて当たり前とか、男子厨房に立ち入らずとか、先祖を大事にするとか。

 

先代の女性って無理やり料理を習得させられたのだろうなと思うと、確かには母親はそんなに料理が得意というか好きだったとは観測されない。それでも作ってくれたのだから凄いとは思う。僕が料理をし出して料理方法はどんなんだろうと観察しようとしたら何見ているんだってびっくりされた。

 

まぁ僕の料理のもともとの原動力は、1人晩酌のおつまみを自分で作るという邪念的意志であって、自分も含めた誰かの体の為にどうこうではない。たこわさを自分で作ってみるとかやっていたなぁ。今はほとんどルーティーンだけど、これは誰かにも流用はできそうな気がする。好みと体調を踏まえて献立を考えるのは楽しそう。必要そうな栄養素はこれだけどこの味駄目そうだから味付けとかで工夫してみるとか。

 

これは愛情ではなく変態の領域である。本当に在りそうな世界線で困る。専業主夫だったらマッサージとかも勉強しそう。結局どの枠で生きても楽しむ変態。

 

 

ともあれ。

 

人の変化可能性という存在論とは別に、社会的には肉体の檻の中の個人として普遍的(不変的)なものに押し込めないと社会が回らないというのも分かる。刑法学の話だけど、刑法に触れる行動をした人がその後に人格を内的に改めたとしても犯罪行為は罰しないといけないし、社会的現実化と人の内面は別物としないといけない。何故なら社会的秩序が保てないから。

 

で、社会的秩序というのは最低限の網であって、この網を感情論にする必要はない。犯罪者であれば攻撃していいっていう観念とか。犯罪行為が罰せられることと犯罪をした人が自分より劣っているかは連動されるものではない。

 

という認識が更新されてから刑法を読むととても面白い。犯罪を面白がっているわけではなく現代の犯罪観みたいなところ。昔は骨格で犯罪傾向が決まるという説すらあったらしい。けど、その人が生きてきた環境で情状酌量するのであれば、人は環境によって犯罪を犯すこともありうる。のであれあれば、環境を整えるべきであってその人の犯罪行為を罰する必要はないという考え方もありうるし、人が何故罪を犯すのかは、何故社会がそれを犯罪としているか表裏一体。

 

人間がどうして形成されているのかが更新されたら覆りそうな学問。ただ、誤解してはいけないのが、人が素朴に悪いことだということを罰する方向性ではなく、国家という最大に暴力を駆使できる権力が罪をどう決めるかということ。人を殺して正当化されることは国家にしかできない。死刑はあって良いのかどうか。

 

 

やれやれ。やはり法学界隈の話は文字数が増える。

 

 

「烏に単は似合わない」は、おそらく恣意的に書いているのだと読めた。読んでいて景色が心象風景で出てくる。桜の描写は鳥肌が立った。小説から風景を楽しむものであって、登場人物の心を読み取るものではない。

 

 

凄く俗っぽい話から入る。子供に悪影響だからという根拠で表現を規制しようとする人が目に入ってきて、自分はもう子供じゃないのに何を言っているのだと思う。影響の定義にはグラデーションがあって、メディアから受けたものをトレースしてしまうというのはあるとは思う。皆が読んでいる漫画のポーズをマネするとかなんとか。僕も傘でアバンストラッシュとかはやっていたけど、スカートめくりとかタッチとかH2とかGTOの女子の下着とかを覗くような人って周りに一切いなかった。

 

確かに、僕が中学生くらいの時にも悪影響論がテレビで流れてきた気がする。これって変な話、自分がたやすく外部情報に影響されるから子供もそうだってっていうことに等しい。もっと言えば、子供は大人に迷惑かけるなみたいな自己中心的思想が読めてしまう。情報統制が一番人を制御しやすいし。保護したいという愛情とは別だと思われる。自分が見たくないからかこつけている感じ。

 

フィクションと現実の違いを自分の言葉で説明できないから、もっと大きなものの他責にしたい。

 

 

最後。

 

こういう表層的なものではない影響論。

 

影響って、自分が自覚できる範囲のことだと認識されているかもしれないけど、潜在意識にはいちいち響いているとして良い。響きは波。言葉は発話だと波だとわかりやすいけど、文字を読むのも自分の中では運動であって、何が自分を決定しているのかは自分すら分からない。

 

現実的に言っても人が動くことは空間に波を起こすし。

 

という細かな影響を考えると、僕も自分が存在しているだけで世界に影響を及ぼしている。世界に対する影響は度外視して良いとしても、僕の文章を読んでいる人の潜在意識には確実に影響はしているはず。

 

ここまで突き詰めば、もはやどう存在感を失くそうとしても存在するだけで場所は取らざるを得ない。

 

では、皆さんが自覚的な自分でありますように。

 

おやすみなさい。