怒りのメカニズム

 

 

 

 

仕事中、雨が降ってきて、あぁ再洗濯。まぁしょうがないか。帰り道でも降っているだろう、これもしゃーないと思ったら何故か止んでくれて、夕焼けちょっと前の真っ白なお月様を眺めることができた。自然は不都合でご都合主義だ。

 

ということで、本日は怒りを発散されたので怒りに対する考察。きっと誰も良かっただろうにこういうどうでも良い他人(客)のすら響いてしまうのは何故だろう。ここを切り離すために考える。もっと他のことを考えることに頭の領域を使いたいから。正味他人に怒りをわめき散らす人の人格なぞどうでも良い。

 

たぶん世界を知るための修行の一環なのだろう。

 

順を追って。

 

まずは、怒号に対するトラウマというか経験則。母親の怒声がとても嫌でこういう時は耳をふさいで嵐が去るまでじっとしておくしかなかった。ただ、これをこのままにしておけばずっとここは避けないといけない。ここからちょっと進んで、僕は人の感情に疎い、至らなくて申し訳ないということになった。共感的声色も出せないし。さらに、あしらえない自分のスキルと知識の至らなさ。

 

ただ、もっと考えると、怒ることができる人の本質はここではないのだろうなに至る。母親と今日の人の共通項として、立場上相手に投げても返ってこないという前提がある。今日の人も自分が優位である立場なことを滅茶苦茶主張してきていた。

 

ところで、僕はあまり怒ることができない。これは怒ったところで自分が気分が悪くなるだけだし、それで世界は変わらないという体験の積み重ねがあるから。ただ、幼少期の思い出で、自分が怒ったエピソードがある。ドラゴンクエストⅤをやっていたら妹がスーパーファミコンを蹴ってしまってセーブデータが消えてしまったこと。これまでレベル上げとかストーリーを進めた努力が理不尽に無駄になったことに対して妹に怒りを投げた。最終的には何故か復活したというオチ付きだから覚えているのかもしれない。これって妹がやってない自然現象だったら誰にも怒れなかったから、たまたま現象の発端が怒れる人だったというだけ。別に妹が僕に構って欲しくて蹴ったとかというツンデレ要素はない。

 

 

そうして、良いトシして他人に怒りを剥き出しにできることって、そういう手法で成功体験があったからだろうなというのがまず1つ。感情を剥き出しにされると弱い立場の人は引くしかない。あと要求を理性的に言語化できない癇癪と一緒だろうなということ。しかし、これだと、僕に響く理由にはちょっと弱い。

 

最終的に考えたのは世界に期待することができる割と楽観的な人格なのだろうなということ。お客様は神様理論と通じる。ただ、いい大人だから期待も変形していて、自分がこれをしているのだから、それに見合った対価が返って来るのは当たり前という思想。経済学と通じているのか。この繋がりが過小な義務と過大な権利だと怒りになるのだろうなと。料金を払っているからってその商品は作れないし、税金を支払っていても国家のシステムは構築できない。

 

要求を言語化できずに感情を投げて察しろよという丸投げ。期待があるならちゃんと理性的に言語化すりゃいいのに。伝達手段として無茶苦茶非効率だと思う。

 

ここまで考えてくると、そういう人は異星人みたいだから自分の世界に現れるときになってしまうということで良いかとなる。僕は世界にも他人にも特に期待をしていないから、嬉しいことがあったら勝手に嬉しいし、悲し寂しも勝手なこと。よくそこまで世界に期待できるものだとびっくりしてしまう。

 

でも、こういうのがとても人間だとも思わなくもないからやっぱり気になってしまうのだろうな。

 

そうして、好きな人にはこういう文脈で怖がらせたのかと思うと、やはり僕の罪は重い。ごめんなさいという機会も作る気はない。勝手に観測できていれば好き。人という読み物だけど、僕のことも一瞬認識してくれたからそこは忘れない。

 

あーやっとすっきり。

 

これぞ思考の醍醐味よね。人の悩みのほとんどは自分が世界と連動しているところにある。捉われると世界の変化に気づけないし、無駄に思考時間が費やされる。

 

今日立ち読みした啓発本でも自分が見ている世界は自分が造った映像だという説があった。これもほんとは特別なことではない。世界という自然は理不尽で変えられないけど、世界に対する認識はいつでも変えられる。

 

 

やっと自分に戻ってきて。

 

やはりトピックは演劇入門と人間の本。

 

演劇の福田さん面白い。福田さんと言えば高校時代の(省略)。演劇とは感情の儀式かなというのは先取りだけど、お葬式という儀式の話があった。儀式的に故人を悼むけど、その後の思い出話を語る飲み会はある意味お祭りみたいなものだよなとのこと。僕は別にこれらの儀式で自分の悲しみが昇華された気は一切しないけど、個人の感情を社会化する手法としてこういう儀式があるということであればなんとなく分かる。

 

個人的な観測として、父親が亡くなったほとんどの原因を担っているだろう母親とかそれに加担していた妹とか姉とかがお葬式で泣いている時に、良く泣けるものだって冷静にみてしまった18歳の頃とあまり感覚が変わらない。

 

これは別にこの人たちが感情的にサイコパスだということではなく、儀式の中でしか自分の感情が発露できないということではありうる。演劇の起原は人が日常で剥き出しにできない感情を出せる場を虚構として提供するということにあるのかもしれない。

 

だったら音楽とかもそうだろうな。

 

そうして、人間論。科学は発展してきたけど人間自体は全然発展していないということが書かれていて、確かになーと思う。科学の発展と人間がどうなんだという学問がアンバランで都合の良さしか認識できなくなっている。

 

 

最後。

 

僕が自分が楽しんでいることばかり書けるようになったのは、ちょっと誰かさんの知見も加えてなんとなく分かった。

 

嬉しいという感情は人にとって共有というか共感がしにくいから。というか、僕の嬉しさを容易く共感したと認識されてもなんか嫌だし、悲しみだったら余計に。

 

自分とは連動していないと認識できる人しか人の嬉しさは感知できないような気がする。

 

では、寝ます。

 

自分で在れるとは言わないまでも楽しく生きていますように。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。