自分とは

 

 

 

帰り路、猫が見えたから道順を変えた。別に触る気もなかったしこのルートで見える景色のため。日常を細分化して見れば、世界はどれだけでも拡大できる。烏の森からはだいぶ離れているのに一羽のカラスさんが途方に暮れているように見えた。綺麗に整えている一軒家なのに玄関先の石積みの真ん中に草が生えていて、きっとこの植物は綺麗な花を咲かすのだろうなと想像される。人の意思は細分化されたところにあるという仮説。

 

少し遡って、見上げた空に天空の城が収まりそうな積乱雲があった。見える姿としては平らだけど、遠すぎて高さが平らに見えている。見える像と本当は全然違うなぁって、頭の中で、模型として地球と雲の高さと視点を考えていた。こういうモデルケースで考えると人はちっぽけだ。距離の近さ遠さも、自分の体の基準でしかない。それだけちっぽけな視点だとしても雲の美しさ面白さは変わらないというのが人間。

 

そういえばカラスの羽って黒だけじゃない。油脂が凄いのかどうかしらないけど、よく見ると青みがかっている。

 

場所の固定化という観念も、社会的な場ならともかく、物理的な宇宙スケールでいうなら地球の位置は刻々移動しているし、公転で宇宙の位置として同じところを周回している訳でもないから、なんというか、考え方次第。

 

自分の肉体という場という観念でも細胞水準で考えれば昨日の自分と今日の自分には同一性はない。こんなの詭弁だって思うのは当たり前。とすれば、自分の不都合は自分で決めているものではと返したいところ。不都合であることがアイデンティティ

 

それはそれで良かろう。

 

さておき。

 

ちょっとわかりやすいところから。今日立ち読みした本。怒りをあしらえるような手法のヒントがないかと思って、話術の本をちょこちょこ読んでいる。自分が賢く見えるような動機は全くなくて、もっとうまく話せたらなという意味。そうして、説明とは相手の既知と説明したいことを繋げることだというフレーズがあった。なるほどと思ったけど、こんなの説明したいことがないということを除けば普通にやっているから問題ない。人と話すためには語彙を合わせなきゃならない。自分の語彙に合わせろよでも成立はするけれど。

 

ただ、ここでピンときたのは自分が何かを習得する時のこと。自分に対する説明と類似性があるだろうなと。知識は誰かに話せる前に自分に説明できなきゃならないだろうと。アナログ直感野郎だから、自分が直感的に読めればいいけど、読めるだけでは分かっていない。

 

もっと考えると、そもそも自分の中に渦巻く感情とか想起を自分に説明できるのかとなる。自分に説明できないことが他人に理解されるはずはない。ここはあくまで、理解されたいという衝動があるのであればということだけど。僕は理解されることより僕で嬉しくなってもらえる方がええな。そもそも人は理解できるものではない。

 

僕の文章を全部暗記している人が居たとしても僕はその人には惹かれない。むしろどうでも良いのに読んでいるくらいが丁度いい。考え方からちょこっと性癖まで描写しているけど、これはどれだけ文章化しても本質には至らないだろうなという前提があるから。本質があるとすれば非言語というより、実際に接した相手との間にある。

 

結構甘えるところはあるな。

 

ともあれ。

 

世界に対する面白さは毎日更新されている。

 

演劇入門は、昨日書いたように感情の儀式化と繋がっていた。抑圧された感情を浄化するために演劇があるとかなんとか。分かる。ただ、この機能って別に演劇だけでなくても良い。音楽もそうだろうし、物語もそうかも。

 

一番は宗教と連続性がありそうな。行動規範は規定しないけど、抑圧を昇華するという面で見れば機能としては似ている。何かを見て自分が解放されたと感じたか無意識がそうなったかは関係なく、外からの波で解放されるところ。

 

現代的な語彙に直すとストレス発散で、非現実に浸ることで抑圧を浄化するということになるのだろうけど、何の解決にもなっていないような。古代の悲劇はもっとカタルシスだったとのことだけど、なんだろうな。娯楽としての非現実とは違ったのかもしれない。

 

僕はというと、世界の表現物に対して自分が浄化されることは求めていない。それほど抑圧されていないというのもあるし、抑圧は外に解放されることを求めるべきものではない。演劇は自分の認識が更新される面白さはある。これは確か。ただ、自分の上限解放から見れば、この演劇じゃなくても良かったかもしれないというくらいの世界線はある。

 

ここで、自分が他人に認識される最低限のことを想う。たぶん名前とか言動とかいろんな水準はある。手っ取り早いのは、社会的な椅子という呼称。他人に認識されることにどれだけ意味があるのだろうと思わなくもないけど、その時空で生きている人にはきっと大事なことなのだろう。

 

繋げて、自分が自分であることに対して、どの経験が自分を形作っているのかという話。あんまり厳密に考えない方が良い類のことだけど、自分の本質を探りたいのであれば不可避。

 

人の本質がどうのって結局は、当人の観測圏内でしかないから、まずは当人の本質が分からないといけない。僕は絶賛更新中で、本の師匠と出会った20代後半くらいから数年で自分が全然変わってきているから、固定化する方向には向かっていない。

 

全ての社会的規範をとっぱらった後に残る自分は、甘えられる人に甘えてしまうところにあるのかもしれない。甘えは期待とはちょっと違う。

 

自分が自分で勝手に生きることが自由だとすれば、文学フリマにステッカーを買いに行く世界線もあっていいのかもしれない。自在であるとすれば他人の感情は僕の行動を決めない。眼鏡マスクで武装してもきっとバレるから難しいけど。

 

 

最後。

 

人間未知なるものの作者さんは相当変態。外科医の癖にそこが気になるんかいと。

 

そうして僕も変態だから、皆気を付けてよ。

 

では、おやすみなさい。