とても言語化するのが難しい思考の坩堝。
きゅうりがやたらと届いたので、毎日浅漬けをしている。今日はコチュジャンでちょっとピリ辛風。あと、茄子とピーマンもある。かぼちゃとジャガイモは食べられなかった。なんというか、生活に組み込めない食材。作ったものを送ってくれたことはありがたいけど、厳密に切り離せば、送り手としては送ったこと自体で完結しているとも言える。気持ちは食べました。
雲のまにまにお月様が見えた。基本的に世界は筆舌に尽くしがたいものだから、あまり装飾する意味もないのかもしれない。ただ、お月様を眺めつ猫と目があって、なおかつ汗だくで考えていたのは、思考って最初の自分にたどり着く手段なのではという仮説。不毛と言えばそうかもだけど、自分の本質は、自分の生来性にあるのかもしれない。時々の時間軸で、社会に合わせて発展しているようで、実は場面が違うだけという説。
説明概念で考えてみる。定義付けは、自分で自分に対して説明できること。自分から離れていくほど感知ができないし不明になる。これは物理的距離も当然含まれるけど、認識的距離間の方が強い。人が何故勉強できないかって割と解明できていない現象だと思う。脳の容量も機能もほとんど誤差レベルで、普通に会話も生活もできるのに、それでも勉強ができない。
別に勉強がどうではなく、認識の閾値の話。なんでこれほど個体差があるように見えるのだろう。というところから、運命論でもないけれど、人の閾値って最初の人格が決めているのかもなと思う。別に自分が嫌いなもの受け入れがたいものは受け入れなくても良いし、するする受け入れられるものがあっても良い。けど、それは誰が決めたのだという話。
僕は、もしかしたら何も考えることなく終わりたかったのかもしれないけど、許してくれない何かがある。受け入れてきたものに対していちいち抵抗がある。この抵抗って要は人生におけるセーブポイントで、記憶とはちょっと違う。
自分の本質として、失敗をし続けている理由を考えると、一旦世界を真に受けるという傾向がある。人の言葉もそう。装飾とか社交辞令かもしれないのに。いい加減分かってきている。ほんとにそうしてはいけない。最近もこれで失敗した。存在って何だったのだろう。
こういう無垢なところ(悪い意味で)があるから、自分の認識がどこ時代レベルなのだろうということも考えることができる。(しなくてもいいこと)
演劇入門の福田さんとベルグソンさんが同じ時系列の人だと思うとなかなか食べ合わせが良い。と時代のことを考えると、デカルトさんがわれ思うゆえにわれ在りと言ったのは、その当時個人という観念がなかったから。考える葦もそう。現代に引き直したら、われ在るゆえにわれ思うだと書き直されるはず。
こういう社会への認識がどこまで自覚的かという意味で細分化していくと、世界は分業することで効率化されたけど、分業ゆえに自分すら分断されているということになる。自分を社会に委譲している。
演劇入門は読みながらほーって思ってしまった。演劇の起原は儀式であって、儀式の中では自分は抽象化されるけど、自分をコントロールしないといけない。日常の社会から操られているということから離れて、自分を操ることができる主体的な物事だとか。これはとてもわかりみ。自分が自分で居られるというのはピンポイントな事象でしかない。
趣味のほとんどは自分が生きている場から離れたところにあるという意味が分かる。
僕は自分の人生をほとんど演劇的なものだと思っているから場なんてどうでも良いのだろうな。ただ、僕が存在することができる場を作ってしまったあなたの意思はどこまであるのでしょうって。
1900年代のこの人達すら考えているのに、現代人は自分にとってどうであるかでしか語れない。世界大戦が起こっているのに文章化しているってめちゃくちゃ凄くないか。人の適応力よ。その時代に笑いについての論考を書いたベルグソンさん。
こう考えていくと、人が至らないところを笑える人格は未発達なのかもしれない。こういうのを笑い物にする最初が母親だったのだから目も当てられない。幼少期の何も知らない僕が叔父さんの結婚式で皿を舐めたことを笑いごとにする。いやいや、それは駄目だって教育する立場じゃんって。
素朴な僕は人が知らないこととか認識が至らないことを笑うことはできない。もっと知っている人からしたら僕は至らないし、この物差しで比べるなら自分がそこまでだと決めないと無理。
至らないことなんてどうでも良い話。その自覚があるかどうか。
自分がもっと知ろうとしている時、知らない人を見下す暇はない。ほんとに知ろうとしているならサポートすることはできるけど、教えてもらえるのが当たり前と認識するのも悪影響だろうし。
要は、きっと人は自分の為にしか稼働できなくて、他人との関係はついでだということ。不都合がない限り観測はできるし、その観測は、自分が自分を把握する基準とは異なる。
自分を特別視している限り、道徳とか平等を語る人は胡散臭い。観測している限り、自分とは別物として語っている人が多い。
ともあれ、人間論の人はこうすべきこうあるべきしか書いてくれなくて、結論を滅茶苦茶じらしてくる。既知既知だから、さっさと言いたいこと書いてくれと思っている。
世界の自在性からすると、パートナーは僕が選んだ人ではなくて、選びつつ相手も自発的に選んでくれた人が良いのかもしれない。好きな人はまぁまぁ受動的なくせにアグレッシブな言葉を遣ってくれたけど。
ちゃんと僕を社会的じゃなく固有的に選んでくれる人が良いわ。いちいち左右されない人。
では、おしまい。
ここでしか存在していない自分でおやすみなさい。