性質

 

 

 

明日から遅番だからルーティーンを2時間後ろ倒し。今日のお月様の光は輪郭がぼやけていた。夏の月という感じ。1週間分のワイシャツにアイロンをかける。この季節には室温が上がって重労働。考え事をしていたからか、指の皺も一瞬伸ばしてしまった。火傷の痛さと口内炎の痛さは独特だ。

 

失礼なフレーズがあったので昨日の日記は一部削除。まぁ言葉は遊ぶものだという気もするから問題はないのかもしれないが。一気読み大変そうだが時間消費的に大丈夫だろうか。あくまで可能性の中のことだけど。ステッカーだけでも買いに行きたい衝動。

 

さておき。

 

本日は漫画ばかり読んでいた。その中におそらく京大理学部をモデルとした数学漫画があった。映像記憶を持っていて、高校まで神童と言われていた人が大学の授業では全く歯がたたなかったという始まり。なんというかこれも丁度良い漫画。知識と思考の違いがよく分かる。

 

数学は全然進んでいないけど、そろそろ読む準備ができたかなという手ごたえ。説明という概念で既知と未知を繋げることだと書いたけど、数学の概念は体験としての既知とは離れたものとして考えないといけないみたい。そもそも数自体が目にみえるものではないし。ある定義をその世界の前提として、そこから論理を組み立てるから、何と呼ぶかは問題ではないという。あんまり潜ってもいけないような気もするが好奇心が抑えられないし、この概念はきっと実用的でもある。

 

確率と濃度が同じ%で示されるというのも良く考えると面白い。確率は事象における全ての場合を1として、求めたい場合の数の割合はということで、濃度はその液体全体を100としてぶつぶつ。降水確率は観測できる範囲で同じ条件の日が100日あった時何日雨が降るかだっけ。どうやって統計取っているのだろう。

 

あくまで、僕の中の数学世界の言語化だからあんまり参考にすべきではないとは思う。ただ、主人公が他の数学できる同級生がいつ勉強しているかとストーキングしたシーンで、誰も机に向かっている時間はないというのがあった。何をしていても頭の中で考えることはできるというとのことで、なるほど、確かに僕もまぁまぁ意識的にできるようになったことだなと。

 

ただ、僕はあくまでアナログ人間だから、こつこつ論理というより直感で把握したものを論理で繋げるみたいなところ。よくぼーっとしていると言われてきたけど、きっと無意識で頭が回転していたのだろうな。こつこつ論理も楽しくなってきている変態だけど。

 

たぶん、完全な狭義というか純粋な思考って自分の頭の中だけで完結されるもの。あとはどう記述するかということで、ここに言語が意味を持ってくる。自分が何を選択するかの判断は思考というより決断だと思う。なにせ正答がないので。

 

まぁまだ高校レベルの数学も理解できていない僕が語ることができる項目ではないのだろうけど。いや、語るだけなら自由か。表現の自由

 

表現の自由と言えば、個人レベルでは確かになんでも発信できるということに分解できるのだろうけど、社会システムとして見れば、国民が偏り無くあらゆる情報に触れられるということにあるはず。これって国家としてはまぁまぁ勇気が要る決断だったとも思う。国民があらゆる情報を吸収して賢くなったら、国家のハリボテ観が見破られるのではないかと。まぁ、人は自分が取り入れたい情報しか受信しないから問題はなかった。情報の吸収力は単に慣れていないということもあるし、意志的要素もある。

 

何を発信できるかは僕も含めた凡人では受信量による。同じことしか書けないのは、受信が閉じているからに過ぎない。どれだけ言葉の扱いに長けていても、そういう人の文章は小説じゃなきゃ読めない。

 

僕は自分が賢くなかったからここに至ったのだと解釈しているからどのルートを通ってもあんまり変わらなかっただろうな。自分の経験のどこが欠けたらこの自分はあるかないかという仮想実験でも、どの体験も自分を彫り出しただけという気がする。

 

こんなのは単なる考え方だけど、自己世界は当人が規定した考え方で構築されているに違いない。

 

演劇入門は相変わらず面白い。人一般の生活が確固としていないと演劇は成り立たないとか、なるほどかの人が生活に固執しているのは演劇脳だからなのかと新解釈が生まれる。

 

生活としての個人化と、演劇における共同体への同化。社会生活でも確かに役割は担うけど、その中身は自分という固有だから、その孤独を浄化するために演劇がある。演劇の中の役割は自分ではないけど自分が担っている役割だから、共同化されて個人でなくなることができる。そう考えると、「死」、「仕事」、「争い」というテーマは共同化要素満載だ。これを個人が独白形式で演じるというは、個と共が分解できないものだという主張なのだろうか。でも分解できないものは確かだとして、それをあえて演じることが演劇足りうるのかは気になるところ。

 

僕は専門的なところは知らないし、ただ考えているだけだから、本職の人からすれば見当違いだと思う。でもそれで良い、というかそれが良い。情報量が少ない方が考える余地があるので。

 

人間とは未知なるものでも書かれていたけど、専門家は偏るから全体を見ることができない。ただ、考えずに見ているだけの人もその人の観測圏内でしか世界を捉えることはできず。

 

これを突き詰めると、自分がどうであるかって、情報量が多すぎて考えることが難しいよなって。考えるが自分に向かわないのはそういうこと。自分は自明だということが前提にならざるを得ない。主体だから。

 

未知なるものはちょっとずつ本題に入ってきている。人は時代に刻印されているとか、顔つきが人間性を示すとか。僕がかの人への好きが継続しているのは、顔の造形美ではなく僕から観測された顔つきという説。

 

いや、人の顔つきで他人の人柄を判断できるほどの霊感はないのだけど、自分にとって有用かどうかを決めなければまぁまぁ人間性って見える気がする。

 

基本的に人の本質は自分から下の人をどう扱うかにある。もっと言えばどうでも良いとか。

 

だから、現実的に関わってなくても現実的に好意を持つことは普通にできる。

現実を妄想で補強するとかではない、念のため。

 

僕はアナログ人間でややデジタルだけど、人のことはどっちの手法でも分からないだろうなと思っている。ちゃんと意志で生きられるのが人間でもないし。外からの定義付けを生活にするって、まぁ良いや。

 

 

ではおやすみなさい。

 

皆が元気でありますように。

おしまい。