交換法則

 

 

やっぱりなんだか楽しいな。

 

 

遅番での出勤は早番よりも昼に近いから気温が高い。うだるような暑さなのだろうけど個人的には緑の絨毯の田んぼに網を張る作業をちょうど眺められるタイミングで、なるほどこうやっていたのかというのを真顔で内心にやにやしながら出勤した。網が張られたということは、鴨さんがやってくる、はず。帰り道は遅い分ちょっとだけ涼しいし、お月様も眺め放題である。網はきっちり綺麗に張られていた。明日の出勤ときに完成度を眺めよう。

 

仕事も楽しんでいるけれど、休み明けはちょっと話し方を忘れている。語彙の合う合わないが調整し切れない感じ。先生とは問題なく合う。あと絶対賢いだろうなと思わされる定型文ばかり扱う人との話もかみ合った。会話は相手に対する感度だと思う。ほんとにしようと思うととても難しい。

 

ご飯。梅干しを買い忘れたのが致命的。酸っぱさを補充するためにきゅうりの浅漬けは塩、ほんだし、昆布茶に米酢を加えた。素材もあるのか、居酒屋に出しても耐えうる味だと自画自賛。まぁ弁当のご飯には梅入りゆかりをまぶすつもりだから、酸味酸味だけど、副菜は酸っぱめの方が良き。昨日はしめじとえのきにバターを載せてレンチンしたものに梅入りゆかりをまぶしただけのお手軽な副菜。難しいのは分量のバランスだけ。こういうのも直感だけど、行き当たりばったりの直感ではなく、体感と試行錯誤の結果だから、ひらめきとは違う。

 

さておき。

 

どこから書こうかな。あんまり記憶に頼っていない感じだけど、言語で再現できる日常の範囲はまぁまぁ増えている。ワーキングメモリでもなんでもなく、例えば昨日の晩御飯のメインをどういう風に作ったかとか、今日の仕事で更新された情報とか。時系列でずっと考えてきたけれど、一昔前までは何故できなかったかだったから過去に向いていた。この思考方式だと一向にできるようにも分かるようにもならない。最近はちょっと変わってきている。今以降に残すべき本質はというか、なんというか。ネガティブな精神傾向とか天邪鬼性はあまり変わらないと思うけど。

 

これって、たぶん僕の日常で僕のことを凄いと評価する人が皆無だからだろうなという1つの説がある。他人のことを自分と独立して純粋に凄いと評価できる人はあんまりいないから、凄いとあえて言う人には何か裏を感じてしまうというか。

 

あと、改善点としては、感謝とか自分が嬉しいことをてらいなく表現できるようになったこと。自分が自分であるためにとても大事なことだと思われる。これが言えないのは抑圧だから。昔ちょっと恋愛関係っぽくなった男性が、店で何かを買うときはありがとうと言うべきだと言っていたのだけど、僕としては他人には敬語だろうというスタイルだから、ありがとうございますと言っている。他人に敬語を廃せるって基本的に下に見ていると思われるし。コンビニとか薬局とか。いやこれは僕が敬語に馴れてしまっているだけかもしれないが。親しみとしての対等性は敬語でも表現できる説。

 

これが内面世界の拡がりとどう関係あるのかと言語化するとすれば、自分の認識は自分の認識であって、他から抑圧されるべきものではないということ。月とか花とか雲とかは綺麗で良いし、そんなことより見るべきものがあるとか知らん。

 

世界はまだまだ決まっていない。と決めてしまうと、こう、これもあれも考えてみようかと時系列の情報がぶわっと想起される。自己形成に意味があるかどうかで軽重の違いがない。

 

もっと具体的な話の方が良いのかな。

 

僕は数学に対してまだそこまで魅力を感じていないけど、理系の人が情緒に疎いっていう一般的な評価は偏見だろうなという感じがしている。むしろ文系の方が疎そう。突き詰めれば同じだと思うけど、一般的に文系と呼ばれる層はどちらにも属していない。むしろ学部水準ならどちらも一般層だろうし。

 

数学は、自分と完全に離れたところで考えることができるから、なかなか頭のリフレッシュにはなる。今日の仕事中に三平方の定理の証明について考えてみていた。思いの外忙しかったから全然進まなかったけど。知識としてこれは証明されているものだと知っているし、高校数学の三角関数も含めれば一般的な公理ではなく、直角三角形固有のものだとは知っているけど、自分で解いてみてこそ意味がある。ひし形にしてみたところまでは考えた。

 

今となってはこの人生では遅いけど、先生になる世界線も面白かっただろうなと思う。学校の先生だったら学習指導要領から離れていきそうだけど。人が何かを理解する手段になれるってなかなか嬉しいこと。

 

演劇入門もほんとに面白い。

 

生活における孤独を慰撫するためにあるというのも分かるけど、僕は孤独に馴れてしまっているし孤独だからこそ自分でありうる楽しさがあるから、あまりここは重視していない。音楽のライブとかも同系列だろうけど、僕はそこまで混ざり合うことに快はない。

 

固有な関係で孤独が慰撫されるのは別の話。

 

演劇の主役は観客だという主張は面白い。なんだか、僕が最初に見た演劇がまさにお手本みたいなものみたいだなと。昨日は演劇足りうるのかと書いたけど、新劇なのに原点回帰を試みているのではなかろうかとの更新。演劇の本質を抽出する試みっぽい。他のちゃんとストーリーがある演劇も面白かったけど、ストーリーを追わなきゃならないから、自分が薄くはなれない。僕は別にこれでも構わない。小説でやっているから物語に没入することはできるし。演劇の本質が個人がそこに没入することにあるのだとすれば、自分も登場人物の一部になる必要がある。そうすると、他人の発話を俳優が演じるということを通じて、自分はどうかという没入を促すのは現代的演劇らしい。

 

観客があって完成するものだというのを、絵と比較して論じる福田さんがとても好ましい。ただ美だではなくて、作者の精神活動まで遡ることができるのが芸術の条件だとか。

 

確かに僕も物語を食べるとき、ストーリーの面白さは食べてない。結末を先に知っても読めるし。じゃあ何を食べているのかというと、それをひねり出した精神活動であって、自分にとって面白いかどうかは無関係。面白かったって読書感想文を書くために読んでいる訳でもなし。

 

どうでも良いけど、かの人は僕の日記はたぶん読んでないだろうなと推測される。なんだかんだ新作完成させて凄い。

 

ただ、理性的に考えて、それほど直に会いたいという衝動に重きを置けなくなった。それでも会いたいんかいという心はあるけど、これを現実化して良い確証がないから、新作がネット販売されたら買おうというところと、ステッカーは諦めるかというところと。なんでイチャイチャしたいと思ってしまったのかは考え処ではある。

 

ここから離れた方が他人事として嬉しく見られるし、素朴に考えて交換がないところに関係なんて生まれなかろうに。

 

だからこそ、勝手に元気でありますようにと祈ることができるし、新作書けておめでとうございますと賞賛もできる。

 

もともとこの距離感だったのだろうな。僕の認識が遅れておりました。

 

という感じで今日はおしまい。

 

皆さん良く寝られますように。

 

 

おやすみなさい。