本日の月の描写は別のところで呟いたのでやや省略。姿は見えないのに圧倒的存在感。情報によると満月らしい。昨日の感じだとそんなかんじ。
なんとなくメインは茄子×ひき肉にしようと決めた。マーボー茄子のイメージから初める。しかし、片栗粉がない。そもそもあんかけの粘度のためにでんぷん質をあえて加える意味が分からないし。カレールーのほとんどが小麦粉だと知ってからカレー粉かレトルトしか使わなくなった。カレーで粘るなら玉ねぎを無茶苦茶ゆっくり炒めないと、談義はともかく。
最終的に粘っこさはケチャップを使って、洋風な感じになった。他に使った調味料は塩、胡椒、顆粒中華だし(マーボー茄子イメージの名残)、ウスターソースちびっと。副菜はピーマンの胡麻和えのレンチン時短版。ここにも少しだけほんだしを入れて醤油の代わりに塩にしてとか微妙なアレンジがある。
いつも再現性がない作り方しか書けないのは、僕も再現できないから。というかあんまりする気がない。レパートリーを増やすような試行方法ではないからかもしれない。真面目に切り方からやるなら、この切り方だったらこういう効果があるとかからだろうな。そういうことまで知らないと人に伝授はできないから。とりあえず、作る方も味わう方も楽しんでいるだけ。
ちなみに、今日の茄子はもう少し火を入れるのがベストだったけど、時間の兼ね合いでちょっとだけ固い。まぁ火は通っているしちょっとした歯ごたえを感じたいのであれば今日のでも良いけど、イメージした食感とは齟齬があったというだけ。
口に入れる物でも、結果だけを食べるのか過程も含めて食べ物とするのかで随分と違うと思う。
さておき。時間を遡って。
出勤中に考えていたこと。どの本で立ち読みしたのかは忘れたけど、演説では淀みなく発信できるのに会話では全然拙いのは何故かという話で、読解力が原因だというフレーズがあった。
読解力とは何ぞや。言葉を意味通りに捉える能力みたいに言い換えることはできそうだけど、この「意味通り」という観念は凄くやっかいではある。その前に、演説ないし発話だけど、これは自分の中の語彙を確立すれば良いだけだし、文章を準備ができるからこの意味では会話より楽だと思う。
というところから考えると、会話は簡単だと思える人は、読解力を遣わなくても良いように場をコントロールできる人かもしれない。あくまで自分の語彙の圏内でおさまる世界だから、相手の言葉を読む必要がない。
話したいだけの人の発話を聞くのもとても簡単。理解ではなく発話した事実だけが大事だから、相槌のバリエーションでなんとかなる。理解不能なことを聞き続ける労力を考えると、読解力はあった方が良いのかもしれないけど。
で、会話の難しさ。これはお互いがお互いの文脈を読み取らないといけないということにある。言葉はあくまで道具だから、相手が読み取ってくれると経験すれば容易く省略できるものだし、広辞苑的な意味の交換だけだったら会話する醍醐味がない。
そもそも人は自分が遣っている言葉が広辞苑だと思っている節もありつつ。
僕が想定している会話は、たやすく固有名詞で交換できるものではなく、思考とか認識とかうごうごした非言語の交換のこと。だとすれば、相手の素朴な語彙情報を収集する必要がある。人格的語彙と表しても良いかも。
結論として、僕が僕の日記を読み込んでいる人と直に会話する場を想定したら、語彙情報の圧倒的格差があるなぁと思ったというだけ。僕が日記で遣っている語彙はほとんど書いてない時に浸かっている言葉と等しいから。装飾しない。思ったと書いたことはほんとに思っている。
この、記号と思わせて概念なのが言葉の魔力だろうな。概念というよりは文脈というか文体というか、誰でも使えるものなのに誰が使うかで左右される。
同じ言葉でもイケメンなら許されるというセクハラ理論も、なんとなく面白くはある。どちらも仕事の時に仕事以外の会話をしようとする公私混同だけど、受け手の感情だけで決まってしまう。僕としては、そもそも仕事の時にプライベートなことを話題にしないで統一化したらいいと思っている。結婚はまぁ公的だし、出産も公休になるから話題に上がらざるを得ないだろうけど。少なくとも僕は同僚に可愛いとか言えないし、もっと簡単なところでも、髪型変わったとか服装の変化も、気付いても言わない。マネジメントする立場だったら仕事のために言うだろうけど。自分のことを見ている上司が居るという認識のため。
なんの話か分からなくなってきている。
ややこしくなったのは、演劇入門で、良い演劇とはセリフとしての言葉に二重性があるものだというフレーズがあったからもしれない。演劇はほかの表現物と違って、台詞でしか状況描写できないけど、状況描写だけではなく、登場人物の人格描写が表れていないといけないとかなんとか。
なるほどなと認識が更新された。でも小説は会話文がない方が良いっていうフレーズの後に罪と罰の会話文満載を読むと混乱する。でも古典文豪だから、小説だけど演劇っぽく書いているということにしておく。登場人物の人格が読めるほど僕は現実の人の人格を分かっているとはしていない。いや、他の人が分かっている風だったからそういうのが常識なのだとしていたけど、そこは分からないのではと最近更新したというのが厳密的なところ。
そう考えていくと、人生は演劇的なものなのだろうに至る。言葉の二重性は現実世界にすんなり適用されそうだし。僕は自分の言葉がどういう効果をもたらすのかは分かるけど、それが現実化されるかどうかとは連動していない。例えばイチャイチャしたいと思う、それを発話するまでは僕の世界の話だけど、それが現実化するかどうかは相手の意思のことであって、現実化することを意図して言語化していない。
経済学で、広告に刺激される欲求はさしせまってないものだとの説を提示した経済学者さんがいて、確かにそうだと思った話を思い付いたけど、今日は書けない。
最後。
ここは僕にとって在っても無くても良い領域。承認欲求もないし、記述しなくても考えているし。ただ、変人読者が居るみたいだから、僕が続く限り書いても良いかなとは思う。別に何も返ってこなくても問題ないし、むしろそういうことがあったら歪になる。
勝手に誰かの養分になるって凄いことよね。植物みたいな思想だけど。
この先があるかどうか。
では、皆さんが睡眠時間を確保できていますように。
おやすみなさい。