真実と虚構

 

 

 

会話の難しさを考えたら現実化した。そもそも自分が対話する意識がない人の語彙に合わせようとしてもどこにも向かえなかった。だから言葉よりも文脈とか背景を読む必要があった。次はできるから解消済み。自分の問いが何処にあるのか分からずに問うてくる人も居るという学習。音声だけのやり取りで察してちゃんはなかなかハードル高い。どうせ何日かしたら僕に投げた言葉も忘れているだろうに。

 

それでも自分に非があるとしてしまうのは、もう根本的に社会生活に向いていないのではないかと思ってしまう。優しいのではなく相手を害してしまったとか相手に対して至らなかったことに反応しているからどこまで行っても自己本位である。植物として生まれたら良かったのかもしれない。

 

別に後ろ向きな状態ということではないけれど、こういうことがあるだけで僕の常態が後ろ向きなことが観測される。心なしか体とか頭の回転がぎこちなくなるというか。

 

だからなるべく良質な世界に常に触れていないと保てないという仮説を立てると、毎日膨大な本を読むことは壮大な逃避であって、僕にとっては生活なのかもしれない。

 

良質な言葉というと、つぶやき場でちょっと面白いなと思って観測していた人が居た。でも、その人の言葉を読もうとすれば、男女の断絶とか表現の規制とか夫を叩くとか考えているようで考えていない感情のスケッチ的な言葉も入って来るから、あんまり読まない方が良いなと断捨離。人格的には面白い人だけど、環境がなぁ。人は環境で決まるというのは、どんな人が生活圏ないし思想圏に居るかに圧倒的な影響力がある。あそこは承認欲求に飢えている人には生息しやすい世界であって、言葉の真実性なんて意味がないから。

 

言葉と事実の齟齬。

 

閑話休題。今日のご飯。

 

ほんと安い野菜が減っている。もやしも売り切れだったし、ブロッコリーは高いし、何とか愛媛産で58円のきゅうりがあったので、副菜に採用。今日の味付けはゆかりとお酢と昆布茶とちょっと塩。昨日の残りのひき肉と家にあるピーマンではちょっとメインには心もとない。どうしようかと歩いていたら厚揚げが目に入り君に決める。粘度がケチャップだとワンパターンだから本日はマヨネーズにした。塩と胡椒と醤油で整えて。サラダは市販だけど、消毒してあるようなものではなく草っぽいやつ。ほんとは自分でちぎったレタスとか千切りした大根とかのが良い。経済的代替物。

 

料理の話は脇道にそれているようで、今日は本題と繋がっている。

 

どうでも良いけど、安吾さんの話題が出てきたので、罪と罰の上巻終わったら安吾さん週間に入ろうかと目論んでいる。「僕はもう治っている」って見たときは分からなかったけど、たぶん青空文庫で読んだことがある気がする。一時期読み漁っていた。「ANGO」っていうアニメからの繋がり。個人的に安吾さんはエッセイが面白い。堕落論とか、数ページしかない諸々とか。物語で言えば有名な白痴ではなく桜の満開の下だけど。青空文庫でも良いけど僕は紙媒体の方が良き。

 

 

そうして、日記の話。

 

好きな人の新作、架空の妹との日々を綴った日記らしい。説明を読んだだけでそそる。冊子になっていない、かつばらばらになったら順番が分からない、そうして、31日分。

 

ここから考えるに、日付が入っていない抽象的な1か月の出来事ということ、31日ということは西向く侍、2、4、6、9、11月以外までは読める。ここから想像すると順番が変わったら話が変わってくるという仕掛けもあるかもしれないところに至る。垂涎ものである。

 

あとは、僕が恋文で怖がらせたかもしれないという自己本位と、食欲の自己本位のどちらが勝つか。どちらも相手のことが見えている訳ではないから、31分の1を獲得するためにしれっと行く方が強そう。今のところ。これは想像の先の自意識過剰論だけど、いつか恋文で、日記を紙媒体でプリントアウトして読みたいと言ったことがあって、これに応えてくれたのかとなるとファン冥利には尽きるというところと。

 

基本的には社会的に躾のできた人間なので、触ったり噛んだりはしませんので。

 

読んでいないものとしながら読んでいる可能があるという仮定。

 

さておき。

 

演劇入門も面白過ぎるのだけど、現実世界に引き直される。人は現実で不自由だから芸術で自由を求めるのだとか。小説は内面描写が書き放題だけど、劇は台詞の中に人格が在らねばならないというという構造らしいけど、これを現実的な素朴な自分に引き直したとき、自分の内面を言語化できるか、自分の発話に人格を載せられるか、どちらもきっとできない。できる人は個人的にPDFにして文章を送って欲しい。

 

これはごくごく個人的な捉え方だけど、ないものねだりとして芸術を味わうのは現代人としては遅れているのではないかという説。個人がちゃんと個人になれる土壌は先人が培ってくれているから。非現実も現実もそんなに離れていないでしょうにって。演劇が芽生えた時代って外の世界は戦争状態で、個人的に安定することはできなかった。物理的に。演劇入門の時代も世界大戦。

 

この時代でさえ、自分が演劇を見るためには目的をもって行くべきと言っている。経済学でいう代替性じゃなくて、ちゃんと固有の意志をもって鑑賞しましょうという話。

 

僕は、演劇には劇評のギャラがあろうがなかろうが行きたいところには自発的に行く。ないものねだりを解消するためではなく、ただ、面白いから。同一化なんて知らん。

 

時間も押してきたから、最後に日記論。

 

そもそも日記が事実である必要はないよなと。人の日記を読むときには現実的関係がないから何を書いているかだけが大事であって、それがその人の生活と一致しているかは関係ない。

 

ただ、そういう日記が面白いのかという視点だとどうなのだろう。書き手からすれば全部事実ではあるけど、事実自体も証明できるものではない。自分の今日がほんとうに客観的に描写できるのかと自問自答したら分かると思う。

 

僕の料理の描写も、本当に作っているかという真実から見れば証拠がない。画像を貼れば良いのだろうし、画像とレシピの記述を照らし合わせてかろうじて真実と読める人だけが分かるような世界。

 

突き詰め考えるとこういうことになる。

 

僕がいったん真に受けるというのは、人の言葉も行動もとりあえず真実として捉えることから始めるというだけ。

 

虚構でした、ということならそれはそれで構わない。

真実かどうかで左右されるのは、当人だけ。

 

 

では、皆さん残暑で暑いけど引き続きちゃんと睡眠時間確保できていますように。

 

おやすみなさい。