一部と全体

 

 

 

金曜日は手抜きの日だから刺身と買った漬物と草を食べる。今日はちゃんとふわふわしているから言語化がまぁまぁ大変そうだ。

 

挨拶って難しいよな。おはよう、おやすみ、いってらっしゃい、お帰りなさいは表現と意味が一致しているし、言語化すればするほど良き言葉。いただきますとごちそうさまもそうか。ただ、お疲れ様とかご苦労様とかはまぁまぁいただけない。相手を労っているようだけど、相手がしんどいことを前提としている。まぁ、ほぼほぼ皆しんどく生きているしだいたい間違いはないからあまり問題ないと思うけど、個人的には疲れている人にしかお疲れ様って言いたくないし、この挨拶を定型文にするのは良くないような気がしている。

 

いや、そこまで気にする僕が敏感過ぎるのかもしれないけど、相手の状態にレッテルを貼る言葉だからなぁという想い。同じような文脈で、「すみません」という定型文をやめた方が良いと主張していた人が居て、確かにそう想う。すみませんって非があると自分にレッテルを貼る言葉。ここの正しい語彙は「ありがとうございます」ので、自分に優しい。相手に何か余計なことをさせた自分ではなく、自分に何かをしてくれた相手を対象とする言葉。

 

いちいち細かいと思うかもしれないけど、この細かさは当人の為にあったら良いだろうなという話。自分の状態を表現する言葉って、自己評価だから、そういう風にパブロフの犬的な意味で学習されてしまうことはある。

 

そういう意味で、「お疲れ様」も用法容量を守って遣えばいい。お客さんの怒りを受けた日記の時に某さんがこれをコメントしてくれたのだけど、普段そういう言葉使わないのに、あえて使ってくれたことで浸透した。

 

という世界で、僕は僕に投げられた言葉を読んでいるという話。

 

頑張れとか頑張るとかの言葉に違和感を抱いていた過去があったのだけど、今の生活圏内でこの言葉を遣う人がいない。母親が時々使うくらいか。正味、頑張ったって世界は変わらんしな。中身を具体化する必要がある。

 

もちろん、自分が頑張っているという語彙を遣う人には貴方は頑張っていますよ、偉いって労うくらい社交性はあるけれど、僕が貴方は頑張っていますって評されたら、はぁん(怒)となる。こういう玉虫色の言葉は相手の中でしか使うべきではない。

 

というところまで考えている繊細さを言語化したい訳ではなく、きっと人ってこれくらい分けて人を見ているのだろうなと観測されるということ。無意識下なのか意識化しているかはともかく。

 

僕に承認欲求がないというのも厳密には嘘で、誰か知らない人に認められても意味がないけど、こっちが面白いと思っている相手が具体的な個人として面白く読んでくれるのはありがたい。これは、欲が薄いというより、人をあまり抽象化できない傾向に過ぎない。

 

誰にも遣える言葉で褒められたって、いや、その言葉他の人にも流用しているでしょうってなる。女性の方がこういうのは多そう。それでも良い人も多そうだけど。

 

というところで、もう一つつぶやき場の話。ニコニコ動画には「踊ってみた」という作品群があって、滅茶苦茶惹かれた踊り手さんが居た。何年前だろう。自己主張ではなく、自分を作品としているみたいな感じが。顔も見せてなくて、単なる表現物としてその人。

 

もちろん現実で生きている人なので、つぶやきも更新されているのだけど、なんだか、こういう美は主観的なものなのだろうなと。いつまでもできないことだし、顔の造形も可愛らしくはあるけれど、仕事が終わった後に自分のスキルを高めることができる人が凄いと評している時点で、もう自分を決めてしまったのだろうなと。飼っている猫さんは可愛いけど、この画像も承認欲求の延長なのだろうと思うとなんとも。

 

いや、たぶん文句垂れつつ幸せに生きられそうな人っぽいから、表現物が見られなくなるのはしょうがない。世界は基本的に不都合だから、別にもっと踊って欲しいとも思わない。

 

ちなみに、言葉自体は職場の文句と猫への賞賛だけだから特に面白くない。抽象的な人達にちやほやされるってかなりの魔力なのだろうなというだけ。そういう世界を全うするも良いと思います。ただ、若くなくなったらどうするのだろうという気はする。

 

抽象的に人をカウントできることも人の能力だとは思う。例えば時事的に言えば感染数とか、世界の人の憂いについて思えるとか。個別化して人を捉える僕としては、世界を想う前に日本のホームレスはどう見えているのだと問いたいところ。直に見た人はタウンワークを持っていて、仕事を探す意欲はあるけど、住所がないと履歴書も書けない。

 

 

ともあれ。

では、ネット世界だとどうだろう。人の存在のハードルが低いから割とてきとーに交流できる。何が低いかというと、別に現実としなくてもいいということ。匿名だし、現実的人格にも何も影響がないという前提。

 

ただ、この前提を踏まえても時々変人が居る。語彙の水準が全然違う。変な話、僕を現実的な存在としてみなしているよなと。某人なんてあからさまだし。まぁ、現実的な存在として捉えてくれることと、本当に現実的に接することが在るかどうかは全く別の話。

 

僕がコメントしたから他の有象無象の人もコメントすれば返してくれると思わせてしまったのはごめんなさいやでという感じ。これこそ自意識過剰だけど、良質なコメントが。

 

そうして、波さんに対して単なるファンになりきれない点。あんまり抽象的に人を捉えられないのではないかという問い。じゃなかったら、僕のことはとっくに忘れているはず。最初に受付で接したことが記憶されているって常々おかしい。

 

もう忘れてくれていれば、日曜日に行きやすいのですが。

 

ほんとに語彙が貫徹されていれば僕はそんなに気にならなかったと思う。ルックスがどうかって、人は老いるから瞬間的なものでしかないですし、絶対バレることが予測できる。なんで僕のことを覚えていられているかは、きっと僕の日記を継続的に読んでいるからとしか読めないし、造形で好みでもなかろうし、ちゃんと抽象的なファンと把握してほしい。

 

 

 

という感じでおやすみなさい。