のほほん

 

 

今日はempty。白ご飯に粉チーズをかけて食べるという蛮行をしてしまう。塩昆布とちょっとだけ醤油を垂らす。いや普通に美味しいのだけど平日との料理水準の格差よ。時間に余裕がある時ほど料理に力を入れたくない。ぼーっとしている。

 

 

烏に単は似合わない、読み終えてしまった。続編はたぶん読まない。ストーリーとしては面白い作品なのかもしれないけど、なんというか、僕はそこを食べている訳ではない。何を食べているのかは、演劇入門で演劇の枠を説明するために絵画の美の叙述があってなんとなく分かった。

 

絵画が美であるためには、結果としての絵が美しいかどうかではなく、作者の精神活動まで遡れることらしい。というところからすると、評論家みたいに客観的なその人の人格的背景ではなくて、僕がその人がどういう風に書いたのかを読めるところ。読むという行為はあくまで個人的なもので、どう読むべきとかどう読んだ方が良いとかという話ではない。後天的なものだろうけど、どの部分に力を入れているのかみたいなのがなんとなく見える。共感覚ではなくて、経験則による直感みたいなことで良い。

 

烏に単は似合わないは、最後まで読んでも耳をすませばだった。

 

1つ注釈だけど、だからとて作者の真実だとはちっとも思っていないということ。ご飯と一緒で、美味しいという結果だけを食べるのか、作った人がどう作ったのかまで食べるのか。

 

僕は人を決めない。僕を決めた人に対してはそれを前提にするけれど。

 

ここは注意深く表現しているはずだけど、時々ブレているのは確か。昨日の日記で言うと忘れられることを強いること。

 

忘れられる権利は憲法学の範疇で確かにある。けど、これ公的に流される自分の情報を閉じることを求めるものであって、具体的な個人に自分のことを忘れてほしいだと、相手の人格に干渉するもの。

 

素朴な人は他人の中に存在する自分と、自分の存在の齟齬をそんなに感じないのかもしれないけども。

 

こういう意味で、存在=思考だと定義したヘーゲルさんはとても誠実に人間を見ている。思考はめんどくさいし生活に干渉してくるし、でも、そこがその人を決める定義なのだと。

 

戯曲を読む時の面倒さも福田さんが語ってくれていた。文字を脳内でてきとうな声優とか状況をあててアフレコしないといけない。で、このアフレコが読み手の人格によるという。

 

二重性って当たり前に見えてそんなに浸透していないみたい。存在は1つなのは確かだけど、自分の存在がどう相手に解釈されるかなんて、神のみぞ知る領域。ここをコントロールするのが現実世界の醍醐味という話だけど、コントロールして楽しいのかという気もする。

 

いや、自分のさじ加減で嬉しく思ってくれる人が在るのは嬉しいことか。

 

自分の都合良く動かしたいと思ってしまう存在は、その人の舞台では道具でしかない。

本当に良き存在だったらアピールする必要もなかろうし。この人生という物語性は誰もが持っているものだと思う。演劇性か。演劇は時間が前提になっていて人生も然り。

 

抽象化してもアレなので、具体的な思考を書いておくか。

 

あと何時間か後に個人的に垂涎ものの作品が公開される。これは経済学的に言えば希少性よりもっと価値がある。代替物がないから。ただ、代替物がないから何をおいても欲っするのかとなるとちょっと違う気もする。

 

買いに行って売切れの世界線。自分が読めない残念さより、売切れておめでたいの方が強い。買いに行かなくて、中身に悶々と妄想してしまう世界線。よくあること。抽象的な人と見られないのは、ここにあるんだろうな。僕は自分が抽象的に見られていることに対しては敏感だから、割と排除してしまう。

 

何を意図した言葉だったのかが読めないところに轢かれている。

行くのかどうかはまだ分からない。起きた自分が決めること。

 

この自分が美味しいと思っているご飯を買いに行くことに貫徹できないのは作者の存在に対する邪念が拭えていないということにあるのだろうな。存在がかわえぇ。

 

てな感じで、結論すると、僕の日記を読んでいるあなたはどこまで僕の存在を認知していますかということなのだろうな。

 

ちなみに、僕は存在と認知できる人としか交信できない。

 

文字数少ないけどここまで。

 

おやすみなさい。