現実とは

 

 

 

他人の日記帳を所持することは秘密を握っているようで少し後ろめたい気分になる。

 

という書き出しでバカンスの書評を書くことを目論んでいる。1つの題材で1つの文章だとこことは書き場を変えた方が良いだろうし、noteが良いかなとか。アカウント名は匿名的に硯にしたい。漢字のカタチがずっと好きだったのだけど、今考えると機能も好きかもしれない。言葉を綴るための準備段階って、まさに思考の象徴みたいで。

 

現実にどうかと考えると、つぶやき場のアカウントを引用してこの人が書きましたくらいの作法はできそうだけど、一般的に本を読む人が物語以外の文章で何文字くらいが許容範囲なのだろうとか、僕が趣味的な文章で物語の枠内に収めて書くことができるのかとか、なかなか難しそう。

 

そもそも書評は書けないと自己認識していたのに。あらすじを引用してこれはこういう物語だとか、あんまりおもしろくないし、読んだ後に残るものってかなり個別的だし。

 

布教したくなった説も否めないが、どの本が今のその人に合っているかは当人が試行するものだと思っており、なんともちぐはぐ。

 

ちょっと置いておこう。

 

完全にねじが緩んでいたと思う。なんだか仕事の語彙が合わない。のはきっと頭の中が違うものに支配されていたとも言える。起きてからも右手の緊張が収まってないようだし。触れてないのに感受性強すぎ問題。思春期の頃でもこんなのなかったわ。

 

別に失敗したとかではなく、変なオブラートがある感じ。何が現実で何が非現実なのかという認識の齟齬。

 

物理的食糧の話。副菜は手抜きで、昨日のマリネに厚揚げ加えて醤油と本だしを加えて煮物風に流用した。タンパク質大事。メインは豚肉の切り落としと玉ねぎとミニトマトの炒め物。なんでミニトマトを加えたかは不明だが、加熱したトマトは美味しい。味噌汁にも合う。

 

 

精神的食糧といえば、中上健次さんを探しにブックオフに行ったのだけど100円棚、違う棚、ハードカバー全部探して1冊もないというかくれんぼ。最寄りの古書店ならさすがにありそうだから、明後日の有給の時に狩猟に行ってみよう。

 

 

結局冒頭に戻ってくるのだけど、その前に、上手く記憶に収納されない人物という概念。これって、相手からすれば自分のことを想っていないと思われそうで、そういう面は確かにある。ただ、記録の再現がまぁまぁ意識的にできるようになった今、むしろ僕の脳にとっては逆なのではという説。記録に残っているというのは人ではなく事象であって、事象の中には他人が含まれる。要は、人ではなく単なる情報で、興味によって記録する力が強化されるというだけ。記録に収納されないというは、いつまでも過去にならないということ。人は過去になったとき情報ないし記録になるでしょうと。

 

誕生日とか好き嫌いの事務情報は確かに関係において大事だけど、その記録と、相手の人格を人とみなしているかは全然違う。くらいまでは観念が更新されてきた。人の誕生日覚えるのが苦手だったのは、全然その人そのものと繋がってないじゃんってころで、情報として切り離せば、色んな人の誕生日が記録として再現できる。

 

 

ついでにもう少し拡げた交友関係でも自分の事務情報を覚えられてないことに憤るのはなんだか違うような気がする。そうやって神経使わないといけない人より、自分を褒めてくれる人が居た方が平和に過ごせる。向かいの席の同僚さんは今日も具体的に褒めてくれて、勉強になりましたって言ったら嬉しそうだった。この人の個人情報全く知らないし、別に聞こうとも思わないけど、ある意味これも匿名的な良好な関係だと思う。

 

まぁこれは僕が自分の中身を知られることに価値を置いていないことによるのかもしれないが。自分を伝える為に言葉を個人的に尽くすことに意味を感じない。言葉より分かりやすい読みものがあるし。

 

そうして書評に戻って来る。

 

日記の概念から。

 

日記って日々の記録だから事実であることが前提とされる。誰にとってかというともちろん書き手。そもそもの語源なのかどうかは知らないけど、公開するものではなかったはず。日記文学は古典からあるけど、もともとは貴族のたしなみだったような感じ。自分の日常を公開するブログに近いけど、虚飾が何に向いているかが違うし、読み物としての価値が全然違う。

 

で、日記と言えば、夏休みの宿題の絵日記。僕は最終日に一気にするタイプだったから、逆から日記を書いていた。これって誰かに読まれる日記のフィクション性で、記録という形式を備えていれば、ぶっちゃけなんでも書けるということ。

 

この日記の真実性って何が担保するのかというところが本質な気がする。このバカンスでも、主人公にとっては日記が真実ではあるけれど、主人公以外の人物から見てこれを真実とみなせるのは、日記が事実の記録であるという観念がある人しか居ない。

 

でも、記録の表現が細分化した昨今、文字数140文字で自分を叙述できる時代になって、なかなか変なことになっている。

 

ところで、真実性の証明という観念だと、法律学の証拠法という群が繋がってくる。人の言葉の表現っていかようにもなるから、それを裏付ける何かがなければ事実の証明にはならないというイメージ。それは物証でもいいし、発言だったらその発言が正しいのかと反対尋問のテストをクリアして初めて裁判の中で認定できる事実になる。

 

事件のニュースを鵜呑みにできる人は、言語情報に信用を置き過ぎている。認定されていない事実を報道するのがニュースだし。特に裁判。どういう風に事実認定されたかは報道していないはず。裁判は印象で判断することができないってわかってない人が多そう。

 

ここからさらに演劇入門に繋がって来る。言葉には客観的効用と主観的効用の二重性があるという話。客観が主に広辞苑的で、主観が心理的なもの。

 

僕はそもそも広辞苑的な語用をあまりしないからなんとも言えないけど、主観的に話しているのに、客観的な意味が問題になるということはままある。で、この言葉の二重性の方向で二極化があるとか。言葉は簡単と、言葉で伝えることは難しいから諦めると。僕は後者寄りだけど、だからこそここがある。諦めてはいない。自分を諦めていないということであって、言葉を駆使すればいつか自分が相手に伝わるみたいな方向性ではないが。

 

これを前提としてバカンスを読むと、どこまでが主人公の現実でどこからが非現実かといういうのが凄く曖昧だなぁという話を書きたいと思ってしまっている。

 

そもそも、現代科学ですら人間の精神が分かってないのに、普通の人が人のことを分かっていると思っている傾向は疑問でしかない。自分が自明だから相手も自明なのかもしれないけど、そもそも自分は自明ではないでしょうよと。

 

何が真実かは知らないけど、笑顔としぐさで救われたところはある。照れてくれなかったのは、僕が肯定的にしか評価しないことが学習されたのかもしれない。なんだか前回より綺麗になっている感じがしたのもきっとフィクションではなかろう。僕にとっての真実は、相手にとっても時間が経過していないところか。出来事単位でしかないのに。いや、だからか。いや、前より嬉しがられていた気もしないでも。

 

これは現実なのか、非現実なのかという問いも、僕にとっては等価だからあまり意味を持たない。

 

要は、何が真実なのかは自分で決めるしかないのが内的世界のことわりということ。

 

では、おしまい。

 

皆さんがどこで生きるか決められますように。