じゃんぷ

 

 

 

世界線がかちっと動く。

 

試験の結果が出るまではどきどきして居たのに、落ちたと分かってかえって楽しくなってしまっている。母親に報告するのはちょっと心が痛かったし、頑張るという個人的には死語の語彙を遣わないといけないのも嫌ではあったけど。むしろ頑張ってきたからできなかったのよね。時間を費やすは当たり前だけど、時間の遣い方が間違っていたという。頑張って記録を積み上げるでは僕は駄目だ。

 

なんと頭が悪いこと。それが楽しいのだが。

 

僕の文章を読んできている人なら分かるはず。この中での僕はどんどん自由になってきてはいませんか。

 

 

明日は有給で昼までは寝られるので、ゆっくり書ける。落ちたって報告して僕より喜びそうなのは仕事場かもしれない。試験を諦めたとか嘘ついたらもっと喜んでくれそう。知らんけど。免許の更新に行く予定。その前に髪を切るというということも考えたけど、運転免許の写真がどれだけ綺麗に写ったところで特に意味はないから却下。満面の笑みとかやってみようかとふと考えたけど、笑ったら顔が歪むからなぁ。

 

僕に足りていないのは、こつこつ論理思考で、そうなってくると、例えばタンパク質って何ぞやまで分からないといけない。分かっていることとすればたんぱく質自体は非常に消化が良くて、健康に良さげの野菜とかきのこの食物繊維の方が消化には悪い。何で観測したかは秘密だけど、消化が悪い物もある程度は食べないといけないのだろうなというだけ。脂質は腸の前に胃にダメージがある。僕は時系列で胃腸が強靭だった時代がないから、焼肉を定期的に欲するような感じではない。たぶんずっとしんどかった。炭水化物ならまだなんとかだけど、結局必要最低限で良いのが物理的な体の構造だと思われる。焼き肉がお祝いだとかピザだとかケーキだとかは、深酒とあまり変わらない。

 

そういえば世界線の話で、嬉しかったからずっと書きたかったのだけど日記を書いているうちに忘れていたこと。

 

文学フリマに行く前の日の日記で、行って売り切れていた喜ばしい世界線と、行かなくて悶々した世界線のことは書いたけど、現実化した世界線は、もっといいものだった。行って買えてなおかつ売り切れる。僕が買ったのは見本を除いた最後の1冊だったのかな。なんでも良いけど、社会が追い付いてきて良かった。

 

noteの構想もいくつか考えている。読んでいない人向けの宣伝と、読んだ人宛ての僕がどう読んだかという文章を分けるかどうかとか。タイトルは「現実からの避暑地」。こういう方向性の為に世界線が分岐したのかという、あくまでも楽観思想。受かっていたら次の為にこの時間は作れなかった。

 

書評という名にかこつけた自分の文章をもっと外に向ける世界線

 

日記の概念の変遷も書き切れていないという。忘れてはいないけど書いているうちに流れで書けなくなる。

 

紙媒体を前提とした日記では個人的な記録というのが出発点。日記帳という単語で紙媒体を表現したつもりだけど、綴りで捉えれば毎日更新されるブログと読める。毎日更新されるブログなんて何か他の用途がないと現実的ではないけれど。

 

紙媒体からネット媒体に日記が移った時、純粋な記録ではなくなった。変な話、会話と同じ文脈で、話題とか交流の場が物理的な肉体に付随したところから匿名的な場に移る。ここでは現実的な真実は意味を持たなくて、自分はどれだけでも装える。ブログでもそう、つぶやき場でもそう。毎日記録する必要もないし記録だけでは読み手も増えないから、何かをフィクションにするしかない。

 

そういう時代が僕のにもあったようななかったような。

 

モテる風に書いているみたいに言われたことがあったから、言っておく。僕の部屋はマジでカオスだし掃除もあんまりしていないから誰かを招くことができない。すっぽり自分だけのための空間であって、誰かと過ごせるような空間ではない。物理的な体は社会と接するものだから、毎日お風呂に入るし顔に化粧水、乳液、美容液を塗りたくるし、服も臭くはならないようにはしている。それだけのこと。

 

だから、ここに毎日書いていることは、フィクションではない。

どう読まれるかを気にするという不毛な考慮はどんどん取り除かれている。

 

フィクションの反対ってファクトで良いのだっけ。ファンクションって日本語訳したらなんだっけか。

 

そうして、ネットの匿名的世界って肉体からは離れているから精神領域で自在に過ごせる場だとは思う。だとすれば、ネット世界で重視する人も自在かと思われるのだけど、この匿名的世界でも現実世界を流用していることが多い。コメントが多いとか良いねが多いとか、なんだか不自由な感じ。

 

僕は自分に対する好意とは無関係に面白い人に勝手にコメントしている。共通項とすれば、僕に対してちゃんと固有の言葉を投げてくれたかどうか。対象が誰でも良い交換できる言葉なんて要らない。

 

現実世界だと存在の感知って至極簡単。物理的指標で見れば良い。自分が大事にしているとか大事にされているとかは行動基準によれば良い。相手の行動ばかり評価する人が自分の行動を顧みることができているかは知らないけど。

 

言うなれば、なんだっけ。

 

では、匿名的世界における存在とはなんぞや。

 

ヘーゲルさんに賛成するけど、あくまで思考だと思う。何をどう考えたのかの固有性。何を創ったのかは次点。ここで匿名的でも面白い人かどうかが分けられる。

 

僕はもはや本名で書いてもなんの不具合もない文章。ただ、あまり付随させる必要もなく思考の存在論で言えば、僕の文章を読んでいる人の方が母親より僕の本質に近いと言える。この近さが現実的に何か意味を持つのかと言われたら、それは貴方によりますなと答える。

 

ちょっと空想的な惚気を書いても良いですかね。

 

好きな人とちょっと前に合ったとき、やたらと饒舌だったのはともかくとして、きっと僕の文章のファンだろうなと思う。現実的な確証は全くないけどそう読めてしまう感じ。これを前提としたとき、場が個人的な関係になった時に何も話せないことを危惧しているのかなとか。

 

売主と買主とか、受付とお客さんという場でしか話せない説。

場で言ったら、僕はポンコツでしかなかったのだけど。嬉しそうに話しかけられて困ってしまう。(嬉) 現実的にどう捉えられていうか気になるところだけど、知らなくていい。

 

現実的場理論で言えば、僕はだいたいポンコツで。誰かがやるなら僕はあえてやらない。リーダーとかやりたくないし。

 

こういう風に世界を捉えると、世界が客観的に決まっていると思えることが不思議。

 

まぁ良い。寝まする。

 

睡眠時間を確保できていますように。

 

おやすみなさない。