なにゆえ

 

 

 

週の真ん中が休みなのは良いな。明日行ったらもう休みだ。連休よりこまめに休みがあった方がペースも乱れないし色々できる。noteはこれからどういう風に展開するのかなぁ。

 

あれだ、ボトルシップではなくて、瓶に手紙を入れて海に流す行為と似ている。そういう感じで良かった。世界に自分の存在を漂流させて、後のことは知らない。感想文も世界に対するお返しみたいなものだし。嬉しい気分と美味しいご飯をありがとうございましたと。

 

あんまり創造力は無いもので。

 

さておき。

 

今日は精神病質的な夢を見た。ここの誰かさんが産業スパイで、僕の文章から僕の住所と仕事場を特定して家にやってくるシーン(○○さんすみません)と、職場の言語検索犯が優秀で、僕が職場の秘密を垂れ流していると認定されて危うい立場になるというシーン。

 

夢から覚めても、やばいやばいという感情がねっとりと媚びりついていた。これが持続するようだとちょっと病院も考えないといけないなという危機感。世界に見張られていると思い込んでしまう障がいがあったようなって。感情って思考では制御できないからついに来たかと。

 

まぁそういう不安感は通勤しているうちになくなったから一安心。夢の感情は現実で想起する感情より生々しくて困る。これっておそらく、自分の言葉の公開範囲が広がることに対する危惧みたいなところなのだろうなぁ。拡大する度に想う。でも、現実世界で人が他人のことをそれ程見てないのと同じように、電脳世界の言葉も観測範囲が広い訳でもない。

 

現実的に人が世界を食べるとき、何が最優先基準か。自分にとっての都合の良さだと思われれる。ここからすれば何が事実かなんてことはどうでも良い。嫌な話だけど、職場の人と仲良くするのも、別にその人が好きかどうかの基準ではなく、そもそも自分の生活にとって都合が良いから。大人はスマートだからそんなことは言語化しない。自分にとって都合が良くない情報をあえて取り入れるような人はよほど奇特な人。世の中は悪いものなのだ、しんどいものなのだという思想がある人の世界の現実は自分にとって都合の良いものでないといけないから、良き世界は全然食べられない。ないもの、あるいはイレギュラーとしないと、当人の現実世界が揺らいでしまう。

 

電脳世界だって人が構築しているものだから、きっとパラレルよね。パラレルって法律用語で良く出てくるから普通に使っているけど大丈夫かな。意味は並行だけど、かみ砕くと同じような基準で見て良いよねという感じ。

 

電脳世界の都合の良さはもっと剥き出しというか曝け出しというか。肉から離れている分、より直接に体現できる。アバターで肉は仮想できるし交友関係の結合も自在だし。まぁ現実の延長での結合だとそうもいかないだろうけど。なぜわざわざ交流を公開しないといけないのかって、考えていくとちょっとした闇を感じなくもない。

 

電脳世界の情報収集だと、より自分が見たいものというか手っ取り早いものが求められる。個人的に使っているのはレシピ検索。食材を入れて皆がどんな料理を作っているのかを検索して参考にする。あくまで参考というか方向性だけど。レシピはそれ通りにはなぞれないものだし。塩、胡椒って書かれていてもどこのどの塩とか胡椒とか分からないし、食材も厳密言えば個体が違う。それに、日常的に料理を作っている人が大匙小匙とかでいちいち計っているとも思えないし。ついでに、スピリチュアルだけど、気持ちが違う。気持ちは味に出る。ちょっと我慢するとか、食べ手に合わせて味付けを変えるとか。だから誰でも同じ味になる抽象的なレシピってちょっと考えられない。プロならともかく。

 

電脳世界の読み物となるともっと錯綜する。まず、商業的なプロが書いた読み物より電脳世界を選ぶのは何故か。自分だけの掘り出し物を探すのは確かに面白いと思う。ただ、本当にそうなのかという感じもなくはない。要は、自分が読まれるために読んでないかという疑問が生じるということ。結局関係に巻き込まれている。

 

文学フリマに行って思ったのはこんなこと。電脳と現実の狭間みたいなところだなって。自分の言葉に金銭的価値があるってどうやったら思えるのだろう。付けますよって言われたらあぁそうかなだけど、自分で決めるってどうやるのだ。(他意はない)

 

まぁいいか。

 

ここからは空想論というかのろけのおちゃらけたやつ。

 

グリーよりはちょっと公開範囲が広いところでぽつぽつ足跡が付いているのは波さんかなと仮定していた。そうして、読んでいるのであればきっと調べる人だから、僕が流した瓶詰の感想文も読んだと思う。

 

いつかの時系列で、感想文を私的に書いたのと、公開された誰かの感想文があって、何故公開された方にしか公的に嬉しさを表明してくれないのですか聞いた愚かな自分が居た。それに対する返答で、確か公になっているかどうかが違うだった。

 

とすれば、公的に流したのに、公的に嬉しさを表明しないのはなんでだろうと素朴な疑問が浮かぶ。もちろん、足跡がこの人ではないなら成り立たないし、嬉しさを表明する水準の感想文であるという可能性は拭えない。

 

でも、僕の本心では感想文大事に読んでくれたのだろうなという感じがする。自分の宣伝のためには使わず何回も読んでくれているかもしれない。公開しても一緒かいだけど、別になんでも良い。

 

この人僕の想定をことごとく覆す存在だから、この先何があるのか分からないところがある。想像を放棄しているつもりはないけど、ほんとうに何を考えているかが言語情報でもしぐさでも読めないとこがとても良い。

 

まぁ、人って基本的にこうだよね。

 

では、おやすみなさい。