結局全部自己満足

 

 

朝夜は完全に秋だ。散歩するには一番ちょうどよい季節だろう。早番の時間は月には合えないけれど、夕日のグラデージョンが複雑で良き。時間帯の問題なのだろうが烏の森も賑わっている。人間と同様に帰宅ラッシュ。開拓によってできた住宅街も人が住みだしている。ここの人たちも夕方これだけ騒がしいとは知らされてなかったろうな。

 

空心菜スプラウトを買ってみたのだけど、味としてはちゃんと空洞がある方が美味しいかも。栄養は知らん。メインはささみと茄子とピーマンの味噌炒め煮。茄子がしなしなになっていたから2本使った。しなしなになっていても美味しいものは美味しい。

 

ところで、中上健次さん。新刊枠で読んでいるのだけど、なんというか異界だ。時代性でない。風景描写がお経みたい。人の行為にも倫理感は一切ないのに、「オリュウノオバ」が時々少女みたいに見えるところも含め、時空がおかしい。安吾さんの白痴が想起されたと聞いて読んでみたけど、僕の中では坂口作品より雨月物語に近いものがある。白痴で残っているのって、押し入れに女がいて空襲から一緒に逃げてみたいな風景だけだから。今読んだらまた違うだろうけど。別にイメージがズレることに対して全く文句はない。むしろ中上さんを教えてくれてありがとうございます。今だからこそちょうどよい食べ合わせ

 

雨月物語は冒頭の美しさが凄いから、美しい文体を食べたい人にはおすすめである。徒然草も文体が綺麗だと思う。どうでも良いけど中上さんが、○○は○○とよく合うみたいなフレーズ使っていて、あぁこれ最近僕も感想文で馴染むと使ったわと思った。

 

感想文といえば、もっと深く考察する筋もあったなぁと頭の中で構築していた。喫茶店のクリームソーダを飲むか飲まないかで同じようような2日分の日記があって、ここが架空と現実の世界線の分岐だろうなとか。これを書いている最中に思い付かなかったのは、まだ潜在的新規の読者がいるからあまりネタバレできないというブレーキが働いたに違いない。まぁ本気で考察しだしたら「おやすみなさい」が登場せざるを得ないし、僕のようなマニアに向けたファンサービス的趣向もあるだろうなというところに至って、作品の枠から完全に離れてしまうし。

 

さておき。

 

娯楽って消費するものだとされているけど、ここでいう消費ってなんだろうという考察。僕にとっては自分の中に取り込むという意味で食べるという動詞の方が適切だから。

 

消費の概念は、娯楽とされているものをほんとうに取り入れるかどうかの前にある。映画であればチケットを買う時点、本であれば買ったときみたいに自分のものになったというか、自分の支配圏内に対象が含まれた時点。端的にいえば課金自体が核心であって、アプリでガチャが流行るのもなんとなく分かる。確かにここを捉えたら消費だと思う。自分とは別の自分が支配できる領域で物語を自分の現実から離れるために外付けで使う。ニュースで悲惨な物語に他人事で同情するとかもそう。この文脈から進むとつぶやき場で自分の悲惨なエピソードを開陳して同情という名の歓心を買って、その歓心で集まった匿名的な人を自己存在の充足として消費するのが現代の主流なのかもしれない。

 

互いに凄い存在を消費している感がある。まぁ持ちつもたれるだから外野が口を出すべきことでもないけど、たぶん1年後でも同じようなことを言っているだろうなと読める。

 

でも、僕は一概に啓発本みたいな無理やり向上思想が良いとも思わなくて。人間未知なるものでも、人間の精神の向上というか広く見た進歩みたいなことが出てきてちょっとだけ萎える。自制とか集中しないと辿りつけないなんてことはないだろうよというのが僕の経験則として在る。禁欲で高みに登れるという思想は古代ギリシャの時代からあるし、何かの為に何か別のことをしないといけないって迂遠だから、その何かの為に必要なこと適時にできるように調整すれば良いだけではと思う。まず、別に自分は義務だけで動いているわけではないし、意志に直結させるのはこういうパブロフの犬系な躾はやらない方が良い。報酬系で動くのはしんどい(個人的に)。

 

自分がまともな人格だって思えないのかな。最終的には切り離しになってくるかとは思うけど。なんか啓発本みたいになってきたな。よく聞いている曲で、できるだけ嘘はつかないという歌詞は分かるのだけど、人が悲しんでいるときに自分のことのように思えるようにというのは分からない。そのまま相手の悲しみとして捉えればいいじゃないって。自分のものできないと人の悲しみが分からないって社会的にはまともな人かもしれないけど、結局自分の世界の話でしかない。人間の想像力ってそんなものなのかな。同情脳がどんどん要らなくなっている。何はなくても同情が欲しい人は苦手だ。

 

 

そうそう、食べるの概念。食べ物って味覚で感じる領域と、結果として体になるという2つの意味がある。食べ物を消費していると太る(未経験)。食べる行為は自分の体に取り入れることであって、なんというか、官能的なもの。精神が食べるものは存在だから、取り入れるという純度で言えば、ある意味まぐわいより深い。これをできるようにしたのが言語とか絵画とか音楽とか演劇の芸術。

 

なんの話かわからなくなってきた。

 

もっと物理空間に戻して。

 

noteの展開として、千夜一夜物語みたいな感じで、週一で物語を掲載してみるということを想像した。いや、僕には物語は構築できないという強迫観念が壁になる。でもよくよく考えると、在るまでは無いのが物語だから、どんなに拙くても書いてしまえば物語では在りうる。とハードルを思考で下げてみるけど、シェヘラザードは死刑を免れるために毎日物語を創造した訳で、生みの苦しみみたいな世界観はないからなぁ。自分の蟠りを物語に投げるみたいなのもなんだか違うし。

 

あと、もう1つの軸として、波さんの既刊の感想文を綴ることも考えたのだけど、これは背景情報がバレバレになって、偏頗なきを綴るというコンセプトから外れくるから却下した。もっと投稿が増えた後に紛らせよう。

 

ここの日記は、僕の現実化の分岐みたいなところだから、現実の僕はきっと何かしらする。これは躾たわけではなくて、躾ないようにしただけ。

 

最後に解釈論。

 

文学フリマももう次の募集になったらしい。まぁ某アレで大阪が延期になっていたから無理もないか。次の演劇と被るのではないかと心配になりつつ、今度新刊があれば絶対狩猟に行くと書ける。では、新刊がなければどうか。笑顔を見ながら雑談したい、もとい会いたいがために行くって動機が不純過ぎて無理かろうな。掘り出し物を探しにきましたと無理やり理由を付けることはできるけど、ほんとに探すならフリマより古書市であることが否めなく、自分の中で整合性がつかない。なにも買わないけど会いたくなったから来ましたとはっきり言える距離感でもなさそうだし。知らんけど。

 

全くそういった言語はないけれど、幸せな解釈として、ある意味僕向けに創ってくれたのではないかという説がある。これはファン特有の自分のこと見てくれたという独善的解釈ともとても近いからなぁ。しかし、良かったという連呼は、来てくれてというより、せっかく創ったのに買いに来てくれなければのほうがやんわりするような。僕の日記を読んでいるかどうかについて何も言わないし、僕も聞かなかったからもう前提からぐらぐらなのだけど、自分の素朴な感受は正しいと思っている。前提として現実化するではなくで、あくまで僕の中での話。

 

現実的に見た情報だと、まぁまぁ好かれている。(独断)

僕のことを覚えていることについては、自分の作品に付随している記憶情報だからということもあるからなんとも言えないけど、僕の日記を定期的に観測しているから僕が過去にならないという説もある。

 

結局はこの距離感ありきの相互観測ではあるとは思う。

だからイベント事がないと物理的接触がない。僕も実際がよく分からないし。

 

注記。最後以下はフィクションです。

 

では、皆さんが季節の変わり目で風邪を引きませんように。

 

良い夢を。

 

おやすみなさい。