ふんわり世界観

 

 

 

1人でいる時、何気に出る言葉。「〇にたい。」。今日は「もっと賢くなりてぇなぁ。」だった。雨月物語を読んでいて、人が〇ぬことを「むなしなしくなりぬ」と表現するのだけど、とてもいい言葉だなぁと思いつ、僕の独り言は退場願望ともちょっと違うような、と再解釈していた。

 

物理的な存在がほとんど人の全てだと認知されていた時代(とか言って、今もそうかもしれないが)、人の肉体が生命維持能力を失って別の物体としてしか認識できなくなることは、まさに空しい(虚しい)。でも、人の存在が電子生活まで拡張されてきた現代、存在は物理的なその人にあるとは断言できなくなった。もちろん物理ベースが基本だけど、そうじゃない。存在が認識だとすれば物理は関係ない。物理的に認識できるその人の存在としていても、当人と、その人認識する人の中の当人の存在はイコールではない。物理的な対象は知覚するものであって、知覚は脳内で物理的に保存されるものではない。あくまで虚像というかイメージ。

 

たぶん何を言っているか分からないだろうけど、この解釈を踏まえると、僕の〇にたいはちょっと意味かが変わる。物理的存在を含めた全存在ではなくて、誰かの中に居座ってしまっている存在のこと。これって、猫さんの話と同じで、自分の存在が誰かの中で在ることが邪魔になっているかもしれないという強迫観念からきている。誰にも関係していない自分がやたらと楽しめているのはきっとこういうところにある。素朴な罪悪感。

 

ただ、ここをはっきり言語化できるようになったというのは、払拭しつつあるのだろうという気もする。

 

前置きからやや重かったので物理的日記。

 

ほんとに歩きやすい季節になった。今ちょうど人が通勤して帰宅するピークのシフトだから人の歩き方を観察している。歩くのって肉体的には疲れるけど、ほとんど人が自動運転なはず。ということは、割と素朴な人格の発露とも言える。どう歩いて来たのかという意味で。蟻の行列みたいな並びだと細分化できないけど、もう少し間隔が開くと滲み出る。基本的に前に人が歩いているのが嫌だから同じ速度で抜かなくても拡がってしまうとか、歩き方を意識して歩いているかどうかとかの姿勢とか、これで1つの社会学的フィールドワークができそうだ。

 

自分が勝手に動いていることの無意識と、年齢を経るごとに時間が早く流れるのは相関していると思う。個人的には時間の流れは結構自在なものだなとなっていて、昔の方が遅かったとはなっていない。これは独自説だけど、学校という強制的で退屈な時間と、世界を取り入れざるを得ない情報量不足の意識が相まって1日が長いと認識していただけではと。ここからすれば、物覚えが悪くなるというのは経年劣化ではなくて、必要な情報だと認識できなくなっただけではとか。情報を取り入れなくてももう自分の場所はあると脳が安心してしまっている。

 

興味とされている衝動のもともとは生存欲求と近いところにあるはず。牧歌的に捉えられているけど、生き場所を探す本能だったのでは。脳はそこまで経年劣化しないみたいだし、記憶力の劣化はすなわち安心なのだろうという異説。電話番号はスマホに保存されているから覚える必要がない。

 

向かいの席の先輩同僚が涼しくなってきたなぁと言ってくることを想定して、ほんと歩くのが快適です、歩くの好きなのですよという仮想の問答集を想定しているのだけど、そんな現実は今のところない。僕はこういう意味で自分を知られることにほんと頓着がない。存在の認識って事務情報じゃないからな。

 

仕事といえば、やっと忙しそうな上司を捕まえて試験に落ちたことと、有給を消化するために休みをくださいと言えたのですっきり。正直居てくれた方が助かるとか、直雇用に切り替えたいと思っているとか生生しい評価をいただいたけども、まぁそうだろうなとしか思わなかった。きっちり修行させていただこう。仕事観察だと、周りの人ってほんと自分のことしか見えてない。上司はほかに見ないといけないことがあって優先順位が違うから全体を見られない今ではなんとも言えないけど。まぁ普通そんなものなのかな。席が離れた同期がちゃんとやっているかなとか気になるのだけど。もちろんこれが自己満足的な仕事の仕方なだけ。

 

ご飯の話がここまで後になるとは。

 

この季節は野菜にも優しいのか、やっとレタスが100円になっていたので即購入。ブロッコリースプラウトも買ったからサラダ枠は安泰。副菜枠はもやしとしなしなになったしめじのナムル。ラーメン屋のナムルをイメージしたレシピを参考にしたら、ラーメン味のナムルになった感が否めない。メインは小松菜と豚肉と玉ねぎの普通の炒めもの。

 

ここでいつだったか、2日前か。喫煙スペースでできる風ビジネスマンが通話していたのが耳に入ったフレーズ。たぶんテレワークの話で、仕事と家の境目が曖昧になると言っていた。家と仕事で基準が切り変わるというのはまぁ分かるけど、僕はその基準の切り替えがもともと曖昧な感じがした。仕事よりお風呂読書時間の方が頭使っているし、仕事より料理時間の方が効率化を追求している。そもそも仕事の方が気を遣わないといけないという感覚も自明ではないのではないかと思う。

 

自分の為に世界を遣うという感覚なのだろうな。人は消費できないから歪なのだけど。

 

ここまではこのままnoteに投稿しても良い内容ではなかろうか。割と抽象的に書いた。

 

ここからは、僕の存在の話になるから背景情報がバレバレになる。

 

お昼休憩の時。ちょうどよくぽかぽかした中公園を歩いていた。皆ベンチに座ってお弁当を食べていて、良い感じの子漏れ日が綺麗で。というときにふと、僕が自発的に関係しているのは面白い人ばかりだなと。

 

コメントとかいいねに対する返事をしなくても大丈夫だし、僕がコメントするのも返ってくることが前提ではない。相互交信がなくても存在している。イメージとしては惑星間の交信みたいなことで、普通に見れば疎遠だけど、そうでもない感じ。

 

こういう存在の捉えられ方はとても心地良い。ただ消費されているという感じでもなく。まぁ僕の日記をただ消費できる人が居ればそれはそれで強者だけれども。支配圏内には全然入っていないし、共感できるエピソードも同情できるエピソードもないぞよ。

 

まぁいいや。

 

好きな人のこと。最強に面白い人に違いない。

 

言語化するのが難しいのは、きっと読んでいるからのだろうけど、お構いなしで書いてみる。僕はストーカーで情報収集するけど、別に僕に都合の良い存在であるとはしない。あくまでその人はその人であって、僕とは関係ない。情報収集も僕の物理的生活時間を壊すことまではしないし、物理的にもっと会いたいとも思わなくなった。なんでもできるならまぐあいとかの物理的接触ではなくて、お互いに未経験の街並みを散歩するのが良いな。会話も要らなくて。

 

というところで、この前物理的に見た印象からすると、確かに存在を受け入れてもらっているし、僕が弛緩してしまったということは、僕を弛緩して捉えてくれていることだろうなと。

 

例えば、自分の作品を評価してもらったらありがとうを返さないといけない、メッセージが来たら返さないといけないというのがきっとあって、言葉で返してくれていた時期もあったのだけど、何も返さなくて良いと認識してもらっている方がより近いというか、邪魔になっていないよなって。

 

物理的笑顔は、他の人に向けた笑顔を見ていないからなんとも言えないところではあるけど、それほどコントールできる人ではないという暫定的評価だから、いつでも笑っているのは存在としてとても尊い。不機嫌を向けられるのも捨てがたいのだけど、きっと今のところその世界線はない。

 

あと、自分の作品の感想文は絶対読んでいるのに、公にしないところがいじらしくて好き。他の人の読了感想文を引用しているのは見たし。独り占めしてもらっても問題は全くないけど、こそばゆい気もする。

 

もちろんこれって捉え方の1つの筋でしかない。ただ、読んでいるかどうかなんて接してしまえばもろ分かりで、僕が一方的に開示しているだけ。留学できましたかとか。

 

最終的にこういう距離感がとても心地良いなというだけ。物理的な存在から離れたところに互いの認識があるところ。いや、物理的な存在としてもかわえぇとは思うけど、ここだけ捉えたら表層美で相対的になる訳で。

 

存在自体は消費できない。

 

ではおしまい。

 

 

皆さんが存在を捉えられますように。

 

おやすみなさい。