鏡合わせ

 

 

 

読みとった像が幻想という虚像であっても面白ければそれで良い。実像なぞあってないようなものだから。面白いと都合が良いは違う。

 

今日のお昼に考えていたのは日本語表現の妙味。昨日の日記の最後の「皆さんが存在を捉えられますように」という表現、意味が曖昧だなぁと顧みていた。もともと可能と受動が同じ言葉で表現される日本語自体が曖昧。文脈から読み取るような文化なのだろうけど、現代ではそんな余裕はあまりないような気もする。

 

問題の表現。文脈から読み取ると受動の方が近いような気もする。読み手の存在が(誰かに)捉えられますようにというような。しかし、読み手が僕の存在をという風にも読める。いやいや僕の存在なぞ捉えなくても良い。だけど、この日記自体が存在みたいなものだし、うーん。ついでに、読み手が(人の)存在をという意味も含まれる(可能)。まぁ特に何かの意図を込めて書いたフレーズではないから、読んだ人に任せている。

 

どう読まれたかという話だけど、これも尊敬と受動がセットだ。日本語の良いところなのだろうけど、意味をちゃんと込める用途だとなかなか大変。自分の伝えたいことが伝わらないというのは、基本的な国語力不足なのかもしれない。捉えられるも、ほんとに可能なら捉えることができるだし、受動なら対象を明示すれば良い。

 

僕は日記に自分の主義主張を込めている訳でもない。日常会話でもこんなんだからよく主語をちゃんと言えみたいな指摘があった。

 

この日記が、小説を過去読んでいたけど今はあんまり読んでいない人の読み物になるのは、この文脈からなんとなく分かる。物語を読まなくても説明書とか個人情報保護条項とか報告書とか、新聞でも良いし、ブログでも良い。こういう文章には日常的に触れるのが現代人。ただ、こういう文章ってあくまで意味の読み取りであって、味ではない。文章を味わうことができる能力は物語に触れないと培われない。だから僕の日記から意味を読み取ろうとする人はあまり読めないだろうけど、味を感じる素養がある人は読めるだろうなということ。美味しいかどうかは別として。

 

意味とは意義であって、価値と言い換えても良いし為になるとか相手のことを知ることができるとかでもまぁなんでも良かろう。

 

さておき。

 

日記的日記。

 

向かいの席の同僚と久々に雑談があった。次月のシフトが決まって、有給消化のためだからどこでも良いって言ったのに上司が4連休を作ってくれたのを目ざとく見つけて、嬉しそうな感じで連休にどこか行くつもりなのかいと。人の連休に喜んでくれるのは良い人格。まぁ先々月くらいにそういう話題で僕から同僚が連休で旅行することに対して良いですねぇって言ったことを覚えてくれていた説もある。こういう雑談はとても良い。切り離しているから。いや、勝手に嬉しがったことが返ってきているなら連動か?

 

一番仲良さげな、暇があれば雑談ばかりしている三人組が居て、確かに休みで何するかみたいなことも語られているのだけど、なんというかまず自分在りきという感が否めなくて消費×消費の雑談な感じがする。要は、自分が何したかとかどうだを語る手段として相手のことを聞くみたいな関係。

 

まぁ、これはどちらが正しいかというより、どちらが良いかという話。一般的には後者なのではないかと当たりをつけているけど、こういう意味で自分のことを知られることにそれほど価値があるのかどうか。

 

同僚に指摘されて、あぁ確かに4連休あれば旅行に行けるなと思いあたる。来週みたいに祝日ではない単なる平日含みだから人も少ないだろうし。移動欲。泊まりでノートパソコン持ってどこかに泊っても良いかもなと。まず城崎温泉を思い付いたのだけど温泉ってこのご時世どうなのだろう。あと「言の葉の庭」リベンジで新宿御苑とか、東京行くなら古書店街と国立西洋美術館だろうなとか、熊野古道歩いても良いし、松本城とか高山植物をもう一回見るために長野も捨てがたいし、愛知とか静岡でも岡山でも。なんでもできる。旅行記であれば1つの題材で1つの文章だからあっちに載せても良いかもしれない。

 

フットワークの軽さは人格の軽さと同義。どこにでも行けるけどあえてどこにも行かないでも良い。行きたいけど行けないと物理的には同じだけど、面白さが違う。

 

あとどうでも良い日常譚。歩いて帰っていたら、路地で前にお母さん2人、子供4、5人の自転車集団が前に居て渋滞していた。端から抜き去ろうとしたら、ゆっくりこぐ自転車ほど操縦が難しいものはない。女の子が僕が歩いている線上にふらふらと寄ってきた。それを見て、お母さん達がすいませんとか危ないからどうのこうのと言う。別に謝らなくても良いけど別にお兄さんという歳でもないけどなと思いながら歩いていたら、それを眺めていた男の子が、「イケメンの人に気を付けて」と言ったのが聞こえてきた。

 

何をどうもってそう記号化してくれたのかは分からないけど、新鮮だなと思い、なんだか現実世界的に盛り上がった。マスクは外しているしこの日の最終炭水化物補給のためにおにぎり食べながら歩いているし、そう記号化される材料がない。薄暗かったから顔の造形もそんなに見えてないだろうし。まぁ体のフォルムでみれば高校時代から体型変わってないから、線が細い若者感はあるかもしれないけど、男の子からのイケメン評価が面白かった。

 

念のため。別に嬉しいとは違う。僕は自分の造形、特に顔には色々と経験則があってカッコイイとか男前と言われてもあぁそうですかとしか思わない。いや、今好きな人に言われたら嬉しかもしれんが、でなくて存在論のこともあるし、同じ顔しているのにある時期とか社会ではちやほやされるのにある時期ではからかいの対象になってきたし、なんというかこの変動はどうでもいい。顔は結局のところ生まれもった仮面くらいの意味でしかないし。まぁまぁちょうどいい仮面を付けてくれたなというだけ。なんでも思い通りにできる程のものではないし、誰かに生理的嫌悪感を抱かせることもないし、普通の顔だから特に意識しなくていいという意味で。ケアくらいはするけど。

 

本題というかなんというか。

 

人間とは未知なるもので、おそらく現実時間では1週間前くらいになるのだけど、人は時間で変化するけれど存在として1つだという話を読んだ。曰く、4次元軸から見れば、人は時間で切り取った断面だみたいなこと。時間が直線だと仮定したら金太郎飴みたいなものだなぁと思ったら、これって「PIPEDREAN」観たときにも思っていたなとふと思う。時間軸だけで見れば生まれてから死ぬまでの直線上に人の人生がある。ただ、相対性理論を踏まえると、ほんとに時間が直線なのかというという疑問もある。

 

ともあれ、これを前提にした、人から話される過去情報の真偽ってほんとは分からないよなと。悲惨な自分の経験則を語る人が居るとして、それが本当かどうかは分からなくても読み手としては受け入れるか受け入れないかしかない。これをやたらと主張する人に対する違和感がやっと言語化できた。

 

自分の過去を今の自分の為に消費する行為。

 

こういうことをする人の過去語りは信用におけない。辛かったとかしんどかったという結論が先にあるから、細部の客観性なぞどうでもよくて描写が誇張されるし、当人の中では真実になっている。だから、裁判ではこういう人が喋った証拠を当人に本当にそうなんですかっていちいち聞いていかないといけない。

 

まぁ過去の自分は一生返ってこないからどう扱うかは勝手だけど、ということは、今の自分も将来の自分に勝手に消費される存在でしかない。これで良いのかな。

 

僕の悲惨なエピソードもある。今となってはただの笑い話だけど、狭い社会では生きるか死ぬかだった。ブリーフからトランクスへの遷移問題とか、水着で何故か一般的な短パンタイプではなくブーメランタイプの水着を与えられた中学男子の恥ずかしさとか。世界を決めるのが母親だった当時にはマジでどうしようもなかっただろうなと。下手すればどうしようもない仲間外れになりえた。僕のとりあえず外向きでは常識に合わせるという傾向はこの危機感から来ているのだけど、今見渡すとそれほどでもなかったりして。仕事に遅刻とか平気でできるのだなと。

 

このエピソードも細かく書けるけどあんまりおもしろくはない。母親が男の子の常識に無頓着だったに尽きる。

 

最後。

 

好きな人に対してほんとに安心して良いのかは分からない。けど、恋文送っても邪魔にならないのだろうという認識があるから、ちょくちょくおやすみなさいの挨拶文を送るようになった。自分が挨拶をした方がよく眠ることができるという自己満足に付き合ってもらっている気分。

 

ぜんぶがたぶんだから、自己否定的な気分のときは悪く解釈してしまうのだろうな。

 

だからちょうど良いのだけど、ちょうど良さを保つのもなかなか難しくて面白い。

 

では、皆さんが元気でありますように。

 

おやすみなさい。