世界観の限度

 

 

琴線に触れたのか禁忌に触れたのか、情報量が足りない。単純に読んでないというのが有力説だけど、いかんせんほめ過ぎたかもしれない。ほんとに思っていることはあまり開示しない方が良い。

 

僕は人との関係を見るとき、主体的関係は断捨離したから基本的に相手の立場で見ている。僕の主観は、もっと知りたいなぁであって現状維持で持続することではないけど、それを叶えるためになにかするかというとそうでもない。だから、何故僕の存在を許しているのかというのはまま気になる。

 

仮説として、直に僕の素朴な物理を見てみたいであれば、別に触らないし何もせずともその要求に応えてみても面白い。ここほど饒舌ではありえないけど。一般的には直の方が饒舌なような気もするし、ちゃんとした会話はほんと大変。

 

という意味で見れば、仕事上の会話の方がよほど簡単だと思う今日この頃。雑談みたいな一方的話し手とか聞き手じゃなくて良いし、相手は答えを求めているから。いまだにトーンが一定だから自動音声と思ったと時々言われてしまうから修行が足りない。

 

雑談論。

 

面白い経験だったなと思うのだけど、軽作業というほど内職感はない倉庫で、上の人が居なくなって僕が1番古参になってリーダーみたいな立場になったことがある。僕より年上の人も当然居るし、派遣さんもいっぱい居たりして空き時間もあるから、雑談を回すということも仕事の一種だった。僕はこの通り別に自分があえて話すこともないから、誰かの自己主張が過度になりそうだったら発言してない人に発言権を回したりしてなんとなく和やかな感じを作るという作業。確かに雑談はゲームでしかない。ほんとは誰とも会話したくなかった。

 

パートさん界隈では癒しだとされていたみたいだけど、これは都合が良いというだけ。回す立場からすれば使えない人はその人の最大限稼働すれば良いだけだからてきとーに放っておくしかない。というマネジメントをバイトの立場で経験できたのはブラックではあるけれど、良い経験ではあった。もう一生関わりたくないけど。

 

この経験則から学習というか抽出した、人が自己感を得るのはどこからか。結局は自分がした所作を観測されているかどうか。僕はサボっているのもちゃんとしたのも全部見ているでーという感じで支配権を及ぼしていたのだけど、人から観測されないとちゃんとできないし悪いこともするという観念は成熟してない人格なような気がする。

 

悪いことするでも良いことするでも、そのメリットデメリット加味して自分で決めたら良い。そうなったらどちらにせよ自分に返って来るから、ちゃんとした人格だ。

 

 

そういえば、明日から4連休。

何かしようかなという衝動が起こるけど、何もしなくても良いかなという気もする。人格が動くのは休日ではなく平日だし。というか、人格自体はあんまり動かないか。

 

休みの方が自分が何に時間を使うのかが剥き出しになる。

自分には創作ができないという壁を壊す時機かなと思ったり思わなかったり。

 

何をもって人であるのかという指標は情報量が増えるにつれ余計に分からない。自分が生きている時間と等しく関係している母親にすら自己開示する気はないし、僕が僕であることなんて、正味、誰にも捉えられない。

 

捉えられないことは当たり前だけど、要は目的の話。

 

目的的に見てというか、人って普通に人をどう見るのだろう。手段なのかな。

 

例えば、でもなく極論だけど、僕は別に自分の存在意義を他人からの評価に載せてない。あくまで、その人にとって絶対的にどうかという話。

 

そういう蟠りは全然僕には無関係。

 

ほんとに本心書いているかどうか。

 

はい、おしまい。

 

では、皆さんが安らかでありますように。

 

おやすみなさい。