2週間振りくらいにやっとお月様が見えた。分厚い雲のフィルターに覆われているし三日月未満の薄さだしほとんど目視できなかったけど、それでも安心する。ちゃんと在ってくれているのだと。
北海道フェアで長芋(十勝産)の漬物、わさび風味を買ってみた。美味しいというか優しい味。弁当の副菜にそのまま入れても良いくらい。人口調味料があるからこういうものが食べられるという向きもある。レタスも100円だった。あまりできはよさそうではないけれど。
朝ごはんは納豆梅干し目玉焼き、キャベツとミニトマトの味噌汁。昼は省略して買い物に行く前にコンビニ梅干しおにぎり。
昨日の日記のモテ論はイメージで余計なこと書いたなと思っていた。なんだか過去の栄光にすがっているようではないかって。でも読み返してみるとそうでもなかった。少なくとも僕はモテることをステータスとはできないわという意味は込めていたと思う。
根本的に僕がモテることに意義を見出せなかったのは、人の気持ちが同情的にはあまり分からなかったところにある。表と裏の違いが怖いというか。僕は生物学的には男だから男のそういう怖さは降りかからないから男の方がマシだったけど、そうでもない経験則を得てしまったから、余計な好意はとても恐ろしい。いつ他の感情に転用されるか分からないので。好きの反対は無関心だけど、好きと憎いは紙一重じゃないかねというのが怖い。
怖いと言えば、母親から義務化された定期的通信も。LINE一言で済んだのだけど、送ったら電話がやってくるかもしれないっていう可能性を想定しないといけないのがほんと苦痛である。覚えてくれていて嬉しいって送られてきたのだけど、こちとら全然嬉しくない。メンヘラ彼女かよと。
このやり取りを、僕が親不孝ものだとするのか、なんとなく分かるなのかは読み手それぞれだと思うけど、この辺りに素朴な対人の観念が現れる。母親の主観の中に在る僕が想定通りに動いたことが嬉しい。これが想定じゃなくて約束だとすれば、約束は一方的に相手に交わさせるもの。
約束の定義は、ラッドさんの指切りげんまんを聞かせたいところ。約束はあくまで自分が自分にするもの。言質もその人がほんとうにそれをするのかという意味で見る。結局は自分に全くリスクがないから権威的な命令でしかない。こういう自分に従ってくれる人がすなわち良き人だ、転じて自分を好きな人だとする人はとても怖い。人と人は対等ではないのかいって。
まぁ、対等とか平等はとても難しい概念だとは思う。相対的に人を見る限り何処かは相手に劣っているし何処かは秀でいるし、自分は誰かよりマシだと思いたいだろうし。
今は母親以外居なくなったけど、代替の時系列で自分より僕が劣っているんだってマウント取って来る人がいた。僕を下にしたかった意味もよく分からないけど、そういう世界の住人にしたかったのかなとか、姉に対する憎悪を弱い立場の血族にというのがあったのかとか、色々穿ってしまう。僕に劣等感を植え付けて自分を保ちたかったのかなんなのか。
という意味で、僕にやんわりした好意を持っている異性の方が接しやすかったという向きはある。大学のゼミで一緒になった人に適度な本音を話して仙人みたいだと評されたのは良き思い出。恋人にはならなったし、この時系列だけのエピソードだけど。
対等で接してくれたと認識できるのは大学時代の友人の1人と、もしかしたら高校時代の室長かなというくらい。どちらともそんなに語り合ったわけではないけど、語り合わなくて良いというのが証左。
ここを突き詰めれば良かったのに、環境における人の精神性にも適応する性質のせいでまぁまぁ遠回りになったことは否めない。
が、万物の真理、「いそがばまわれ」
廻り道してきたから、人が自分をどう見ているのかはなんとなく見えるようになってきた。その中で見えない人に興味を持つ。自分の為に僕に接している訳ではない、ではなんなのだって。
ところで、概念というかイデアの話。人間とは未知なるもので、人の潜在的可能は、遺伝子と環境要因で決まるという話も含めると、人には確かに上限があるのかもしれないなと思う。
概念を収集できるってことは、その人の無意識の中に、その素がないといけない。理解と認識と言葉が細分化されるけど、その人の中でしか言語化できない領域は他から見ればその人の人格に含まれないし、そういう風にしか人が見えないというか認識に上らない人も居る。
自分に現実化された人しか人でないという認識はとても正しく現代的ではある。きりないし。
そういえば、最近ニュースになったであろう虐待死させた母親って殺人罪で求刑されたのだっけ。女親の方が世間は優しいというのはともかくとして、これが何故殺人罪になるかの説明。何か行動で殺害した訳ではないから不作為の殺人罪になる。法的に期待された行為をしたら生存させられていた、しかし、それを怠ったことが刑法的には行為で殺したことに等しい。
この期待されるという部分が、危険を制御できる関係であることになり、母親だからということになる。あと、現代刑法学は素朴な行為論と同じく認識が大事で、この夏場で何時間も車の中に放置することが子供に死をもたらすことは一般的現代人の認識で、それでも良いやって思うことが認容で、要は自分の子供を放置して死んでも良いやって思ったことが殺人の故意になる。
これに対して、どうこう発言できること自体に僕は人が人を自分が発言するためのネタにしかしていないのだろうなと思うけど、倫理的には子供寄りか母親寄りかでどっちでもあるみたい。
素朴な僕は、どちらにせよ他人事でしか見てないから、ただのネタにしかなっていないような気がしないでもない。視点で見れば、母親としてはもしかしたら産んだ子供が居なくなってラッキーかもしれないし、子供としても、この親の元で育つことより楽かもしれない。生存を維持することに価値があるなんて他人事だから言えること。
刑法はそれほど都合よく人を罰してくれないから、そういう風に犯罪を見ている人は改めた方が良いかもしれない。知らんけど。
誰でも生きているのが正しいみたいな曖昧な価値観ではなく、自分にとって生きていてほしいのは誰かで世界を見るべきでは。
あんまりべきとは思っていないけど。てきとーに命を観測している人とはあんまり関わりたくないだけ。
更新の話。
やっとこさ数学の概念が分かるようになってきた。ただ生きることとは無関係だけど、概念をスルーしてしまったのが気に食わないだけ。三角関数とベクトルが成績を破綻させたからリベンジ。あとは物理もやってないし、化学も大変。
素養で言うなら、僕は何も知らないとしても自分を保てることだろうな。
まぁ、こんな奴とパートナーになりたい人なぞいないから、僕は非モテですわ。
はい、連休で皆さんが体調崩しませんように。
おやすみなさい。