分水嶺

 

 

 

不安感は浮遊感で、自由。安心は重しで、縛り。

 

 

お昼にいくつかある定位置のベンチでお弁当を食べていると、隣のベンチに警備員風の男の人が座った。どんなお弁当かと思ったらお祭りの焼きそばさながら、透明なパックに溢れんばかりに入ったナポリタンだった。そうして、ハイエナのように集まるはとぽっぽの群れににおもむろに投げ込む。定期的に1本ずつ。

 

次第にもっと集まってくるはとぽっぽ。ついでに烏もやってきて、最終的に一番食べていた。というシーンを横目に眺めつつ思索。鳥類はどうやって餌を見つけるのだろうと。一番有力なのは物理的な視力。人間どころではないと思う。ただ、見えているとしてもそれを食べても良いものかという判断には、空気感を把握する必要があるのではという疑問。同類の雰囲気みたいな。これが5官の総合なのかそれを越えた直感みたいなものかは分からないけど、人間だって無意識でこういうものを捉えているとか。

 

そういえば、こうやって自分の食べ物を施すようなことは自分はしないなと思った。はとぽっぽについては生理的にあげたく所はあるのは別にして。なんかこいつら無礼じゃない?

 

10年前くらいに院のお昼休みに机付きのベンチでコンビニおにぎりを食べていたら雀がやってきて、一粒施してみたことが掘り返された。間近で見るとあんまり可愛くない。特に目が。このエピソードも当時の日記に書いた気がするけど、もう記録としては残ってないはず。記憶として残している人も居ない。

 

ともあれ、動物を飼う論に繋がりそうだけど、空気感を読む能力は人間より発達してそうだから分からなくもないような気がする。分かってくれると思わせてくれる存在としては他人より上位かもしれん。

 

 

帰り道は今どき誰も使用しない公衆電話を使用した。小学生くらいの頃よく迎えを呼ぶために使っていたから、なんとなく面白かった。今の歩行能力だったらあえて迎え呼ぶ距離でもない(徒歩15分くらい)のに、なんであんなに電話をかけたのか。世界がやたらと広かったから。

 

当たったスーパーの定員さんは、元気が良い新人さん。何かを聞いてくるときまっすぐにこっちの目を見てくるのでちゃんと見返しながら丁寧に応える。総合的に良い定員さんが揃っている。よく煙草を買って帰る、店員が外国の方ばかりのローソンも個人的には好きなのだけど。店長さんの器広いなって。結局なんでも好きなのかというとそうでもない。

 

さらに帰っていると、夫婦っぽいカップルが散歩をしながら烏の森の賑わいを眺めていて、旦那さんが「行くところがなくなったから集まっているんや」って。確かにそうですねーと感想を頭の中で言いつつ、すれ違う。

 

世界に対して僕は目を凝らしている訳でもないし聞き耳を立てている訳でもないけど、それでも記録的スケッチできることはたくさんある。そういえば出勤中に白彼岸花また見つけた。やはり自然に生えているという場所ではない。

 

日常を細分化すると時間が遅く流れる。

 

まだ9月末。あと二か月でどれだけの世界を捉えられるか。コップに半分水が入っていて、それまだ半分あるか、もう半分しかないかという捉え方と似ている。

 

スマホを携帯していない身軽さったらない。時間を使っているのではなく時間を使わされていたのだろうなと。癖になりそうだから引き延ばしてきたけど、明日には修理に出さないといけない。一応僕も社会的に生きているもので。

 

この浮遊感は、物理的世界を越えた所に行ってしまう衝動を催す。

寂しくて退場するしかないではなく、今なら1抜けできるという感じ。

 

スマホを眺めて色々チェックしたり漫画を読んだりしなくても、顔を上げれば読むものは無尽蔵にある訳で。

 

これは自己肯定感がないと生きられない人には不向きであるとは思うので、基本的にはやめた方が良いです。

 

立ち読み時間も長くなって、繊細な人が上手く生きられるみたいな本をぱらぱら読んだ。トータル、自覚的に繊細傾向にあると思っていたけど、そうでもないかもなと見解を改めたい。傾向がいくつか類型的に書かれていた。例えば考えすぎて行動が遅いとか。確かに考え過ぎているけど、よそはよそにした。行動の為に思考をすることはあんまりしない。行動は行動に任せる。

考えることの目的は答えを出すことではなくて、考えること自体にある。考えたら問題が解決するなんてことは、よほど抽象的な問題でなければなかろう。現実的なところだと自分が納得するために考えたということはあるかもしれない。これって答えからの逆算だからかなりの閉塞的思索になる。

 

あと、考えるとは別に、言語として可視化することで自分を認識できるという効用。紙に書きだすと自分が変わるというのは頭の中だけで考えていると思い込んでいる人にとっては良いことかもしれぬ。何を考えているか自体が分かっていないことが多そう。

 

仕事で人と会話していると思うのだけど、何かを教えて欲しいにはおおまかに2種類ある。答えだけ情報として分かれば良いと、その仕組みまで知りたいと。仕組が知りたい人も分かれて、ただ素朴な疑問として知りたいというのと、ここまで知れば応用できると。

 

なんというか、これって生き方の問題でしかないから、どれが正しいとかではないし、知ろうとしない人を見下すとかもない。ある意味羨望の対象だし。

 

やれやれ。

 

森さんのSF小説で、人は長く生きれば生きるほど腰が重くなるという話があった。新しいことをしようとすると過去の自分を否定するみたいで前提が揺らぐから行動できないという趣旨。要は惰性なのだろうな。

 

僕は生きれば生きるほど軽くなっている自分を感じるのだけど、何が違うのだろう。思い出もちゃんと大事にしている(でなければ自分の過去のエピソードは想起されない)けど、自分の過去の傾向と今の自分が変わっても、特に過去の自分を蔑ろしているとも思えない。

 

過去の自分が今の自分の足を引っ張ろうとは思わないと思うのだけど、結局未分離だからなのかね。無責任とかでもなく、本当に自分が嫌なら過去からの連鎖を今変えないといけない。過去の自分のせいにするのはかなり他責思考な気がしないでもなく。

 

ところで、今朝久々に使う卓上時計のアラームがちゃんと鳴ってくれるか心配で結局起こさせる前に起き上がったのだけど、間際のまどろみで見る夢はやたらとホラーだった。壁のシミが顔に見えるみたいな感じで、うわー、この部屋に誰かいるわーというような。

 

引用だけど、幻覚を見る人って、それが現実的に存在する対象と分けられないくらい鮮明らしい。とすれば、この幻覚の定義って、他人と共有できない現実ということになる。

 

だったら、僕が書いている日々の記録も同じで、ひいては、好きな人が直に会った時に嬉しそうだったということもそう。それを証明する補強証拠がない。

 

でも、もっと突き詰めると、どれだけの補強があったら現実とされるのかってかなり微妙なラインだと思う。結局は、自分がどこを現実とするかでしかない。意味分かるかどうかは知らない。

 

 

では、おやすみなさい。