朝ご飯は納豆、キャベツ、ミニトマト、ワカメの味噌汁、そんで目玉焼き。タンパク質多め。肉を食べて胃がもたれるのは異常だというのを何処かでみたから。確かにタンパク質の消化率は凄い(自己観測)。胃もたれするのは調理法とか、脂質とセットなのがありがちなところ。現代は炭水化物が主食のままだけど、これって飢えを凌ぐために安定したのが穀物だったという縄文時代から更新されていないだけでは。
確かに安定はしている。昼ご飯はコンビニの袋味噌ラーメンにした。これは食べたかったというより、ナムルで余ったもやしがそろそろ悪くなるから消費するためにということだけど。糖質に対する依存は凄い。
甘味の安心感なのかもしれない。仕事の昼休憩で砂糖たっぷりの缶コーヒーもやめるか。人工甘味料が使われてない、モーニングショットとかレインボーマウンテンとかをよく飲んでいるけど、糖質だったら直前の弁当でたくさん摂取している訳で。カフェインの覚醒効果も全く自覚できないのだけど、コーヒーの味が好きなのである。
代替機はほぼ放置。この分だと新しくなってもほぼ放置に。引き取りの予約の架電をするも全然通じないからネットから予約した。ほんと、事務通話に対するハードルは仕事のおかげで随分下がった。個人的通話はまた別の趣があったけど。僕だけに発声された声に対する愛着。ほんとうに僕だけのためだったのかは定かではない。通話しながら寝落ちするのもまぁまぁ良き。今やしようともしたいとも思えないけれど。
お月様が見えるのも当たり前の現象ではないのだな。と、出かけ際に見上げた半月が帰りには雲にお隠れになっていたのを見て想う。
愛の定義は「対象だけ」っていうアニメを見ているのだけど、お、違いますよというのが出ていた。何かの見返りに得るものではないんだよと。なんというか、こういう交換関係にあるところからは離脱したいなと思うところ。
では本題。
1日1通限定の恋文は、メール媒体に化体した僕の徒然草ではしかないなって思った。本当の意味で返信なんぞ求めていないし、僕の存在を味わえる人だと当たりをつけているところがある。
僕が収集してきた常識だと、返信がない更新ツールに毎日送り続けるってストーカー規制法に該当するのではないかとひやひやしないでもない。でもこれは拒否されたのに送り続けるという要件があるから、大丈夫か。要件は法学畑の人は分からないか、必要な条件という意味。
でも、常識的に見て、返信がないのに送り続けるのはそれ自体で加害だと判断されることは十分ありうる訳で。自分視点で見ればこういう人が居たら面白かったら読むかもしれないけど、その原動力はどこから来ているのだと思うに違いない。普通の人って何か目的のために動く訳だし。
そうして、僕の日記のルーツである徒然草も読み返さないとなと思って本棚を漁った。うちの本棚検索性がまったくないから発掘になるのだけど、読み切っていない本がここぞとばかりいっぱいアピールしてきて大変だった。マクベス、原始仏教、ドグラマグラ(下)、吾輩は猫である、諸々。過去の自分を褒めたい。未来の自分のために収集してくれているとこ。
徒然草はたしか古典クラシックスみたいな初心者向けもこの空間にあったはずだけど、発掘したのは講談社学術文庫だった。
序文を改めて読むと鳥肌が立つ。60文字らしい。
ものぐるほしけれ、がとても分かる。
僕の日記と徒然草の関係だけど、もともとそこに寄せていたのか、普通に書いていたらそうなっていて、誰かに指摘されたのかはあいまい。結果的にはどちらでも良いのだけど、もともと日記文学ではなく、随筆の枠だったなと改めて思った次第。
随筆ってほとんど流行っていない。枕草子の四季の冒頭はとても綺麗、春はあけぼの、夏は夜、秋はなんだっけ、冬はつとめて、みたいな、日常を芸術に昇華するジャンル。純文学の一部に引き継がれているかもしれないし、詩とか俳句とかの発展になっているのかも。知らんけど。
徒然草は、自分のことを匿名的にして、日常を思考に昇華している。講談社学術文庫は解説が張り切っていてとても面白い。
兼好法師さんにとても共感するのは、硯に向かったら自動書記みたいなことになるというところ。生まれ変わりがあるとすれば同一人物ではないかと思ってみるくらいには近い。
この日々の日記において、別に書きたいことは全くないし、ただ、キーボードの前に座ったら出てきたことしか書いてないし、準備なんてほとんどない。準備したことは今の自分がテキトーに覆すのだけど、特に滅裂になっていないという不思議。
自動書記に任せることができるようになるのは、かれこれ何年か分からないけど、別に産んでないから、話題がなくてしんどいとかは全くない。
こころにうつるよしなしごとを言語化すれば良いだけ。よしなしごともといとりとめないことを言語スケッチするためには、無為の世界を発掘する必要がありんす。
日記はもちろん、感想文も劇評もほとんど一筆描き。後者はちゃんとする必要があるから推敲はちゃんとするけど、編集は全然しない。
で、突き詰めた人間観だけど、他人も幻想というか虚構の範囲でしか認識できないよなって。
そもそも全人格的に情報を精査することなんて不可能であるという前提は共有できるはず。だとすれば、人の過去情報は、信用できるから真実だとするということになる。
僕は過去の自分の情報を今の自分を持ち上げる為に語る人はすべからく信用しない。あと、誰かを下げて自分を保つ人も無理。
こういう風に自分の常識を取っ払ってみたときに残るものが残したいものなのだろうなと。
蛇足。
現実世界において不自由さを抱いている人はいっぱいいると思うけど、その自由が解放されることは、できることかできないことなのか。
誰かを都合よくしたいなら、幻覚的現実論よな。
僕は現実関係だと、無駄に良い人と思われないとか、無駄に変な人に思われないところで調整している。ここをほんとうに自発的にする意味なぞほとんどない。
自発的時空間論で言うと、僕が愛しいと思っている人が1番分かっているという不思議。
おしまい。
おやすみなさい。