昨日の日記のタイトルのアルカイック。個人的に穏やかなニュアンスで使ったのだけど、意味を調べてみるとそうでもなかった。どうやら日本語で当てると「古拙」が近いらしい。古くて拙いとはなんと嫌な言葉だという第一印象だったけど、いや、違うのかもしれないという第二印象。日本語の語用における拙いって、拙著とか、へりくだる意味もあるし。

 

何の前置きか分からないけど、僕は第一印象より第二印象が正しいと思っている。第一印象は反射だけど、第二印象は吟味だから。あまり多くは書かない。

 

 

さておき。

 

自分の思ったことをちゃんと現実化するということが成った。たまたま帰り際の先輩と水を買いに行った僕がかちあったため、雑談の合間に発話。まずはさっぱりしましたね小手調べすると、嬉しそうに頭が軽いとか自分の髪が無いと錯覚してしまうとか返してくれた。その後、聞こえたかどうか分からないけどちゃんと「いい感じですね」と言っておいた。

 

自分の発言で相手が嬉しくなったかではなく、自分が世界に対して思っていることを発言する障壁が取っ払われているのが良き。実際、誰が見ても分かる変化だから指摘されることは当たり前だろうし、まぁ特に違和的な空気は感じなかったから大丈夫だろう。嬉しそうに自分の変化を語る姿は見ていて気持ち良かったけど、これは単なる副産物。ここから現実的な何かが始まることもない。

 

考えると、人の変化に対して自分の当たり前の範疇(好み)であれこれ言う文化もどうなのだろうな。それだったら言わなくても良い気がする。現象でしか相手を見ていないような。でも、こういう評価を食べ合いながら継続する社会もあるだろうし、なんとも言えないか。

 

何目線か分からないけど、これが僕目線。まだ更新はありそう。

 

言いたいと思ったことはもっと現実化すべきよな。相手の世界とは関係なく。次の機会である1月の自分はどこまでそうするか。ひたすら褒める世界線

 

ところで、梅干し貴族にはまだなれていない。あと5分早く家についていれば受取りできたのだけど、世界はそんなに完璧に都合が良くはできていない。満月間際のお月様に見とれていたせい、でもないけれど、この程度の不調和なら問題はない。

 

そういえば、昨日ご飯のセットはしたけど予約をしてなくて起きた時に炊けていなかったことも不調和か。あぁ今日もスーパーでご飯だけ買うことになるのか、まぁえぇか、に思考が割り込んで来て、冷凍庫に保存してある余りご飯があるじゃない、とリカバリー。自分のことだけど、傍観者的に、なるほど自分よって観測した。

 

基本的に絶望しなくなってきている。希望もしない。望みがないって廃人みたいだけど泡沫に自分が左右される方が人間的ではないような。こういうのは断捨離していっている。結果的に穏やかさだけど、随分迂回したような気もしないでもない。急がば回れ

 

ちょっとお勉強的話。

 

民法は人の法律世界=一番広く浅い社会世界のルールを決めているもの。ここに入る資格としての権利能力とか法的に十全に人として捉えられる行為能力とか、そこに至っていない人を保護しましょうとかいう未成年ないし制限行為能力者とかあるのだけど、ここは本題ではない。

 

意思能力。曰く、事理を弁識できること、分かり易くいうと自分がどういう風に法的効果を欲しているという動機と結果を認識した上で、自由に決定できること。理解はできる。自由は不自由とセットだから、あくまで法律的なカタログの中でどれでも選択できること。スーパーで何を買っても良いし、買わなくてもいい。どの部屋を借りるかどうかも選び放題。

 

けど、これって、意思の話なのかという気もする素朴な自分。別に自由に意思決定している訳でもないだろうし、人には自由意思があるという1つの当たり前が前提になっている。別に考え方自体が悪い訳ではなく、すべての自分の決定に動機があるって嘘だろというだけ。

 

まぁ法的社会生活ではそういう風に振る舞わないといけないということなら分かるけれど。

 

あと、人は動機があって行動するものだとした方が他人を観測しやすいという思考のショートカット効果もあるかもしれない。刑法も基本そんな感じで、ある事実を認識していたら故意があると推定されるとか、あくまで外からみたもの。ある意味常識の極致だけど、常識的な人が必ずしもこういう世界観で生きている訳でもない。だったら自分も他人からどう推定されるかも常に考えないといけない。

 

 

まぁ良いです。ここは僕が自分の知識を分解しているだけ。僕には別に遵法精神なぞないし。

 

次に観る演劇のテーマが争いだからちょっと考えている。結局それぞれの当たり前の衝突なのかなとか。

 

やれやれ。

 

もう少しやんわりして。

 

寺田さんの言葉はとても良い。確か物理学者だった気がするけど、そんな人が、自分は植物を知らなくて、定期的に通っている避暑地の植物の変化に感動できるとか。人は植物と言えばどういう形かくらいしか分類していないけど、花が咲いているのを見ると新しいものが世界に生まれたと認識してしまう、これは無理くりで人にも類推できて、個性も花開いてみないと観測されない、みたいな。

 

たしかタイトルは猿とあひるだったか。あひるは子供の方が潜水能力高いとか、なんだか日常の風景描写に近いものを感じる。あるのは動機ではなく興味関心。やんわり人一般に対する毒があるところも。

 

芸術家と科学者の話も面白かった。創作と研究は突き詰めると通底しているらしい。僕はどちらでもないからなんとも言えないけれど、直感が世界を進めるというのはなんとなくわかる。

 

 

人間とは未知なるものも終わった。次気になっているのは、自分が死んだ後のことは自分で決めなさいという帯がある本。確かに死は誰も正解を持ってないことだし、色んな答えの類型が宗教で示されているから、選択肢としては自由だなって。

 

これは生きているという観念とセットであって、生きていることが唯物性に囚われているなら、死は無だろうな。素朴な僕は確かに更新を観測できないという意味では唯物的ではあるけど、人の存在は誰かに刻印されるものだから、その余韻は存在としては継続であって、僕が唯物的に退場したところで、全部退場できる訳ではないよなと思う。案外好きな人は宝石として一生持ってくれそう。知らんけど。

 

他人の存在が刻印されていないなら、それは。

 

後から後から、読んでくれという本が並んでいるから、世界に飽きない。

 

だからとて現実世界から逃避している訳でもなく。現実的な人一般にも、具体的な個人にも同じくらいに普通に興味はある。

 

無いのは、自分にとって都合が良い世界を想定も現実化もできないこと。

 

おしまい。

 

皆さん良い夢を。

 

おやすみなさい。