特異点

 

 

 

アプリの話。だいたい土日でやったら飽きてきているから今回もそうかと思ったけれど、なかなかよくできている。どこかの言語を翻訳アプリに通しただけのような語彙なのだけどそれがなんとも雰囲気を醸し出していて。文字が良く分からないからやり方も適当だけど、いい加減なんとなく分かってきた。

 

特異点で一回リセットになるという演出も好き。人間が誕生すると生物の進化とは別に文明の進歩ルートが出てきて。産業革命辺りから凄いことになる。今は、超人とか宇宙に行って開発する人とかアンドロイドとかが出てきているのだけど、この先どうなるのだろう。ちなみに、生物的には人間よりワニとかトカゲの方が高尚みたい。鳥類のルートだろうな。爬虫類系列の人類も誕生するのだろうか。だとしたら戦争になるな。

 

この時代がちょうど特異点なのか。今までの時代と完全に違うのは、人間に匹敵する知能を持ちうる存在が現れそうなところ。声掛けに応えて適切な答えをくれるくらいだけど、自分で考えるようになったら人間は置き去りだと思う。肉の縛りがないから。

 

常識とは思春期までのうんたらかんたらとアインシュタインさんが言ったらしいけど、たしかに自分の無意識にこびり付いた正解らしきものを払拭するのはとても大変。

 

肉の縛り。

 

卵を買うのを忘れた。物忘れかとちょっと気になったけど、優先度が任意的になりつつあって良いことかもしれない。卵を買い忘れた分はきのこ三種のレンチンバター醤油ゆかり和えでリカバリー。タンパク質という意味では代用できていないけど、おかずという意味では。あと、らっきょうってなんだか臭くなるイメージがあるのだけど、お弁当に入れて大丈夫だったっけ。

 

 

そういえば、戦争も肉体を流用したシステムの衝突というか、共喰いみたいなイメージ。そもそも戦争についての法律がある時点で、そういうことを前提としている訳で。肉体の内と外の境界は皮膚で、国家間であれば国境線で、この内側と外側は別の存在である。自明だろうというのは唯物論的な考え方で、僕もまぁだいたい正解だろうなとは思う。

 

でも、国だって別に人間より高次の存在が造ったものではなく人間が創ったシステムでしかない。昔は為政者の権威を神様から貰ったとすることで信用を得ていた訳だけど、それが国民の委任ということになった。要は、規模が大きい個体みたいなもの。だからなんだということはないけど。

 

なんかスカイ・クロラを思い出すな。森博嗣さんを知る前に映画で見たのが先だったような。戦争に国民を消費するのはもったいないから、戦争用に人間を造るみたいな。いや、ほんとはもっとよく分からない話だから、気になる人は原典に当たりましょう。

 

システムというのは秩序だから、ホメオスタシスにもかかっているのか。

予測できる世の中という外が安心に直結する。内側も予測できているのだろうか。

 

人間とは未知なるものを読んで、目から鱗が落ちた人が居るようだったけど、僕にはそこまで新しい情報はなかった。福田さんの演劇入門の方が情報量は多いかも。演劇はもっと観に行くべきかもしれない。

 

情報といえば、表現の自由を何故保障すべきかという議論で、人間は情報の生物だという前提がとても好き。ここで言う情報は知識としてのものではなくて、これによって人格形成ひいては言動に影響があるという意味。他の生物は体験でしか行動は修正されないけど、体験の外からも採り入れることができる。

 

だから人間が他の生物より圧倒的に繁栄できたのかもしれない。

言葉の伝播性。

 

情報とはすなわち表現物。自分が言いたいことを言える権利みたいに捉えているのはちょっと違うような気もする。

 

あぁ、そうだ。伝言板で書けなかったから、ここで書いてやろう。僕が昨日書いた「元気そうで良き」というのに対して、「この声掛け苦手です」と返されたことについて。

 

苦手な理由としては決めつけだろうとのこと。これを返された僕は、こっちが元気そうといっているのにって腹が立つべくもなく、ちょっと嬉しくなってしまった。ドМではなく、あぁこの人も厳密に考えている同士なのかと。

 

言葉足らずは伝言板が僕だけに30文字制限してくるからしょうがない。あくまで僕の語用だけど、その人が主観的に元気かどうかは問題としていない。たまたま構ってくれたことで僕の世界において存在確認できた&僕のような優先順位が低い人に返信できるということは時間的にも精神的にも余裕があるのだろうな=元気そうであることが観測されて良き。

 

だから、変な話、当人が本当に元気かどうかなんて僕には知る由がない。分かったら元気そうじゃなくて元気だねというはず。現実的に接している人には遣わないな。元気そうに見えたことを表現するのであれば、なんか良いことありましたか? になる。

 

要は、抽象的語彙になるのは繋がりが抽象的だからということであって、別に決めつけてはおらんぞよということでした。あれ、だとすれば現実と等価に見て貰っているとうことか? 

 

基本的に語彙って相手に合わすものだとしている。

 

なんかふと思ったのが、僕が酔っぱらいながら書いているのは素面にこびり付いた常識を更新する意図があるのかもしれないとか。日中飲みたいって一切思わない。

 

確かに素面の唯物的常識論でこれを書くのはハードルが高すぎる。

本音よりさらに外、内、底、にあるから。

 

時間がやばい。

 

昨日、絶頂的に酔っぱらっているときに、恋文で、そういうことされると抱きしめたくなると書いた。

 

そういうこと=匿名的アクセスだから、ほんとにこの人なのかは全く分からない。前提として空想的に過ぎる。でも論理的には書けなくても直感的には腑に落ちてしまう。

 

さらに、抱きしめたくなるだけど、物理的にというのは当然含んでいるとしても、本質ではない気もする。

 

精神的抱擁ってなんぞや。

 

物理的な抱擁の概念と引き直すとなんとなく分かる。

 

物理的抱擁は、相手の物理存在を認知するとか体温が移動することによって他者を感じるとか、自分が相手を抱きしめているということを相手に認知される意図がある。どうしようもない枠である皮膚の接触

 

じゃあ、精神的抱擁とは。

 

宿題にしとこう。

 

では、皆さんが元気でありますように。

 

おやすみなさい。