オルゴール

 

 

アイロンの熱気が心地良い寒さ。

 

じゃんけんで決まる世界を横目に自転車で坂を下ろうして、あ、左手の握力の効きが悪いと思う。ブレーキではなく。崖から落ちそうになりこれ死んだなと思ったところで目が覚める。

 

自転車にもここ数年乗っていないから過去の記録なのだろう。通学経路を思うとよく死ななかったものだ。坂道を爆走していたし、何回かずるずるになるくらいこけたし。一回原付でほんとに落ちたこともある。でも骨折は自我が芽生えるぎりぎりの3,4歳の時に2メートルくらいの高さで落ちた以来ない。確か。痛かったことは覚えていないけど接骨院の風景は再現できる。

 

子供の自分の命への無邪気さというのは凄いな、っていうと形が変わっただけであんまり変わらないような気もする。他人を巻き込みうる無軌道性がなくなっただけ。

 

 

ちょっと現実的なところに戻って。

なんだか、後輩さんそろそろ辞めそうな気がするなぁと思った。事象もあったけど、雰囲気の方が強い。職場の上層部からの。人当たりが良いだけでも良くない。もう1人もいつまで耐えられるのだろうとか。まぁ職場はここだけでもないし。

 

戻ってきて。サボテンをBGMにしたことから、ポルノグラフィティ昔よく聞いていたなぁと思って、聞き返すのではなく頭の中で再生してみた。いくつか歌詞付きで再生されたり、鼻歌唄ってみたら最後まで出てきそうだったり、サビだけしか出てこなかったり、なんだかんかんだ覚えているものだなと。

 

この試みのせいなのかおかげなのか、別の昔も再生されたりして。

 

ここで思ったのは、自分って、自身のメディアプレーヤーというかレコードという意味での再生媒体よなと。過去が自分の一部だと捉えられる人にとっては記憶になるだろうけど、もはや過去は他人事だと捉える人にとっては、1人きりの映画館みたいなもの。実際に聞き返したり見返したりしなくても、音も映像も、その時の五感も再生される。これこそVRみたいな。

 

 

一生忘れらないだろうなという黒歴史は、僕は他人の骨を折ったことがあるということ。小学校低学年のどこか。ポケモンが流行っていた時期で、ピカチュウのパロディでアゴチュウとからかわれたことに腹を立てた僕は相手のことを蹴ったのだけど、それがたまたま手の小指に当たってしまったというエピソード。今だったら警察沙汰だけど、そんなこともなく。この相手とその後に接する時はずっと罪悪感があった。

 

刑法上は精神攻撃に対する物理的な反撃は正当防衛にはならんからな。

 

別にこれだけじゃなく、僕と近くなった人は一生レコードに残される。たわいないエピソードでいうと、中学何年かの別に好きででもなかった人との雑談で、髪を洗うときは指の腹で洗うんだよみたいなこととか、休憩時間で誰か達が学校のベランダ? で雑談をしていて話に入れない僕は寝たふりをしていたのだけど、寝たふりすんなよって同級生の男の人に言われたこととか。この人のフルネーム覚えているけど、この人もなにかと当たり強くて苦手だったわ。

 

ほとんど関わってなくても名前とか顔はだいたい再生できる。なんだかんだ3年も共同空間に居たのだから。

 

これって、自分にとっても他人にとっても全く意味がない。人の過去のエピソードを聞いていると自分にとって何か意味があったことを開示するのが通例だけど、意味を持たせるために改変するという習性も否めない訳で。でも、人に自分の過去を語るとき、何か意味がないと語れないというのは分からなくもない、話として面白いかとか。個人的にはこの水準で過去語りされたら垂涎物ではある。

 

意味があったことというキーワードで意識が自分の記録をエゴサしているのかな。このエゴサーチは一般的な語用のはず。

 

素朴な語彙になってきているから、よく分からないことになってきていると思う。でも、あまり知ったことではない。というのがきっと本来の世界の見方なのだよな。

 

言葉といえば、睡眠が最高の対策法と、空腹が最高の薬というタイトルを並べたリブロの店員さん誰か知らんけど好き。

 

そろそろ本題へ。

 

フロムさんとは普通に対話している。その愛って、隣人を愛せよというキリスト教観念だったらどうなるだって疑問に思っていたら、隣人への愛は友愛なのだと答えてくれた。

 

確かに分かるのだけど、それにあえて「愛」という言葉を当てる必要があるのかという再反論がしたい。あくまで好感の延長としての意味に読めてしまう。

 

例えば、未熟な人は相手に愛されているから愛するだけど、成熟した人は、貴方を愛しているから必要だとなるらしい。フロムさんと直に対話できるとすれば、この必要ってどういう意味ですかって聞くと思う。

 

自分の生活圏内に含めたいということですか、だったら、愛の観念としてどうなんですかって。その人を通して世界全体を受け入れるみたいなことを書いているけど、どうもちぐはぐ感がある。

 

反論できない人の言葉についてあれこれ言うのも良くないかもしれないけど、だからこそ言えるということもある。もしかしたら当人は完璧に見解を書けたと思っているかもしれなくて、そこに対して疑問を投げられたら逆上するかもしれないし。

 

母性愛と父性愛の違いも書いていたのだけど、僕の育ちの問題なのか、どうも分かなかった。

 

曰く、母性愛は無条件で、父性愛は条件付きとのこと。ほんまかいなと思ったのが、無条件の愛が自分が自分であるだけで愛されるとのことだけど、いや、それはその母親の子供であるという条件が付いてないかというところ。

 

だから、これを無条件な愛と学習したら、特定の近い立場へと注ぐものとなって世界全体への愛には至らないと思うのだが。なので、僕は隣人を愛せとまでは言わず、どれだけ嫌悪感がある人でも積極的に排除しないようにしましょうに書き換えた方が世界は平和になるのではと思う。

 

そもそも自分の世界に居ることが条件になっているのに、全体をどうこう捉えるのは矛盾であるのではフロムさん。

 

これを言い直すなら、愛しているけど自分の生活圏内には必須ではない、にならないか。条件付けられていなくても観測できることの方がまぁまぁ愛っぽい。

 

だとすれば僕は愛を振りまいていることになるな。

 

そういえば、僕は人のことを知りたいと思うけど、知られたいという欲求は全然ない。自分の秘密を知らせたら人と近くなるという感覚が全然分からない。開示されたら近しく思ってくれているのだろうなとは思うけど、この近さって階層的にどうなんだって。

 

この階層で分かるのは、あくまでその人が現実世界でどうなのだとうことでその人そのものでもないと思う。今まで何人かこの関係で過ごしたことあるけど誰一人分かったことがない。

 

だからなのかな、誰かと接している時、この人の世界に間借りしているだけだろうなという感覚が払拭できない。いずれ通り過ぎられる季節みたいなものでしかないのだろうなって。

 

僕は忘れないけれど。

 

 

では。

 

外気の変動に負けませんように。

 

おやすみなさい。