時空間

 

 

 

理容院に課金してきた。ヘッドスパ気持ち良かったな。想定外に顔剃りのメニューも付いていて、小学生時代に通っていた地元の理容院を思い出す。たぶんもう潰れている。

 

平日に来たわ、いつものカットだけのメニューではないわで店員さんにびっくりされた。有給消化の休日なので奮発してみました、と答える。ホットペッパービューティーのポイントを使ったことで、おみくじに当たればまだオフがあるということだったけど、当たらなかった。それでよかった。まぁポイントを利用されることで加盟店にも何かのメリットがあるのだろうと予測する。

 

店長ではない方だったから話が弾んだのも良かった。存在として認識されていると思える人との関わりは楽しいものだ。本当はヘッドスパって免許要るのですか、みたいな仕事の話をしようと思ったのだけど、レトロゲームと漫画の話が終わらなかった。

 

ゲームオタクだとは思っていたけどそれ以上でしたと言われた。確かに高校・大学時代までそれしかすることがなかったから憑りつかれたようにやっていたかもしれない。でも、それほど感情移入はしなかった。あくまでゲームはゲームである。漫画には移入はできるけど。

 

ちょっと思ったのが本を読む効用、いや副作用は、こういうことも再現できること。話している最中に次々と掘り返される。無意識で発話されるその時の感情はきっとほんとのものだろう。

 

あと、人が誰かを近いと感じるのって、自分の歴史が共有できるところにもあるだろうなと見て取れたから、円滑な関係のためには、こういう相手の話と合わせられるという意味の記憶力は社会人のスキルとして大事なのだろうなと。

 

記憶力って翻せば自分の過去に興味を持っているかみたいなところがありそう。読書は本を通して自分の世界の範囲を識ることだから、なんとなく近い領域にある。あくまで僕の話。

 

ただ、僕がこの人に好感を持っているのは全然そんなところじゃなくて。まずはほんとに僕の話に興味があるのだろうなというところ。別のことで、この仕事をしてなかったらこれを知ることはなかったと言っていたのも良き。世界が内側にしかないことを知っている。

 

あと、大雨が降った後近所の公園の砂場に裏手の山から石と流木が流れ込んで子供達が遊ぶときに危ないから早朝に片づけているらしい。いや、これは確か店長さんの提案だったか。店長さんとはまだまだ近さを感じない。これは逆に考えると仕事だから仕事の枠で接しているというプロ意識なのか。

 

人一般に興味があり過ぎてあまり近くに居られないのかもしれないなと思ってきた。単なる行きつけの店員さんでこれだけ文字化できるのだから。情報量多すぎて大変。

 

僕は無関係に僕の中身を知ろうとしてくれることに、お、と思う。なんだそんな人居るのかって。だから、たまたま癖(ヘキ)の一致で、無駄に心地良さを感じているだけなのかもしれない。下の名前の読み方を聞いてくれたことは一生忘れないと思われる。

 

ともあれ。

 

これでテンションが上がったのかなんなのか、連休中2度目の電車2駅のちょっと大きめの本屋さんに向かう。お目当ては今年版の小六法と、インターネットの仕組み本。小六法は買いたかった出版社のものがなくて、おい、法律業界最大手がないってどういうことだと。あんまり法律学のところに力入れてないのは目に見えるの。まぁ話題にならなきゃ売れないよなと思いつつ、もしかしたら、書店業界の大手と通販業界に仕入れを買い占められてしまったのかもなと思った。大きいと言っても全国区ではないし。会社法の改正もあったし、界隈で話題になり過ぎてという面もあるのかと勝手に想像して、しょうがないなと。

 

インターネットの方は、グーグル先生にちらっと聞いたらIT業界に勤めている人が入門書のまとめのブログを参考にして、自分の読解力と相談して決めた本がちゃんとあった。はしがきと冒頭を立ち読みして、インターネットの歴史から始まったから間違いないと決める。

 

新しいものを習得することはもちろん時間を消費することだけど、それよりも大事な原動力はほんとの興味だと思う。何かの為にそれを知らなきゃならないでは駄目で興味を持ったタイミングに合わせてご飯を用意するだけ。

 

プロトコルとはなんぞやという入門の入門なのだけど、とても分かりやすい。情報を伝達するための約束事とのこと。コンピュータは人間みたいに空気を漠然と読む能力は(今のところ)ないから、意味を通すために、通るための共通認識を先に規定しておかないといけない。言われてみれば確かに。そんで、人間自身の疎通ともそんなに変わらないよなと。

 

もっと簡単な本も紹介されていたけど、簡単な本って結局概念の枠をイメージできるようになるだけだから、グーグル先生で事足りる。ちょうど良い。

 

フロムさんの前に、ペルソナ3の実況動画を見ていたらユングさんの心理学が出てきた。個人的無意識と普遍的無意識の話。個人的無意識は体験が蓄積されたところで、抑圧が夢としてくるものであり、普遍的無意識は、どんな人にも同じような原型があるということらしい。

 

まぁどちらにせよ、自分が意識できない自分の話よね。自分を内側で抑圧していたら何かしら外に対して不具合が生じる。

 

ちなみに本日の夢は、アメリカ(と説明されていた)の総合宿泊施設でマスクの紐が切れてやばい、追い出されるとか、夢の中で寝て夢を見て尿意に耐え切れず漏らしたところ夢に戻っても漏らしていたとか(この現実では漏れていなかった)。最後は高度が滅茶苦茶高い石造りの施設で、雲の形が綺麗だなって思って話しているのだけど、その建造物の一部が欠けて下界に落ちて行って、何なら人も落ちた。それで、僕は目を逸らすのだけど、他の人は、誰かに当たらないかな、当たったらヤバイなって観測している。自分だって落ちうるのにって起きたら少し触れていた。二度寝の夢率はひどくて楽しい。

 

一体何の反動だ。

 

フロムさん曰く、真に宗教をしている人の精神年齢は8歳くらいで、資本主義社会を偶像崇拝している人は3歳くらいらしい。なんの暴論かって思うかもしれないけど、素朴な僕としては分からなくはない。まだ宗教観からの人間の方が人間に近い。

 

資本主義って、個人の人格であることと物ないし財産の所有を連動させている。封建社会だと、人も土地も領主の所有だったことから解放されて自由になったという建前だけど、結局所有の観念からは離れられていない。良いとか悪いとかではなく、特に個人的な価値観ではないということ。

 

物を所有することって、民法から持ってくると、排他性と処分の自由がある。自分だけの物だと社会に主張できるし、捨てたり売ったりするのも自由。という観念が前提とされると自分の社会の外に居る人なんて尊重する必要がない。この社会における約束としての接続が契約になる。雇用関係とか婚姻関係とか。ただ、この社会的な繋がりって自分を含めた人を道具扱いしているよなと。道具という意味は、交換できること。

 

それなら、宗教観でいう、人は皆固有で神への信仰として善行を積むという方が、人観としてはまともであるなと。

 

で、愛の形としても発展段階で、偶像崇拝とか母性愛・父性愛信仰みたいな話があり、僕の好きは偶像崇拝ちっくだなと一瞬思い、いや、別に崇拝はしてないなと思い一蹴した。別に期待もなんもない。そもそも、好意に基づいて自分の行為を規定していないし。

 

信仰の定義は、信仰対象の狭義に従って自分の振る舞いを規定すること。クリスマスとかお盆はそうだろうな。

 

本を読むことで僕は明らかに世界が鮮明になったのだけど、そこまでするメリットはなかろうと思う。僕はたまたま自分の思い出も知識も財産とはみなさない人格だったからよかったけど、断捨離してもどうなのだろうとか。

 

唐突にプルーストさん。

 

「われわれの社会的人格なるものは、他人の思考の産物なのだ」

 

この通りだと思う。もしかしたら自己観測で社会的人格自体を意識的人格としている人も居るかもしれない。もちろん他人を観察して人格を形成するときはこの通り。現実的に観測された所作から想像するしかない。

 

今日散髪行って思ったというか楽しんだのが、他人の中に存在している自分の人格を更新させること。なんか面白い。別に僕は自分の人格を規定とはしていないから他人にどう規定されようがどうでも良いのだけど、こういうのが交流なのかなとか。

 

だいぶ長くなったのでここまで。

 

幸せでありますように。

 

 

おやすみなさい。