あるなし

 

 

 

なんとなく「歩く幽霊」を聞き返してみて、カラオケで歌ったことに対して貴方は酷い人だと言われたことの意味が分かった。確かに辛辣で苛烈なところがありとても嫌な部分である。普遍的無意識の原型でいうところのシャドウよな。これを克服したいという裏の衝動もあるのか、ないのか。

 

さて、本日の夢の第一部はスーパーファミコンが出てきた。そりゃそうだ。個人的無意識に収納された思い出を会話で掘り下げたし。まぁ今更してもすぐ飽きそうだから。

 

第二部はよく分からないSFチックな物語。異質な植物が繁殖してきて、追いつかれたら終わりというのは自明だから、我が家の裏山を登って逃げている。そうしてドラ〇もん的なオーバーテクノロジーで大雨を降らせてその植物ごと川というか海に流すのだけど、エピローグ的に宇宙からきたウイルスに感染していたのだとか言っていた。

 

一度寝で起きた7時前、二度寝をしようとしていたら隣から洗濯機を回す音と、掃除機をかける音が聞こえてきて、こんな朝早くからやめてくれと思ったけど、朝早くから家事ができることは健全なのかもなと思い直す。ただそういうのは壁薄いここでじゃなく一軒家か防音と洗濯機が部屋の中にある場でやってくれと思ったことは否めない。次住むところはそういうも考慮に入れよう。ここはただ安ければ良いで選んだ部屋だから。ただ、次はいつあるのだろう。

 

どうせ寝られないからと、実際にもぞもぞする訳でもなく官能的な妄想をしていた。行為後のけだるげで親密な空気のためだけに。これならもしかしたら寝られるかもと思い。なんというか、熱量的な情動があんまりないなと我ながら。

 

4連休明けの仕事は暇で眠かった。もう1年以上経っていて平日8時間勤務だけど、逆に時間が止まっているような場だなと感じる。何というか、そこに行けば8時間は確実に経過して、その中で主体的な時間は余り経過しないというような。

 

帰り道。相変わらずお月様は見当たらない。全然姿を見せてくれないのだけど。

 

徒然草で、月には慰められるというフレーズがあって、どんな時代な人もそうだったのだろうなぁと納得し、では月は何かに慰められるのだろうかと擬人化してみる。僕が月を好むのは、光に熱がないから。こういう無関心に照らしてくれるところが存在を見てくれている気がして。

 

 

さておき。

 

存在論に対する僕の思索もある程度かたちになってきたので小括的に書いてみたい。ここで書けるのかという感じだが。

 

 

社会的人格 ← 素朴な人格 ← 無意識の海

 

 

簡単に図にするとこういうことになるのだけど、矢印の向きはもっと双方向というか磁力的なものかもしれない。

 

ともあれ、社会的人格というのはプルーストさんのところから持ってきた。このタイミングで読まなければよく分からなかったと思う。思考の産物というのは、物理的肉体を通した知識を見ているとのこと。要は社会的場の振る舞いの集積における評価値みたいなこと。だから、周りのまなざしによって決定される割合がとても多い人格。

 

もちろん素朴な人格が社会的人格も決定しているという見方もできる。素朴な人格をまるっきり社会的場に持ち込むことなんてないから、ここは社会的人格への期待値と言えるかもしれない。もっと社会的良い人格として評価されるべきだみたいな。

 

そうして、素朴な人格はなんぞやというと、社会的な場に持ち出さないところも含めた自分が意識できる範囲の主観的な人格。ここには外には出さないけど自分の中には在る観念とか感情とか価値観が入ってくる。

 

おそらく人を社会的人格として見るのが一番簡単。振る舞いで決めつければ良いし、社会的に良い人格悪い人格でおそらくきっちり分けられる。関係を市場価値として捉えるのはこの文脈だと思われる。場としては最も広い領域をカバーできるし無難である。

 

 

素朴な人格は私生活にかかる部分で、この文脈で自分のことが把握できていると思える人が、相互理解が至上だというものさしになるのだろうな。ここも現実的なふるまいだけど、内心の開示も含まれてくる。信用に足る人の内心の開示は真実とみなすみたいな、ちょっとローカルルールがある。

 

ここまでは自分というものが自明であるという前提ありきの考え方。もちろん肉体が滅びれば意識も無意識もへったくれもないけど、肉体的な個人はあるようでなさそう。

 

無意識の海はややこしい。別に心理学をそれほど掘り下げたことがある訳でもないから何か学問的な後ろ盾があるような言説とは読まないで欲しいのだけど、これが世界を決めているという説。あとスピリチュアルでもない。

 

社会的な人格も素朴な人格も世界は客観的にあるものだとしているけど、だったら、その客観的世界において、何が目に止まるとか、何が現実なのかを決めているのは誰なのか、いや、そもそもその選択肢はそもそもどこから来ているのかという話。

 

選択するためには選択するカタログが用意されていないといけない訳だけど、そのカタログは自分でほんとに意識的に決めているのか、となる。選択ってもともと選択肢がいくつかあるところが前提となってないか。

 

選択肢自体が決められたものなのではないのかというところで想起されるのは、プラトンイデア論。人が現実と思って見ているのは、洞窟の中で焚火に照らされた虚像だという話。

 

イデアという真実の観念は頭の中にしかなくて、現実は捉えらないという話だったかな。現実は真実ではないというは脳科学的にも証明されている、のだっけ。まぁどうでも良い。

 

本筋は、無意識の海が外界を通して現実をもたらしているということ。何が現実なのかの世界の範囲決定はここがやっている。自分が思いを及ぼせる範囲がすなわち客観的世界の枠。

 

 

 

ところで、現実と現実感が別のものだというのは、だいたいの人が体感していると思う。

 

フロムさん曰く、現実は自分の中心での経験でしかないとのこと。これもなんとなく分かる。ただ、フロムさんは修行したら良いって一方的にのたまう啓発本ちっくでちょっと苦手な熱量がある。面白いのだけど、友達にはなりたくないなと。

 

これも当たり前の話だけど、自分の中心が相手の中心とは限らないということ。

 

最後に存在だけど、これも矢印のどこに置くかだと思う。だいたいは存在って肉を伴ったものだから、素朴な人格のところに置いているはず。他人だったら社会的人格か。

 

僕はというと、自分の存在を無意識の海寄りに置いているから、他人の評価もここを前提としている。どれだけ可愛かろうが人当たりが良かろうか、人のことが分からないもの=存在としていないのは感じてしまう。

 

自分も他人も分からないから面白い。

 

では、おやすみなさい。