人は自分の為に在るものではない

 

 

人の本質への接し方を考えていた。

 

 

さて、どこから書くかな。

 

最近続けて書いている人格の話は、抽象的にみえるかもしれないけど僕にとっては生活的というか実際的なこと。人が何をもって人としているかと、僕が見ている人像が全然違うみたいだから、自分の視点の為の覚書。おかげですごくすっきりしてきた。

 

でも、別に僕が何かを判断するための基準ではないという注釈。自分の判断は割と自分が勝手にやっていて、それが意識できるカタチでやってくるというだけだから、僕の内部は全然変わっていない。

 

あと、世界の諸々は、時間と空間と関係という抽象的要素でだいたい収まる。

感情ってまさに空間を前提とした想念よね。場としての自分にとってどうか。

 

例えば、居酒屋の店員さんに高圧的な人って、自分が主賓である場面を前提としているから高圧的でありうる。逆向きの親密感でも、空間の占有時間が長いとか場において安心・安全であることが学習されていないといけない。

 

社会的時間に自分の時間を調律できないのも時間がずれている証左なのだけど、当たり前に客観的時間が在るものだとしている。素朴な僕はほんとに曜日とか暦とかどうでも良い時間を生きているから、今が何年の何月何日何曜日とか、自分が今何歳かと気にしていない。

 

でも、社会時間に調律はなんなく合うし、誰かとの待ち合わせではあんまり遅れない。相手が遅れる人だったらそれに合わせるかもしれないけど。ここが関係の話だけどややズレた。

(可能性的デートの時はやや遅れた)

 

もはや何事も不具合なく生きている人なんていないと思っているけど、外から見て安定しているように見えるのはこの軸が当たり前な人なのだろうな思う。

 

僕が法律学を選んだのはたまたまだったけど、世界への入門編としては適切な教材だったのだろうなと、今となってなんとなく思う。客観的基準は恣意的で在ってはならないし、まさに時空と関係の学問だし。あと、理由はいくらでもつけられるのが世の中というのも分かる。ただ、つぎはぎの理由ではなく、一貫性が必要だから個人の中の理由付けと比べればかなりの縛りがある。老舗の権威みたいな歴史の重みなのかどうかは知らない。

 

今となっては、人はそれほど時間も空間も関係も気にしていないなと思う。いや、主観的には気にしているのかもしれないけど、主観的基準は誰かを規定することはできない。この基準だとこうですが、どうですかってお伺いを立てることくらいしかできない。そうして、この基準は全然主観的ではなかったのが僕の基準。

 

素朴な僕の基準として、フロムさんは今日読んでいてなんだかにまにましてしまった。曰く、何かを信じるためには信念と勇気が必要だということ。その価値観が一般的になるまで継続するべきだとか。

 

いや分かる。分かるのだけど、なんだか揺れている感じ。そもそも自分を信じることに他人の承認って要るのかという疑問。

 

自分への愛が必要で、自分が自分であること、自分には芯があることを信じるのがそれだって、ほんとか。

 

僕は自分が自分なことには疑ったこともないし、信じたこともない。あくまで関係とか環境の中で自分が自分で居られないというのはあったけど、ここに愛が必要なのか。

 

芯って、そうあるべきものではなく勝手に在るものとしか思えない。

 

笑ったのは、「根拠あるビジョン」が必要だっていうフレーズで、スタンドだって。根拠ある信念と根拠がない信念の違いも面白い。根拠ある方は、自分が自発的に時間と労力をかけたものらしい。

 

あと、可能性を信じられることが愛だとか言っている。これも分かるけど、例の対象が幼児だったのがなんとも幼稚な感じがある。なんだか、自分が優位で高尚だという関係的自己感が見えてしまう。

 

僕は僕の素朴な捉え方でしか世界を見ていないから、権威とか歴史の重みとか知ったことではない。あくまで対等にしか人をみない。年齢とか立場でしか優位だと思えない人はノーサンキュー。

 

愛について語る人が居たら、フロムさん程考えたことあるのかと問うてみたいところ。客観的であるべきといいながらあんまり客観的でないところが好ましい。あくまで主観から離れられなかった。

 

確かに考えることによって人格に変遷があるというのはあると思う。ただ、この考えるが内側によったときというような気もする。

 

僕の話。承認欲求がそもそもないけど、自己肯定感がないとも違う。ポイントカードは持っているのにレジ袋はほとんど毎回買うみたいな。なんというか、自分が世界から肯定される必要あるのかという感じ。

 

僕はまぁまぁ全人類的にその人は在っても良いという薄い肯定感はあるし、古本に線引きとか蛍光ペンでなぞった痕跡の人の方が、生活圏の人より本質に近いと思う。

 

関係ではなく何を自発的に想ったか。

 

関係の縛りはとても大変。思い込んでしまう。

 

 

で、冒頭文の人の本質との接し方。

 

自己観と同等に相手を捉えること。自分が自分であることは自明かもしれないけど、自分が世界に現われるのは意識したときということに共感できるのであれば、相手は自分の世界の一部ではないと捉えるのがほんとうの対等。

 

ここまで厳密に捉える必要はないけど、祈りを嬉しく思えるって、他人の世界に関係とは別に自分が在ることが分かる人なのだろうな。

 

要は、その人のことを想っている間だけその人が在るということ。

 

僕は好きな人は平均16時間くらい考えている(概算)

 

では。おやすみなさい。