感度

 

 

 

雨に濡れた金木犀はとても映える。朝、水分補給の為に自販機に伊右衛門を買うために外に出たときに思った。伊右衛門、ちょっと小さくなったな。

 

寒い。もうコートが必要なのでは。そういえば、気温の変化に過敏になるのは、適応力が衰えたからだという説が、統計的データと一緒にあったな。ただ、僕は、どちらかというと、小さい頃は気温以上に気にすることがあっただけではという気がする。世界が変化しなくなると気温くらいしか外界の変化を感じる事象がないという意味。

 

そうして、夜ご飯の買い出しに向かう頃には雨が止んでいて外は真っ暗だったけど、雨上がりの金木犀の存在観の方が凄かった。匂いが問答無用。

 

金木犀が気になるのは、実家の母屋の下に植えられていたから。他にもサルスベリ百日紅という漢字良いな)、びわ、圧巻は樹齢何年だっていう紅葉があった。紅葉はほんと凄くて、登れるし、座る場所もあった。そこにブランコを作ってもらったり、妹がとがった石でぱっくり足を切ったり、時代によって風景は変わるけれど、この紅葉はきっとまだ在るはず。

 

昨日の恋文はやらかしたかなと思ったのだけど、読み返してみると特にこれといった執着的感情が読み取れなかった。越権行為のような気もしないでもないけど、なんだか大丈夫な気がしないでもない。ただ、これって何の根拠もないし思い込みでもないから不思議な空間だ。

 

ちょっと置いておいて。

 

僕が自分の精神性を現実から逃避させるために本を読んでいるのかというと、全然違う。一瞬の非現実の体験を現実とするほど現実が肉体に寄ってないし。現実感と現実を一致させるための能動的試みでしかない。微睡んだ世界を生きたくはないというだけ。

 

まさに現実の結晶の法律学ですら、世界を観念的に見ている。世界は観念的だと捉えられないと思って居る人も自分は観念的に捉えているような。

 

不当利得の本は終わった。ほんと面白いのだけど、これを共有する為には、ある程度の法律学の土台がないといけないので省略。

 

債権という言葉は債務と一緒で=借金みたいな一般的感覚だろうけど、この概念も面白い。

 

経済的交換の時間軸に間隔があることができるようになって初めて生まれたのだろうなと。もともとは物々交換だから約束に法的拘束力なんて要らなかったけど、貨幣とかインフラの整備によって空間的な約束に時間的な誤差が生まれたからできた創造物。法的生産物は全然自然ではない訳。自然っぽいルールもあるけど、そこは道徳がやってればいいのではという感じ。

 

物権の方がとても分かり易い。人が物を所有するルール。物とは有体物というややこしい概念があるけど、要は、空間に在る物をどう使うかということ。

 

人工物と捉えることによって理解が進むという自分の中の話。何故何処で渡すのかが問題になるのだろうみたいな。素朴な僕は規定を規定と認知できなくなくなっているから、いちいち考えないと記憶から離れた自分にはならない。

 

概念ではなく、人をこういう風に捉えようとすれば理解が最上級なのだろうなというの分かる。素朴な僕は理解って自分にとっての対象の構造分析であって、人をこの枠に置くのは物扱いだと思うけど、お互いが物扱いであれば問題はない。

 

 

では、本題。

 

 

ユング心理学において、自分とは辿りつくものだという観念はとても納得できる。トラウマとか夢診察も、抑圧がなければ在っただろう可能性的人格を問題としている。まぁもともとがカウンセリング的な治療法の中で生まれたものだし。

 

自分の本心というか本質を探るための方法論として対話があるらしい。ふと出てきた本音をお互い探りあうという医師も患者に影響を受けるというなかなか大変なやつ。

 

僕は常々自分と対話しているから、自分にとって抑圧だったのは他人が自分を決めつけることだというのは発掘した。あとは一般論的諦観とか知ったことではないというところ。1人が楽だけど、怠惰ができるからではない。怠惰に流されるのがとても嫌なのだと。

 

まぁ、個人的無意識との対話は、個性とかそういうものではなくてその人の枠の中で自分がこう在るというものを見つけるものらしい。だから自分を鮮明することがすなわち世界の鮮明化だけど、微睡んでいて自己観が得られるのであれば別に啓発する気はない。

 

対決という文脈で言えば僕が三角関数とかベクトルを再履修しているのも自分を取り戻すみたいなところはある。

 

そうして、フロムさんを1回目読み終えた。愛の概念自体はさっぱり分からなかったのだけど、たぶん自分の世界ではなく他人の世界も当たり前に同じようにあるってことなのかね。

 

それよりもええなと思ったのは、人を愛するためには「能動的」に生活しなきゃならないというところ。毎日を自分の五官をフル活用して過ごすのが大事らしい。弛緩するのは寝るときだけ。素朴な僕はこれを読んであぁそうやって生きて良いのかと学習した。

 

能動性とはなんぞやというと、確証がなくても動くこと。フロムさん的には自分が愛しているのだから、相手も自分のことを愛するのだという信念をもって動くことらしいけど、これはとても気持ち悪い。物の所有の観念から離れられてない。

 

確かに、人が物理的な肉体を前提にしている以上、空間的な近さを求めるのは否めない。例えば頻度が多ければ多いほど近いとか。

 

僕は人の存在をてきとーには見てないから、自分にとってどうか一般的にどうかでテキトーに括られることにかなり嫌悪感がある。

 

これが生活が長いだけで近いと思っていた人達を断捨離した根拠。

 

でも、これって価値観を更新したわけではなくて、もともと在ったものでしかない。

 

この文脈でいうと素朴な人格に感情が必要ないというのもよく分かる。感情自体は刹那のバイオリズムでしかないから、自己観とはほとんど関係がない。

 

 

では、おやすみなさい。

 

祈りが嬉しいというのは、自分の存在が他人の中では想起した時にしか居ないという自覚があるということなのか。

 

関係なく勝手に祈るけど。

 

おしまい。