沈殿

 

 

 

フライパンを使わずメインを作った。白菜がちょっとだけ安かったしあまり食べてなかったから購入したのだけど、フライパンで炒めるのもなんだかなと思い、レンチン蒸し。アルミホイルがあったらフライパンで作ったが。

 

晴れたからほんとうは丸善に行く予定だった。確実に目当ての小六法はあるだろうし、ちょっと気になる本も何冊かあるし。しかし、本を買う方より本を読む方に能動的になるべきだとか、他諸々の理由で断念。まだまだ能動性が足りていない。二度寝もしても良い。が、その後があんまり良くなかった。ちなみに生物進化のアプリはアンインストールをしている。こういうのでは暇が潰せない。

 

スーパーに行ったら直前で財布を忘れたことに気付く。携帯があるから楽天ペイをダウンロードすればワンチャンと思ったけれど、セキュリティコード3桁を覚えていなくて駄目だった。記憶力不足。

 

さておき。

 

今日はなんとなく思考が低活動な感じ。だからとて、考えないということはできない。なんというかフロムさんの言う能動性って愛することの基礎というより、僕にとっては人生の最大限の暇つぶしみたいな感覚。人は愛することを恐れると書いていたけど、僕は愛されることの方が怖いと感じる。ちゃんとした愛に出会っていないからかもしれないけれど。なんの条件もなく与えられることって、どう返したら良いのだって思う。

 

コンビニのくじとか、自販機で当たったらもう1本とかは、購買意欲を刺激する経済的な目的がある。ファミマのくじでほうじ茶と微糖のコーヒーが当たっていたのだった。あげる人が居ないから交換しないまま捨てそう。ここを気にするのも世界への受動性よなと。自分がキャンペーンを利用していると思わせて、本当は余計に買い物しているみたいな。ポイントが付くから加入するとかも、長い目で見れば企業の利益になるからやっている訳で。

 

それを自覚した上でしているのであれば問題はないけど。

 

そうか。世界への能動的な関わりって自覚なのか。

 

 

僕はかつて世界史の横断問題がさっぱり分からなかった。この国がこういう情勢だったとき、他の国の情勢として正しいのはどれかみたいな。歴史の意味が分からない。年表的時間感覚が元々備わっていないというのもある。自分の歳も多分これだろうなというくらいな感感しかないし。

 

でも今プルーストさん読んでいて、ウェルズさんのタイムマシンの描写が出てきたことにおーって思える。この人もこれ読んでいたのかって。史学は具体的な人の歴史を知ろうとすることに似ているなと。ただ、なんというか汎用性はないような気もする。広く人を捉えれば、結局のところいまここの受動的世界の繰り返しっぽいし。

 

受動性とは世界も自分もこうに違いないという感覚のこと。そういう人は外界の変化に適用できないみたいなことをフロムさんが書いていたけど、なんとなくわかなくもない。いや、自分の本質とか相手の本質については変化がそうそう起こらないとかも言っていたな。何が違うのだろう。

 

この人は経験則上こういう類型の人に当てはまるという判断は受動的な気がする。情報によって変化するのだから。だったら人に対する能動的関わりってなんぞやというと、相手の普遍的な部分を知ろうとすることかと思う。これってあれこれ質問したところで意味がない。社会的関係でも素朴的な関係でもそこまで相手のことを知らなくても対応可能だし、相手もそこまで自分を掘り下げたくないと思う。

 

だから、能動性はあくまで自分の世界の中で行うことであって、関係ですることではないわなということ。関係の中でお互いが自分を掘り下げてないといけないという条件が満たされていれば在るかもしれないけども。

 

一般的時空間も結局は人が分かり易いように切り取っただけだから、真実らしくないのだよな。村上さんの小説で、誰かとの空間を頭の中で半分にしていって最終的に手の中に納まる箱になったという描写があったけど、まさにこんな感じ。時間も空間もあくまで主観的なものでしかない。

 

時空間といえば、演劇が好きな理由って書いたっけ。建築の美が効用に根差していて、建築と演劇が似ているというところから。演劇の効用は、一般的時空間から離れた場所に観劇者を連れていくこと。そうやって非現実に連れていくことで、時空間軸は1つではないということを伝えて現実を際立たせる。映画とかにも似た効用はあるけど、演劇は観劇者も作品の一部だからやや違う。

 

ともあれ、こういう恣意的に作られたら現実という時空間の虚構性を皆無意識で自覚しているから、現実がつまらないということになっているという疑問はある。不自由なのが現実だとか、ままならないとか。

 

確かに時空を画一化するって考えなくて良いことが増えるからそれなりにメリットもある。自分の肉体が置かれたところの判断で良いし、距離感も分かり易い。

 

存在で考えるとこの時空ってほとんど関係なくて困る(今日まさに困った)。

ここでいう近さは、時空を容易く超えてしまう。

 

まぁこれも、肉体的に接した人のことがちっともわかっていなかったという経験則にある。もっと厳密に言ったら親しき関係において人の中身なんてどうでも良いという世界。人も建築物みたいなもの。

 

まぁいいや。

 

恋文書こう。

 

では、おやすみなさい。

 

元気でありますように。