知識

 

 

人を知るってなんだろう。生い立ち、思想、肌の感触、諸々の現実的・物理変化。情報が多いから、長く過ごしているから、その人を知っていると言えるのか。ほんとうの人は、そんなとこに居ないのではないか。

 

というようなことを徒歩出勤の時考えていた。頭を回すのは本とかお勉強より、自分の足で歩くこと。ほんとは歩くために歩くのが一番良いけど、そういう貴重な時間は日常にはない。健康のために歩いている人はよく見かけるけど。

 

夢は同窓会だった。厳密には会と言うより、僕の歴史を遡っただけのような気がする。中学時代の同級生から、1個下、二個下までに生活してきた人達がいっぱい出てきた。だいたい名前付きで再現できるのだけど、その人の名前とセットで記憶を取り分けられるということが、その人を知っていたという証拠にはならないよなと。個別的な記号化とは言えるけど、知っているかどうかに関係ない。

 

これって記憶力ではなくて、単なる他者性でしか見えてなかったからだと思う。この解明度は大学以降一気に落ちて、また鮮明になってきているけど、名前はあまり関係ないという気もする。名前としての取り分けではなく、中身の方が大事。

 

そういえば、認知バイアスの本をまた立ち読みしたのだけど、人は、自分の行動の理由を状況にするけど、他人の行動はその人の人格に還元するという研究結果があるらしく、なんとなく分かる。不公平だけど、相手はそういう人だと人格を規定してしまえば、相手のことをそれ以上知らなくていい。自分のことは分かっているから機微も慮れる。当然の格差。

 

でも、これって、その慮っている自分は他人にはそういう風に認知されないとセットでないといけない。当たり前の話。自分が他人をショートカットするのであれば、他人からもショートカットされることを受け入れないといけない。

 

良きにせよ悪きにせよ、理由なんてあるようでない。かつての僕は人に理由を求めたけど、人が語る理由なんて結局当人の為の後付けやからな。

 

例えば、浮気されたとき、然は傷付くと分かっていたのにしてしまったって懺悔されたのだけど、だったらどうするのってことにしかならない。

 

ここはもう通り過ぎた観念だからもうどうでも良いけど。最終的に僕に求めることしかできなかったから、この世界から離れるしかなかった。それとは別に幸せで居たら良いなぁって無関係に思う。

 

憎しみは全くないけど覚えている。もう関係することはないだろうなと思うけど、楽しかったこともちゃんと残っている。時系列でこのタイミングにしか居なかった人ではある。この時の僕はほんとに求めていた。求めていた自分も一部だから、他人に責任は転嫁しない。

 

 

ひょんなところで、演劇入門が面白いことを言っている。

 

「言葉と話し手の距離を保ち、その距離を絶え間なくさせねばならないのと同様に相手と造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず変化させる能力があらねばならない」

 

言葉と自分が癒着していないようにするのはとても大変だ。

 

 

そういえば、通勤路にある田んぼは刈り取られていた。鴨の観察はできないままに。あと、お月様は半月でやっと顔を出してくれた。あと、金木犀の花の枯れ方の美は今日初めて自覚した。花が真下に落ちて地面をオレンジに色づける。

 

そうか、徒然草も面白かった。

 

手紙のやり取りで、雪が降った時は、雪について言及しなきゃならないという常識があるなか、兼好さんはうっかりなのか自覚的なのかその前提を外してメッセージを送ったら、相手から、雪に言及しない常識はずれな人とはもう関わり合いたくありませんって書かれたとか。確かに一定の敷居を跨ぐ人しか関わらないと設定する人は多い。

 

あくまでローカルルールなのに、とは思うけど、おそらく世界を楽にするための試みなのだろうな。この文脈ではどれだけやっても楽にならないけど。」

 

そろそろ本題か。

 

人を知るというのがあくまで外界としての人だとすれば、情報が増えれば増えるほど、人のことを分かったことになる。あくまで自分とは別の人としての抽象化された、生きるためのノウハウとしての人。自分にとってどうかでしか人を見ないのであれば、自分のことを顧みずに相手のことが分かっているというある意味宙ぶらりんな連結関係が生まれる。

 

これっておそらく、人と自分は別概念だという前提があると思われるのだけど、素朴な僕としては、当然人には、自分も含まれると認知される。

 

僕の文脈だと、自分を知る上限が他人を知ることができる上限で、自分が分からない以上、相手のことはいつまでも知ることはできない。

 

たぶん、知るって所有の観念とセットだと思うけど、自分を所有していないなら他人も所有できない。

 

僕が思うに、自分を知っていると思って居る人ほど自分を知らないし、相手のことが分かると思っている人ほどわかってない。

 

そうじゃなくて、自分がどうしたいかで世界を見る必要がある。

 

僕の話だと、好きな人が現実的に近い空間に居ることを求めることにはあまり意味がないような気がしている。いや、確かに発話は気になるが。

 

 

結論。ちゃんと自分になっている人は、他人からの賞賛を自己肯定感の原動力にしない。

 

おしまい。